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「文化財を残す意味」と文化の伝え方について私なりの回答。


文化財を残す意味とは表現に尊厳を持って振る舞うことで自己を癒すことが出来るから。そしてその想いを次の世代に引き継ぐことに意味を感じるから。


気がついたらCOVID-19と共に生きて1年以上が経過してしまった。私はマレーシアに住んでいるので日本より比較的中国の情報が早かった。新型肺炎という言葉を聞くようになってから大体1年半が経ったと言えるだろう。

1年前は「2020年の混乱は今年一杯。来年には世界は戻っているだろう」とどこか楽観的だった。しかしその楽観はことごとく打ち砕かれていった。そして私たちが予想していなかった状況が次々と襲ってくる。その中でも私の中で一番しんどい言葉がこれだった。


「文化財を守らなかったら何が困るんですか」


先日、あるツイートをみて私は愕然とした。


ちなみに私は親子鑑賞を続けて14年である。なぜ親子鑑賞を続けているのか。それは異世代を繋ぐ橋として文化が必須であり、その橋を行き来することで自分とは違う世代を思い出し、その文化と共に違いを楽しみ、お互いを思いやることが出来ると自ら体感しているからだ。

文化とは「自分と違う他人の表現を尊重し、そこから感じた思いを表現者を尊重しながら批評し合う行為」だと私は考える。そこに不要不急もお金儲けの定義も必要ない。重要なのはそこではない。表現に対して尊厳を持ち合う。それこそが文化ではないかと思っている。


例えば。このCOVID-19の感染の世界ではよく「外食規制」の実施が行われている。Barやカラオケなどが営業できない状況になっている。ちなみに私は自炊大好き、一度にたくさん食べれないので外食が苦手&コミュ障なので会食で挙動不審になってしまうことが多い。Barもカラオケも東南アジアに転居してから全然行っていない。


でもだからといって「Barなんてなくなればいい、家で飲めばいいじゃない」「カラオケなんてくだらない」なんて思わない。なぜならBarもカラオケも「文化」だからだ。自分が好きじゃないから、いらないから世の中から消滅していいと思うことは断じてない。


しかし、このCOVID-19において「文化」は感染症の拡大の名の下に「選別される」ようになった。「この文化は感染症の拡大の可能性があるから自粛してください」が平然と言われるようになったのだ。この「感染症の拡大の名のもとに他者からの強制的な停止」は「感染症の名の下に」が取れ他者からの強制的に停止だけが残っているのが現状だ。不要不急でないから、お金を生み出さないから、全ての人に必要ないから。ある人には大事なものかもしれないけど、私たちには大事ではない。だから排除してもいいのではないか。という理論が平然とされている。


どう考えても、危険だ。


友人のお嬢さんがバレエをずっと頑張っていたのだけど去年、COVID-19の影響でバレエのリアルなレッスンがほぼできない状況が続いたそうだ。するとあれだけバレエに夢中だったお嬢さんが「バレエやってて意味あるのかな」とか「ずっとなくならない仕事って何かな」と聞いてくるようになったと聞いて私は心の中で号泣してしまった。


なぜ、若人が表現したいという気持ちを素直に出すことができなくなってしまったんだろう。それは「今はダメだから」という行為の中の世界にしばらく閉じ込められることで「ダメなんだ」「ダメだからやっちゃダメだ!」という概念に子供自身が染まってしまっている部分があるのではないだろうか。


そしてこの「ダメだから」の気持ちは人との直接交流がないと本当に危険な兆候を生み出すことをすごく実感している。人間自身が人間と直接触れ合わないとこの「ダメだから」感が暴走してしていき、積極性が著しく欠如していく。自分で情報を収集して自分でどうするか「実際に行動する」ことを思いつかなくなる。


次世代の若者にこの「実際に行動する」が欠如するのは非常によくない。なぜなら世界が二分化してるからだ。欧米や中国のような大国、特にアメリカと中国は国民にワクチンを打ちまくっている。その結果国民は「ワクチンを打てば行動してよし」感覚に移行している。もちろん「ワクチンを打てば行動してよし」ではない。引き続き感染対策は必要だ。ただ「行動してよし」マインドを再び獲得した層とやりあうためには「感染対策を意識しながら行動するべきだ」環境にしなければ絶対に、勝ち目はない。


私自身が「子供は登校すべき」を言い続けるのはこの理由からである。テストや成績をつけるのなら行動を伴う環境(別に対面だけにしろと言ってるのではない)を用意して彼らの実際に行動する環境を整え、心身をリハビリすべきだと切に思っている。そのような環境を用意しないと彼らが社会に出るとき、先に行動すべしマインドを得た層に叩きのめされて終わるだろう。


そう、現在は、私たち大人が若い世代を守っていると同時に弾圧を加えているのが今の世界なのだ。5年後、10年後の世界、子供達や若者たちがどうなるのかを思考が明らかに足りない。考えてもらってない、未来がないと子供達地震が思えばそりゃ絶望もする。子供や若人の自殺の増加が止まらないのは絶望故と考えれば納得だ。そりゃそうだ、夢も希望もないって思ったら絶望するしかないじゃないか。


ちなみに、マレーシアでは「子供を外に出すのが怖い」と言う親御さんがまだ少なくない。彼らが恐れるのも当然だと思う。感染のリアルな実情や症状の情報が掴みにくい、新規感染者の数字がリアルカウントでない、感染対策と政治が綿密に結びついている、そして肥満だと感染したら悪化するというデータ(なのに運動嫌いで炭水化物大好き)。そりゃ外に出るの怖いよね。。。


こういう時に一番やってはいけないことは対立である。正直、対立なんてしてる暇ないと思う。今、それぞれの世界の動向を決めてるのはその国の一部の大人。そして一番割を食っているのは若者や子供達。状況を決めてる大人は既に多くのものを得て、そして自分たちがさらに得ようと企んでいるひともいる。そんな一部の大人の思惑に、多くの子供や若人の未来が犠牲になっている。


そして同時に、既に持ってしまった持ってしまった恐怖感。これが行動を阻んでいるのだ。これから私たちはどうしたらいいのだろう?


そこで私は思うのだ。そんな時こそ文化の出番ではないかと。自分たちが不要かと思っていた文化も、かつて別の世代では一世を風靡したものは少なくない。自分たちがなんだこれ?と思うような文化表現も数々の時代を生き抜いて、今ここに存在している。今、生きていて本当に苦しいと思うことも多い。希望を感じられない気持ちになることも少なくない。だからこそ先人の文化表現に触れよう。そしてその表現の向こう側に先人に想いを馳せよう。知識やキャプションは読みたくなったら読めばいい。事前に知らなくても全然構わない。まずはその表現の前に実際に立ってみよう。先人はきっと文化表現を通じてあなたに囁いてくれる。


「色々大変みたいやな。前も大変やったけど、なんとかなったから、きっと君もなんとかなるよ」


その囁きを聞く環境として私は美術館、博物館などの文化施設は必要不可欠だと思っている。人類が次の人類に生き抜くために、必要なが文化だと思っている。そして文化を保存し、継承する施設が必要な理由がもう1つある。それは「美術館、博物館は文化を触れる行為を次の世代に紡がせるための場所」と思うからである。



私は子供と一緒に美術館に行くことが多い。それは私がコミュ障故ママ友コミュニティに全く馴染めなかったため、美術館に行くようになった、というとても後ろ向きな理由だった。美術館がなかったら、きっと私はまともに子育てができなかったと思う。そして親子で美術館に行く行為は親だけでなく子供自身の中でもとても大きな刺激となっていった。


子供はいつか大人になり、自分の世界を形成していく、その際に、ぜひ文化表現に自分の発見した新しい方法で触れてほしい。その方法の発見は文化に触れる数があればあるほど新しい方法が数多く見つかるはずだ。そして自分の人生で出会った人と表現に対する想いを交換し、共感し、関係性を深めることが出来るだろう。そこで新しい家族が築かれる事もあるだろう。そこでは異なる世代と様々な文化表現に触れる機会が生まれるのだ。母親の私と観た作品に出会うことあるかもしれない。その際に母親と観た時の感情の上に、新たな関係性とともに想いが上書きされるのだ。表現にとってこれほど嬉しいことがあるだろうか。自分の表現が人と人との関係性を新たに紡いでいくのだ。



私は「子供と美術館に行くのは教育のためですか」と聞かれることが多かった。そのような質問をもらった時私はいつも同じ答えをしていた。


「自分の葬式を楽しくするためです」


だいたい質問者は「???」と言う顔をする。そこで「文化に触れることが日常の家庭だったらきっと葬式で集まったら最近見た展覧会の話とかになりますでしょ。その時に自分ことを忘れて親族同士であーだこーだ盛り上がったら楽しいじゃないですか」


COVID-19と共に生きる世界になってから「近くにあるかどうかわからないのに身近に感じる恐怖」が本当に身近になった感が半端ない。もちろん恐怖はすぐそこにあるのかもしれない。でも実際近いか実感ができない事も多い。その場合、益々心が混乱する。

日本人的に分かりやすい例えだと「大地震があった後の復旧の時の心理状態」に似ている気がする。もしかしたらまた地震が来て全部壊れるかもしれない。壊れないかもしれない。この「◯◯かもしれない」と思う気持ちに足を取られて自ら落ちてしまうかもしれない。


この迷いの気持ちがガチしんどい。本当にしんどいのだ。


そんな時こそ文化表現。文化に触れることで心を落ち着けよう。先人は人生の先輩だ。戸惑い彷徨う私たちに優しく囁いてくれるはずだ。「大丈夫」って。


ちなみに2011年の3月3日に私はこんな日記を書いていた。この8日後に東日本大震災が起きた。

私たちは先人に「大丈夫」といってもらうために、文化財を大事にいかなければならないと想いを新らに持つべきだ。私たちが次の世代に世界を引き継ぎために。