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「日本語コミュニケーション」が辛いのは「日本人だから」ではなく「日本語だから」と考えた結果見えた解決策

東南アジアに暮らし4年目、国は2つ目。その間にも多くの国を訪れる機会を得ている。空港にくるたびにワクワクするし、エアポートおばさんと言われてもついつい嬉しくて写真を撮ってしまう。

この記事読んで純粋に疑問に思ったのは「え、これでそんなこと気にするの?」だった。でも、ちょっと深呼吸して冷静に考えて納得。

今の20代は、おじさん(おばさん)世代の20代と違うのだ。

私たちおばさん世代が20代だった頃、時代はバブルで週末海外に行く人も多かった。花金という定義の上、金曜の夜は金を使って同然だった。貯金?将来への不安?何それ美味しいの?

でも、今の20代はあの頃の「何がそんなに自信あんの」という根拠のない猛烈な明るさを知らない。海外に行くというのも身近なことではないと思う。

そうなると、そりゃ、うざいよね。海外行くんだぜとか舞い上がってるおっさんのラウンジとか超うざいよね。ちなみに私はラウンジとか使ったことないね。いつも自分でおにぎりやちらし寿司作って持ってくよ←これもきっとうざがられる。

そう、行動には理由がある。でも行動からその人そのものを全否定する人生は大変疲れる。

日本以外の生活が長くなるとつい「○○人は」「それに比べて日本人は」どう思う?と聞かれる機会が増えてくる。正直私はインターやローカルコミュニティで心地よい関係が多い。でもだからといって日本人は。。と言うことはなるべく避けている。なぜなら私に親切にしてくれるローカルコミュニティも違うコミュニティでは悪口を言ったりする場面だって多いからだ。そう、人間という生き物は「○○人だから」でまとめられるものではない。

私は上記で「私はインターやローカルコミュニティで心地よい関係が多い」と書いた。ここで私にとっての「心地よい関係」というのは過密な交流のある友人関係ではない。ぶっちゃけ心底ひん曲がっている私はランチ会や飲み会が大嫌いだ。目的やテーマのない人との交流は心底辛い。「一緒にご飯食べましょう」は私にとっては修行の合図だ。根掘り葉掘り聞かれるのも本当に嫌だ。(聞くことは場合によっては面白いが)そもそも自分のことを話すことが大嫌いなんだ。

現在の心地よい関係とは「ギブアンドテイクの上で心地よい距離感が保てている関係」である。

東南アジア、特に華人系の人はその距離感が私にとっては心地よい。私が仲良くしてる人たちが「芸術」「スポーツ」という共通の思考でつながっていることは大きい。そして彼らは私が何を話していいかわからなくなったりすると「じゃあマンダリンの授業だ!」と言って話題を上手に切り替えてくれる。中国語の授業になると別に辛くない。だってそこには目的がある。

私は日本で日本語で話す時にすごく緊張する時がある。それは「日本語思考というのはその時の態度や言葉と発した人の歴史の紐付けが強力すぎるので気軽に話せない」からだ。最近の日本語でのやり取りの暴力性には身の縮む思いがする。その割には痩せないけど。

しかし、ここで回避策がある。趣味思考があっているとその締め付けが幾分緩むのだ。

日本で苦しい、、と思う人はこの「日本語思考はその時の態度や言葉と発した人の歴史の紐付けが強力すぎる」から解放されるためにいわゆる「オタク」を目指すといいと思う。自分ではなく自分を語る趣味思考を前面に押し出そう。好きなことは己の身を助ける。その瞬間と自分自身の間に入り込み、己の身を助けてくれる。

そしてその好きなことを英語で、中国語で調べると世界の広がりっぷりに腰を抜かすと思う。そしてますますオタク道を突っ走ることになるのだ。