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「言えないあなた」にコミュ障の私から伝えたいこと。


ここで言えないあなたにこそ聞いてほしい。あなたはあなたのやり方でいいのです。


私は、14年以上美術館、博物館、ギャラリーに足を運ぶ生活をしている。美大出身?それとも元編集者?そんなこと全然ない。私は単なるアート好きのお母さん。ただ、ここで書いておかなきゃいけないのは「めんどくさくて目をつけられやすい、そして人と連めない人」だったということだ。


私はひとりでも基本全然平気だった。でも子供が産まれた以上、子供も一人にするわけにはいかない。そこで私が考えたのが「子連れで美術館に行こう」だった。それなら出かけられるし、出かけるたびに展覧会は変わるし、買い物みたいに散財しなくても済むから。

今では少しは環境は良くなった部分もあるけど、14年前に美術館に赤子を抱えて訪問するというのはとても珍しいことだった。そして居合わせたお客様に怒りを買うことも少なくなかった。私自身がどんなに気をつけてもダメだった。泣いてもいない、ベビーカーでもない、とにかく美術館に赤子がいるという状況を許せない人がある一定数存在していた。今になって思えば、その人たちにとって美術館というのは大人の場所であったのだろう。Barに赤子いたようなものだったのかもしれない。


怒られるのは怖い。でも私は美術館に行きたかった。なので工夫しまくることにした。近隣諸国の休日を調べ、外国人が多く訪問する可能性の高い日程を狙って訪問したり、人の流れになるべくあわないように工夫したり。


なぜなら私は「見に行きたいんです」という私の願いを私以外の人がわかるわけがないと思ってたから。なので私は常に逃げられる体制万全で美術館、博物館に通った。慣れてくると私より数倍聡明な子供は状況を理解するようになり一緒に楽しめるようになった。そして滅多なことでは他のお客様からクレームが来ることも無くなった。14年の記録はここに。


当時はsnsはまだ今ほど活性化してなかったのもかえってよかったのだと思う。


そして私は家族の都合で日本を離れることになり鑑賞の活動拠点が東南アジアに移動した。移動することによって鑑賞というスタイルが国によって全然違うことに驚かされながら、私の鑑賞生活は今も続いている。


シンガポールに住んでいた時、私は、美術館ボランティアグループに所属することになり、展覧会のガイドをすることもあった。通常のガイド以外では、日系の幼稚園の保護者様を担当することが多かった。その時の私は別人になった。コミュ障の肩書きを横に置いて芸人になって舞台に上がるつもりでとにかく楽しんで頂くことに全力を尽くした。


私の目的はただ1つ。参加してくださった保護者の方が「このガイドが終わった後、今度は家族で美術館に来よう!」と思ってもらうこと。自分たちが自分たちの方法で楽しんで頂くきっかけになってほしいと心から願った。だって私自身が美術館や博物館に本当に救われたから。


詳細はこちらにまとめてあるけど改めてnoteに書きたいと思う。


ちなみにコミュ障は芸人モードになったら本気になる。私自身、東京の小学校に子供を通わせていた頃、読み聞かせのボランティアをやっていた。その時もまさに本気出した。そしたらめっちゃウケた。当時DJポリスが流行っていたのだが「DJポリスと同じくらい◯◯君のお母さんの読み聞かせは面白い」とクラスで言われたほどだった。


あまりにウケがいいので他のお母さんに「なんであんなに上手いのですか」と聞かれた時、冗談で「元アナウンサーだったので」と言おうかと思ったのだけど、それは流石におもろないなと思い


「以前養成所にいたんで😂」


と冗談かましたと思ったら

◯◯君のお母さんは松竹芸能にいたらしい

と本気で噂になってしまい(ウケ狙っただけなのに)と落胆したことがあった。そのくらい、本気出せば面白く話した。


話を幼稚園の保護者ガイドに戻す。その後、幼稚園から直接「ガイドをしてくれませんか」と言われた時、私は喜んで引き受けたのだ(実現できた時もあったし企画で終わって時もあった)けどそのようなお話があるとき、いつも1つだけお願いをした。それは


「ガイドの他に配布物に美術鑑賞について文章を書かせてもらえませんか」


幼稚園の保護者の人間関係というのはまさに「カオス」だ。イベントが幼稚園で開催された時、正直そこには参加できるヒエラルキーを持った人だけがあつまるハレの舞台がある。私自身相当の変わり者だったのでそのハレの舞台に自分がお呼びでないことは重々わかっていた。そして更に強くわかっていたのは


「集団行動に同調できない人であればあるほど芸術に触れるべきなのだ」


ということだ。幼稚園のイベントに参加したいけど他の保護者と一緒だと参加できないな、と思って諦めてしまうような保護者さんにこそ私は寄り添いたかった。だから私はその人たちが「あ、これなら別の日にちょっと自分で行ってみようかな」と思えるような、「全部しっかり見なくても楽しかったからいいんだ」とお迎えに向かう美術館からの帰り道お母さんが笑顔になるような文章を書きたかった。そしてそのハレの舞台を自分から避けてしまうお母さんたちに全力で伝えたかった。


「あなたが楽しかったのなら、それで良いのです」


今、世の中はCOVID-19と共に生きる社会になり、オンラインの世界が一気に様変わりしている。今までだったらハレの世界に出れなかった人たちの静かな憩いの場であったオンラインの場がどんどん侵食され、ハレの世界に出れなかった人は「ここにも自分たちはいてはいけないのか」と戸惑うことも多くなってきた。


そんな時私は叫びたい。


私たちの楽園は私たちがルールを決めていいのですっ


どうかお願いだから自分が「あ、これ楽しい」と思った時のリズムを消さないでほしい。そのリズムがハレの場の舞台の人と会わなくてもいい。そしてハレの場の舞台の人のリズムを遠目で見て楽しいと思ったらそれも良きなのだ。同時に「なぜこれが自分はできなのか」とか思う必要などない。そりゃ横断歩道が赤でないと渡る気にならないというのは治したほうがいい。タバスコを20回以上振らないとパスタを食べる気がしないというのは見直したほうがいい。なぜなら命の危険があるからだ。


自分の楽しみ方は死守していいのだ、他の人の楽しみ方を見守るのは大歓迎だが他の人に合わせる必要はない。それが己の命を守る盾になる。


今、こちらの本を読ませてもらってるのだけど本当に頷くことばかりだ。私たちは本当に相手に向かって話しすぎていた。そして同時に「相手に向かって話すことがない自分は欠けてる」と思い込む風潮があったではないかと愕然としている。


生活におけるコミュニケーションを全て断絶する必要はない、でもここ近年、人は交友関係において交流や共感や承認を求めすぎている。そして求めない人を気にしすぎている。


もっと人はひとりぼっちでよくて、自分の世界は自分だけでいいのではと改めて思う。今、自分が力を入れないで楽しいって思える力加減を大切に覚えていきたいし、そのような加減にいる人を程よい距離感で見守れるようになりたいと強く思っている。