見出し画像

2つの時代で続けててきたから見えてきたこと。

さて、怒涛の4月も終わり、令和の時代も始まり、その始まりを全く実感しない状態で5月を迎えました。息子の試験が今週中に無事に終わることを願っています。

そして3月、4月ととても印象に残る芸術に触れることができました。ありがたいことです。ただ、忙しさに潰れてSNSに投稿したのみ程度で息切れしてしまっていました。

見に行った展示の素晴らしさを後世に残すのだ!という熱い情熱を動かすための体力を必死にかき集めて、少しずつ記録を整理しています。それは私がやらなくてはいけないことだからです。

それには2つの理由があります。

1つ目は私がその芸術に触れて救われた!ということを文書化する義務があること。私は本当に生きるのが下手な人間なのでいつも(人の見えない場所で)落ち込み、憤りを感じ、そして涙しています。そんな私がワクワクするような芸術に会うことでどんな風に救われたか、これを文書化することで「同じように苦しんでる人が救われることなったらいい」という願いがあります。そしてもう1つ、文章化には重要な目的があります。その救われたという体験談の文書化のアーカイブは後世の文化芸術事業を援助において重要な「事例」になります。いくら素晴らしい芸術表現でも「鑑賞者からの記録」が残っていないと、それは次に繋がりません。

だから私はこんなに感動させてもらったんだから書く義務があるよねと思って書いています。

2つ目は「あなたの活動に私は救われてたんだよ。ソースは私だよ」と表現者に直接私の言葉で伝えることが重要だと思っているからです。メディアに寄稿ではない私の言葉。私の言葉であることが大事。私は知っている。日本においての芸術家たちは常に「そんなこといつまでやってるの」「これからどうするつもりなの」「将来を考えなさい」等、常に色々なことを言われ続けながら、迷いながら自分の表現を模索していることを。

人の人生について赤の他人の私があーだこーだ言うことは「違う」というのは十分わかっています。でも、同時に「私はあなたの表現に感銘を受けて明日も生きようと思った」と伝える自由もあるはずです。

だから、私は見にいった芸術表現に「すげー面白かったよ!」と伝えたい。そう思っています。

そして。

近年、私が思っている以上に私の芸術表現に関する文章が「読まれ続けている」ことに驚きと感銘を受けています。「ずっとブログ読んでたんですよ」とか「ずっと読んでたあなたのブログに書いてもらって嬉しいです」とか。

めっちゃ嬉しい。

私はつい最近まで「寄稿じゃない文章は単なる日記」と思っていました。でも、最近は違います。私の書いた文章は私が発信してる「メディア」なんだと再確認できるようになりました。

だからこそ。

自分が体験できた素晴らしい芸術表現を文章化し、その素晴らしい思いを「別の鑑賞者だけでなく表現者にも伝える」ことを新しい時代、令和でも続けていけたらいいなと思います。