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現代芸術を広めるために日本の美術家が行うべきことを鑑賞者目線で提案してみるー2冊の美術家の本を読んで感じたことー


日本の現代美術家は書籍を出すといいと思うの。


 子供の突然の入眠に遭遇したことがあるだろうか。私は、ある。思い切り遊んだ後に突然入眠するという子供にはあったことが、ある。遊び疲れた状態で食事をしてスプーンを持ったまま寝るなど、疲労からスイッチが入る入眠は大人から見るととても可愛らしい。それとは違う、明らかに違う突然の入眠に遭遇したことがあるだろうか。それは「やりたくないことをやらさせる」「食べたくないものを食べさせられる」「遊びの仲間に入れてもらえない」時に突然眠る子のことだ。最近の例では「オンライン授業が始まると寝る」という幼少の子がいたという話を聞いた人もいるだろう。

 私の子供は私が産んだのかと思うくらい聡明な部分がある子だったので、相対的に見ればとても育てやすかった。でも、もちろん辛い時もあった。単なる食あたりでもその時は死を覚悟するくらい痛いように。その際にある保育士さんに言われたのが「子供がその場で急に寝たら、それは逃亡欲のサインでもあるので驚かないように」。お前は何を言ってるんだと私の頭の中のミルコ・プロコップが呟きかけたが、私はすぐに現実を知ることになった。幼児、特に男子は「急に眠る子がいる」。
 私は事例として男子しか見なかったけど確かに「この場から離れたい」という欲望と「自分は逃亡出来ない」という現実を理解していると、自分が現状からできる逃亡手段として「寝る」を行う子に逢ったことがあった。

 本当にいきなり寝るのだ。最初は突然倒れたのか?と思うくらい焦った。そのくらい急に寝るのだ。その際先生が「首の横を触り顔を見て寝てるだけかそうじゃないかを判断して「寝てる」と判断すると寝かしているのを見てほおおと感心した。

 そうか、入眠は逃げる手段なのか。。と感心したことをよく覚えている。同時に「逃亡の手段を選択できるってすげえな」と感心したことも。当時の私は逃亡を選択する行為そのものが出来なかった。今ならきっと出来るけど。


 西荻窪にあるTOMO都市美術館で松田修くんの本を出版記念パーティーが行われると聞いた。

親子で松田修ファンとしては行かないわけは行かない!と出向いた。


(ちなみにサムネのカレーは松田君とTOMO都市美術館のトモトシ君が作ったカレー。美味しかったです☺️)

行った際、松田くんが1冊の本を抱えていた。「しんごくんも来てくれるからサインもらおうと思って」。
 しんごくん。。って?と思い本を手に取らせてもらう。あ、あの金川晋吾さんじゃん!


往来オーライで松田くんの隣で展示を行なっていたのが金川晋吾さんだ。人の歴史に向き合う展示は考えさせられた。そして往来オーライに関しては自分の中で「往来って何よ」「往来が再開されたからってオーライで済ましていいの?」という気持ちもあった。人の歴史は前だけ見てていいものじゃねえだろうという気持ちがあったからだ。それは私がコロナ禍をマレーシアの厳しいロックダウンの中で生活していたってのもあるのだろうけど。

 金川さんは予想以上にそよ風のような人だった。穏やかな微笑みと優しい声。初めてお話しするはずなのにどこかな懐かしさを感じる空気感の理由を探す気にもならないような感じ。ああ、素敵な人だなあと思った。本をパラパラと読ませてもらうと松田君の本当は明らかに文体が違ったけど、同時に同じ空気感も感じた。
 松田君はゲラゲラ笑いながら「家族って同じテーマを書いてるのに真逆なんですよ!ウケるっしょ!」とのこと。「この二人はね「森美の販売力舐めんなよ」という場を放棄した二人なのよ。往来オーライの展示の期間に間に合わなかったのよ」と無人島プロダクションのディレクター、藤城さんに笑い飛ばされながら笑顔で笑ってビールを飲んでる二人を見てますます興味が湧いた。
 私はこの二人の「購買の場を逃した美術家の本を読み比べる」という誰もやってないことをやってみることにした。帰宅してすぐ、私は金川さんの本をアマゾンで買った。プライム会員なので本は次の日に届いた。


 この二人は「しょーもな父親に対して独特な親近感がある」「母親に対して絶大な信頼感がある」という印象を受けた。二人のお父様が時々消える様を拝読した時、私は幼児男子のいきなりの入眠を思い出した。逃亡の具現化だけを実行する行為だと思えた。そして父親の消える様への対応を綴った文章は突然の子供の変化にどう対応しようか試行錯誤してる近隣者の想いのように感じた。二人とも同時に父親の死を意識しながら、父親に対して「生きていてほしい」という思いを持ちながら「でも何かあったらしょうがないかな」的な独特な距離感があった。この距離感をとることでご自身が生きるためのバランスを保っているようにも感じた。

 同時に、これが書籍の感想であることに感謝した。本を読んで私はそう思ったんだから!と声高に言えるのが書籍の良さだなあと救われた気分になった。

 
 私はただのアート好きのおばちゃんである。美術の専門家ではない。ただちょっと記録の仕方が独特で長かったなだけで、その独特さを面白がってくれる人に出会えたという幸運を持っていただけだ。

 私がより強く惹かれる美術家さんにはある一つの特徴がある。それは「言葉がぐいぐい引き込まれる」ことだ。今回2冊の美術家の本を読み、それぞれを並行して読み直して感じたのは「日本で現代美術を広めるためには本の出版が一番いいんじゃね?」であった。
日本で現代美術を鑑賞する際、いや、現代美術に限った話じゃないんだけど「よくわかんない」が一番感じられる感想ではないか。そしてその「よくわかんない」を知られることを日本人は極度に怖がるから広がらないのでは。という感覚があった。私自身が日本の現代美術を子連れでリアルに鑑賞を始めた大きな目的は2つだった。「出かける場所が欲しかった」「赤子が一緒に出かけることが主目的だったので理解するしないよりも「面白ければいい」だった」。
その結果私は「よくわかんなくたって楽しければいいじゃない」と思えるようになり、私の中で「理解しなきゃ」という概念は消えた。

 本という媒体を買う際に「全部理解しなきゃいけない」「全部理解しなきゃ買う価値がない」と思いながら買うだろうか。読み終わったとして、全てを理解できなかったとしたら落ち込むだろうか。書籍ってそもそも「この部分が面白かった」とか「この言葉が面白かった」というけど別にわからない部分があってもそれはそれって切り離せる。そのような感覚を持てるのが書籍だ。
 現代芸術の作家は現代だから、生きている。彼らが作り出した作品についてのステイトメントなどを読んで理解できない、と落ち込むこともあるだろう。でもね、でもね、書籍を読んだ時って全部理解出来なくても別に落ち込まないよね?だから現代美術家は書籍をどんどん出してほしい、ちなみにネットの連鎖じゃなくて書籍がいい。美術家の文章をオンラインで読む行為はオンライン鑑賞に少しだけ似ている。もちろんそこに出会いや驚きはある。でも、リアルにはリアルの驚きと感触があるのも事実。その事実に向き合いながら再考して、そして「全部理解できなくてもいい」と諦めることこそ、何でも調べたら正解があって当然という昨今の風潮に立ち向かえるのではないか。

 私はGW。この2冊を読み、この二人の美術家と話し、そして並行読みを行った。そして「商業的な機会に間に合わなかった二人」の美術家は本をじっくり拝読すると「無意識に間に合わせなかったのでは?」という感想を持った。この二人の美術家の自分と自分以外の人間に対する距離感について実際のトークを聞きたい。二人の話を聞いた後だと、この本を買いたくなってくると思うよ。