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もう死ぬしかないって思うってこういう感じなのかもなって思った話。


死ぬしかないって想いは絶望と諦めの掛け合わせで加速する。


ここ数日、本当に分断を感じる。1月に書いたこのnoteよりもっと強い分断を。


学校に行かせる、行かせない。外食する、しない。旅行に行く、行かない。飛行機に乗る、乗らない。出かける、出かけない。マスクをする、しない。ワクチンを打つ、打たない。


それぞれの主張を持つ人たちは違う主張を持つ人と「交わらなくなる」と思っていた。しかし、現状は私の予想を行った。「分断」を望む人は同時に「分断された向こう側もこちらの意見に従うべきだ」という主張をする様になった。


これは非常に危険な気がする。理由は簡単だ。感染症は目に見えないので例え分断されても「感染症は向こう側からやってくる。だから分断の向こう側だろうが言うことを聞いてもらわなこっちが困るんや」と感じてしまうからだろう。


見えない恐怖からの逃避行はとてもしんどい。これは「ここまで逃げれば大丈夫」という安心感が得られないからだと思われる。そりゃしんどいよね。


それぞれの主張において「見えない恐怖」がもれなくついてくる昨今、益々非常事態感が強まってる感じがする。現在3回目のMCO(ロックダウン)中だけど前回2回に比べて明らかに救急車の音が増えた。そして近隣からの怒鳴り声や子供の泣く声が明らかに増えた。


この分断の思考において、全容がわからない感染症において、そして全く読めない未来において「どちらかの意見だけを採用したら採用されなかった意見の側が死ぬ」という状況と言っても過言ではない状況になっている。それくらい経済的に、精神的に、しんどい。


国民総能天気と言われることもあったマレーシアでも自殺のニュースも本当によく聞くようになったし、ラジオで「自殺防止ホットライン」や「破産で悩んでる人はここに電話して」とかのスポットCMをよく聞くようになった。明らかに「死が選択に上がる人が増えてる」。


なんかわかる気がする。分断だけでも心理的にしんどいのに、分断の向こう側から「こうすべきだ」っていう圧が随時かかり、その圧が自分の生活を直接圧迫するものだったら「なんかもう生きててもしょうがないな」って思うようになるのもわかる。私も何度もその穴に落ちかけてる。


この「「こうすべきだ」という圧が自分の生活を直接圧迫する状況」は経済的な問題が一番大きいのだろうけど心理的な問題も大きい。就職や進学を控えた学生さんの「自分の将来どうなるんだろう」とか赤子を育てるお母さんの「この子の将来どうなるんだろう」などの感じ始めた不安感からの恐怖感の暴走は始まるとこれは止まらなくなってしまう、やばい。


この感染症とのbattleに「負けない」ためには「ワクチン」と「思考が違う人と関わらない」「死なないことを最優先に「個々」が行動」位しか私には方法が思いつかない。そして思いついたとしても実行できるかどうかも危ういのが、現状。


「死なないことを最優先に「個々」が行動」は一番やらなきゃいけないことなんだけど本当に難しい。何が難しいって「個々が」という思考が許されない世界になっていること。そして許されない世界に絶望を感じてしまうこと。


そして。


誰もが未来が見えない昨今「絶望からの諦め」になってしまうと「こんな世の中なら、生きていても仕方がないのかもしれない」という選択肢が簡単に上位に出てきてしまう。自死とは「絶望と諦めの掛け合わせ」で簡単に加速がつく。そして実行し、決行した後に戻ることができない。この加速が簡単につくのが「未来への絶望」なのだ。


じゃあどうすべきか。私個人が自分の周りにできることと言ったら「明日生きてておこうかな」と思えるような環境を提供することくらいだろうか。


友達とネットを通じての無駄話が授業後に盛り上がる。好きな漫画が明日読める。美味しいご飯が来週届く。


自分の周りの人が絶望を感じた時に「あ、でも後で◯◯出来るから」の「〇〇」を増やす。自分は本当に小さな存在だからそのくらいしか出来ることがない。


でも、何もしないよりかいいよね。行動した後の疲労感は安眠を呼ぶしね。


昔、息子のかつての持病の先生も言ってたんだ。「とにかく睡眠大事」って。さあ今日もできることをやって夢で逢いましょう。