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「人の発音を笑うな」


「人の発音をその人の前で揶揄してはいけない」それは親として子供に強く伝えるべきと教えてくれた先生がいました。


ちなみにタイトル、これにかけてます。良い本でした。


メラニア・トランプさんの党大会での演説についての女優のベッド・ミドラーさんのツイートが炎上したそうです。それはこのツイートから。

メラニアさんは元々はユーゴスラビア人。

そして明らかに「お話しすることが好きではないように見えます」。そういう人が自分が望んでいない立場で、世界中の人に自分の母国語じゃない言葉で長時間話さなくてはいけない。その心情の辛さはいくら想像しても足りないでしょう。


私は米国に住んでいないし、選挙権もない。なので「大統領夫人」としてのメラニアさんを安易に批判も援護もできないなって思っています。彼女には彼女なりの考えがあると思いますし。



でも、でも「お話しするの、本当にしんどかったろうな」は想像できます。なぜって。私、英語で話すことがすごく苦手だからです。本当は何語でも嫌です。でも日本語は母語だからまだ出てくるのでなんとかなる。でも英語は本当にしんどいです。


自分が望んだ環境でもないのに、自分がやりたくないことをやらされる。そして世界中から色々なことを言われる。「あの人、まだ英語喋れないのね!」って笑われる。私もよく笑われます。こちらも苦笑いで答えます。そんなの笑って流せって?ええ、流しますよ。流します。でも辛いに決まってるじゃないか!


ベッド・ミドラーさんは謝罪したそうです。


謝罪をしてくれたのは嬉しかったです。そして言われた方がすごく傷ついたこと、全然わかってないっしょって同じようなことを何度も言われた私は感じました。嫌な気持ちも何度も何度も思い出しました。まあ思い出しただけですが。


そして私は東南アジアに転居時、息子の学校の英語の先生が言ってくださったことを思い出していました。偶然ですがこの騒動の数日前にツイートをしていました。


シンガポールでは息子は豪系のインターに通っていたのですがそこには一定数アジア人も通学していました。主に中国とその他って感じでした。そしてそこのESL(ESLとは"English as a Second Language"の略であり、日本語では一般英語などと呼ばれています。つまり、英会話においての基礎、文法・リスニング・スピーキング・リーディング・ライティング・語彙力など総合的に勉強を教える場)の先生は生徒たちに「人の発音を笑ってはいけない」を徹底的に教えてくれました。


息子はマレーシアに転居した際「お父さんはオーストラリアにいる豪人なんでしょ?」と何度も何度も聞かれるくらいの英語力がつきました。その影響で私がオタオタした英語を話すと「変えましょうか?」と言ってマンダリンに変えられたりして「余計わかんねえ」と更に混乱に落ちるという状況も何度も体験しました。

息子は少なくとも私の前では私の発音を揶揄しません。困ったら助けてくれます。お前もっと努力せえっというのは本当にそうなのでこれはもう土下座ものなのですが「発音がひどい人をその人の前で揶揄しない」は意識として身についているようです。本当にありがたいと感謝しています。


ちなみに息子さんは私が書籍中毒故、本は沢山あるので日本語も英語もどちらも高校生レベルとしてはほぼ完璧に読み、話します。ただ日本語の漢字はタイプは出来るけど手書きはできません。それでいいと思っています。


出来ることを喜び、それを活かせばそれでいいのです。


でも人によっては、そうも言ってられない場合があります。メラニアさんなんて「あたしこんなの望んでない!」って毎日5000回くらい叫んでるんじゃないか。そして現在の彼女に心から親切に指摘をしてあげる人はとても少ないのではっ思います。


それは「どうせ英語もまともに話せないんでしょ」って彼女を根本的に揶揄する人が彼女のまわりの多数派なんだろうなって私は思うんです。


多数派は、少数派のできない人を揶揄することで安心を得ようとします。団結のきっかけを作ろうとします。そして「自分はそれを言われても別に平気だもの!」と自分を正当化しようとします。ベッド・ミドラーさんはまさにそうですよね。そりゃ彼女はアメリカ人で、白人で、シリアスもコメディもこなせる女優で、富裕層なんだから「アクセントを揶揄われたくらいジョークっしょ」って思ったのだと思います。


女優としては3度のエミー賞、4度のゴールデングローブ賞、2度のトニー賞を受賞、歌手としても3度のグラミー賞を受賞って最強だな。そりゃ少数派の気持ちなんて想像できないだろうな。


でもそれではいかんと私は思うのです。自分が多数派だからといって少数派の人ができないことをその人の前で笑ってはいけない。


これは英語に限った話ではありません。日本語でも、どの国の言葉でも、方言でも、吃りなどの話し方、全てにおいて言えることです。これが正しい、これが美しいと定義するのはいいんです。美しい言葉は本当に美しい。それは私も思います。


でもその美しい定義は「自分たちが美しいと思っている定義」を使えない人に対してその人の前で揶揄していい理由にはなりません。そういう態度を出す人は信用を失います。少なくとも私は信用できません。


ちなみに以前シンガポールでそのような差別的な態度を取った白人の子供達に激怒した中華系の人たちが子供を恫喝しようとして騒ぎになった状況に遭遇したことがありました。サッカーの試合でした。その試合に助っ人として呼ばれていた息子はその騒動の近くにいました。彼曰く


「あの子たちはアジア人の英語は酷い。笑っていいって親から言われてる」


差別や揶揄の心は産まれつきではありません。必ずどこかにインプットがあります。そのインプットをどこかで断ち切らないとその感情は確実に引き継がれていくのだ、と実感しました。


うむ、問題の根は相当深い。語学の勉強と共に、この問題にも取り組んでいきたいと思います。


最後にもう一度。人の発音を笑うな。