見出し画像

人が亡くなるということ、自分が死にたくなること、消えてなくなりたいということ、そして革命。


昨日、驚くニュースが飛び込んできた。



クリスチャン・ボルタンスキーが亡くなった。現代アートが好きな人なら一度は聞いたことがある名前だろう。彼の作品の持つ猛烈なメッセージ性は一度見たら忘れられない。


彼の作品表現は「死」を強く連想させる。様々な生と共に合わせ鏡のように必ず存在し、誰もが逃げることが出来ない「死」。そのメッセージ性は人によっては強い恐怖感を感じることもあるだろう。


私は庭園美術館、豊島、表参道のエスパス ルイ・ヴィトン東京、国立新美術館で彼の作品&展覧会を拝見している。


そしてアートバーゼル香港でボルタンスキーの作品が(おそらくTate Galleryだった気がする)販売されてるのを見て「一体誰が買うの。。」と呆然とした記憶がある。あんな存在感MAXの作品が家にあったら泣くわ。そしてなぜか息子がその作品がすごく気に入り、この作品を欲しい!って言っていておいおいって思ったのもすごく覚えている。そう、そのくらいあらゆる層に猛烈な印象を残すのがボルタンスキーの作品だ。


特に上記リンクの庭園美術館での展示はとても印象が強かった。自分の父の死を迎えた年、亡くなった父を思い出しながら亡くなった夫を思い出す母、亡くなった祖父を思い出す息子と訪れた展覧会で私達はある男性の死を再確認し、父であり夫であり、そして祖父であった男性の気配を確かに感じた。この展覧会は他の展覧会と比較して低評価を唱えていた方も多かったが、私の中でのすごい体験をさせてもらった素晴らしい展覧会だった。


そしてそんなボルタンスキーが、亡くなってしまった。76歳でこのコロナ禍の世界、亡くなったことを受け入れ難いわけではないが、なんだか不思議な感覚を感じている。15歳になった息子に「ボルタンスキーが亡くなったってよ😭」と言ったらこんな言葉が返ってきた。


そう、なんか彼の亡くなったというニュースは通常の人間に感じる「生きてるという行為の終焉」を感じないのだ。「身体の移動」的な別のフィールドに引っ越した感がある。(そして元々死んでてそこから作品作りに現世に時々戻ってきていた、という息子の解釈はとても興味深い。ちなみに彼は幼少の頃からボルタンスキーの作品を見る度に「この作家さんは死んでるよ」と言い続けてきた。その言い方がとても「当然で自然」な感じで言うのでなんかボルタンスキーは元々死んでいて、作品を作るために現世に現れてる感を私も感じていた。)


だからだろうか、彼の死去のニュースを聞いても「ふーん現世からあっちへ引っ越したのね」くらいにしか感じなかった。もちろんとても残念なんだけど。なんか自分も死んだら別の世界で展覧会に行けるなって確信を感じるような感覚。



誰かが亡くなったと言う知らせを受け取った時、それぞれ感じ方が違うと感じることが本当に増えた。死というのは色々な種類があるのだ。

天災や事故や病気で突発的に人が亡くなるニュースを聞いて感じる他人の「死」
その天災や事故や病気で自分の生活や歴史に関わりがあり、ニュースなどの他人事の死が自分の歴史の中にリンクする「死」
COVID-19で死が見えないけど近づいてる感を日々感じることが増えたことによる自分が関わるのでは、という想像の暴走から感じる「死」
病気や事故など自分や自分の身内が直接的に関わった「死」


ちょっとあげてみただけでも、こんなにも違う。


「死」の概念が多面的であると気づいてしまうと、自分も「死」を多面的に感じてしまう時期が訪れることに気づく。それが前回書いた「消えたい」感である。マレーシアでの重なるロックダウン(日本の緊急事態宣言とはレベルが違うのよ←謎のロックダウンマウンティング💦)の日々で私自身定期的に落ち込むのだけど、その時に瞬間的に感じるのが辛いから死にたい、逃げたいのではなく「消えたい」という感情なのだ。


人は辛いなと思う感情に浸りすぎるとその辛さから逃れられる方法の1つに「死」を考えるわけだけど、「死」を選択したデメリットすら考えられなくなると今度は「消滅」を選択しようとするのではないかと私は考える。

ボルタンスキーの作品はこの「消えたい」の感情に押し流されてしまった時「え、戻れないの」と焦った魂が現世界で見る自分の死屍のようだ。


現在のこのコロナ禍において自殺の急上昇が問題になっている。

先月、自殺した人は全国で1745人で、去年の同じ時期に比べて173人増え、12か月連続で増加しました。特に女性が大幅に増加し、深刻な状況が続いています。


ちなみにこれは日本だけの問題ではない。お隣の韓国や私の現在住むマレーシアでも自殺の問題はとても深刻だ。

今のコロナ禍の世の中では「消えてしまいたい」と諦めてしまうようなことが多すぎるのだ。


ボルタンスキーの作品は、自分が生体から抜け出た後、魂だけの状態で現世に残された体を見ている状況を擬似体験する印象を感じる。彼の作品に恐怖感と安堵感と独特の「浮遊感」を感じるのは数々の荒波から「消えたい」という人間の欲望を叶えた一つの到達点を具現化してるからではないだろうか。


その仮定だと、彼の作品世界に浸った状態から出てきた感覚も説明できる。あれはまさに「三途の川を渡り切らず返ってきた感」なのだ。独特に感じる快感と、到達点までいけなかった敗北感、でも大地で足を踏みしめてる「俺は生きてるぞ感」。そしてその感覚が次第に引いていく現実に戻されていく感覚。


まさに三途の川から戻ってきた感覚ではないか(幸いなことにまだ行ったことないが)。


コロナ禍において見えない「死」に想像が暴走する日常を生きている我々は、今こそボルタンスキーの作品と、作品が生まれてきた経緯を再確認すべきなのだ。そしてそこから此処に何を見出すかによって自分の「死」の感覚を見つめ直し、同時に死と合わせ鏡である「生」について再考すべきのではないだろうか。


COVID-19にはワクチンが最適!という論理だけが正解ではない、というのが見えてきた。でもワクチンは接種すべきという意見もわかる。でもワクチンも種類があって効かない種類があるて言うのも聞こえてくる。そして種類を選べない人はどうなるのか、とかワクチンを打つべき世代はどう選択されるのか、待たされてる人はどうなるのか、などなど「生」と「死」が個々の選択(選択すらさせてもらえない状況もある)によって変化する見えるように感じる昨今、今こそ彼の作品を再考すべきときなのだ。そしてそんな時に、彼は別の世界に行ってしまった。


ホント、ボルタンスキーらしいと言えばボルタンスキーらしいって感じがしてならない。しかも昨日はフランスの革命記念日。


個々の革命をどう起こすか、ボールは投げられた。


彼の作品を所有したら「消失と現実への復活」をいつでも味わえるということなのだろうか。絶望の諦めの場を疑似体験することによって生きることを諦めず生きていけるようになるってことか。


いや、やっぱり怖いからいいや。


ボルタンスキーさん。お疲れ様でした。あちらの世界でも作品を楽しんで作っておられることでしょう。どうぞ楽しんで制作してください。