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美術館好き親子から「対話型鑑賞」が強奪されようとしてる今、私たちができることは何だろう。

気がついたら今年も半分終わってしまう。もうすぐ、夏休みだというのに全くもって心が盛り上がらない。全然心がワクワクしない。理由はわかっている。


それは「美術館に気持ちよく行けない」からだ。


このnoteは対話型鑑賞を積極的に展開している臼井 隆志さんの呟きを読んだことをきっかけに描いてみた。

「長年対話型鑑賞を行ってきた親子の親として自分は何を感じてきた、そして今何を感じているんだろう」と改めて思い思考整理してみた。


1:状況の全体像がわからないから動けない夏休み

新型肺炎の影響で私の住むマレーシアは、居住外国人は身軽に移動ができなくなった。いや、移動が厳しく制限される時期はとりあえず終わった。詳細に興味があればこちらをどうぞ。

現在はマレーシア国内なら正規滞在VISAを保有していれば移動は可能だ。しかし色々な制約もあるし、新型肺炎は予想ができない動きをする。自分たちは長期滞在VISAをもらっている外国人。無用心に移動をして拠点に戻れないという事態はなんとしてでも避けたい。よって、いまの時点ではなるべく動かないようにしている。


でも、この「閉じ込められ感半端なくうんざり」だけどな。


いつも夏休みは一時帰国していたのに、帰ることもできない。そして私は日本からのニュースに日々心乱れる。

ニュースでは都議選のニュースが流れてくる。美術館は予約制で展覧会開催に動き出している。トリエンナーレの記者会見もあった。色々なキャンペーンが行われる。旅行にいきましょう。食事をしましょう。

しかし。

午後になると東京の日々の感染者数だけが流れてくる。あれ結構多い。でも詳細がわからない。感染者が増えた!と衝撃を受けてもそれは「院内感染」「無症状」が多かったりする。一方で職場クラスターだ、学校クラスターだ、色々な言葉が流れてくる。


つまり。

情報が細切れゆえ「全体像がわからない」

もう安全なの?それとも危険なの?どっちなの?


この全体像がわからない不安は日々の生活に不安だけ連鎖する。本当、よくない。今回、このnoteで書きたいのは新型肺炎ではない。対話型鑑賞だ。話を戻そう。


2:コミュ障毋であった私を救ってくれた美術館に行けない今

私は日本に居住時代、日本式のママ友が作れるタイプではなかった。ボスママから目をつけられiPhoneの設定をさせられるようなオタクだった(昔はiPhoneの設定も大変だったのよ)。でもこそこそずっと引きこもってるわけにもいかない。私は子供とのお出かけの行先に美術館を選択し、美術館に助けを求めた。息子は私との鑑賞に本当によくつきあってくれた。幼稚園前から現在まで付き合ってくれるのだから本当にありがたい。が、しかし、これは息子からしたら逃れられない事情があったと今ならわかる。


幼少の時、うちの息子は他の人が驚くほどに美術館で注意されることが少なかった。(それでも注意されることはあった。今でもトラウマは残っている。)どうしたら幼少の子でも鑑賞がうまくできるのか、とよく聞かれた。実は私は気づいていた。「他に選択肢はない」と彼は気づいていたからだと。コミュ障で友達のいない母親が外に連れ出してくれる手段はこれしかないと。彼は私を「哀れんでいた」のだと思う。

現在私達が居住しているマレーシアのクアラルンプールは「車社会」である。中学生の彼が出かけるためには「大人と一緒でないと車に乗れない」。だから彼は私と共に美術館に向かう。(その後なら自分の要求を通すことができるから。)出かけるためにはそれしか選択肢がないのだ。



そして、現在は大人の私も身軽に移動ができない。新型肺炎の影響が各所に残る今、「気軽に移動できた幸せ」をあたらめて噛み締めている。



3:新型肺炎は従来の対話型鑑賞を親子から強奪しようとしていないか

美術館によく足を運んでいた私は「子供と一緒に美術館に行きたいけど、子供がすぐ飽きちゃって」「対話型鑑賞に参加しようとしても全然興味持ってくれなくて」と相談されることが多かった。そんな相談に、私はいつもこう答えていた。

「お子さんに他に楽しいことがあって、その楽しいことを選べるってお子さん自身がわかってるのならそれって素敵なことじゃないですか。美術館にこだわることなんてないですよ」


対話型鑑賞における満足感。親と子だと「親の満足感」の方が具体性が高い。そこには子供に対しての「楽しかったよね」という承認要求の回答の獲得。もう1つは「こんな活動をしている私って親としてイケてる」という「そこにいないけど気になって仕方がない第三者」に対するドヤ顔承認要求に対するエア回答の獲得ではないかと思う。


「子供が(対話型鑑賞のような)美術館の参加型ワークショップに乗ってこない」。この場合、私は子供に対しての改善のアプローチは必要がないと思っている。それは「その子に必要がないものだから」。他に選択肢があるのならそちらを選べばいい。極論だけど、でも自分でも子供ガイドを数年やってた身として思う。他にこっちがやりたいって選べるって素敵やん。


自分は対話型鑑賞らしきものを12年以上続けているわけだけど(言葉のやり取りがない時代も入れていいのなら13年)この「対話にする、言葉にする」ということは「美術館で楽しんでる自分を伝えたい。わかってほしい」という承認要求の一種ではないかと感じることが多い。つまり対話型鑑賞の相手(この場合は自分の子供)から「伝えたいという要求に興味がない」と明確な回答をされたのなら「はいそうですね」で終わるべきだ。


しかし、連れてきた親側としては参加してほしい。楽しんでほしい、楽しんでる私たちを見てほしい。そう思うのは私は当然のことだと思う。子育てや立ち振る舞いを「見られてる感」が強く感じる日本の保護者社会。「うちは美術館にいくんで」でという言葉で私は本当に何度も助けられた。そしてこのような特化した行動で自分の子育て世界を完結させる場合、実はもう一文が追加される。


「美術館で楽しんでる自分を伝えたい。わかってほしい(そしてこっち来ないで)


そう、そっとしておいてほしいのだ。自分たちはよろしくやってるのでこっち来んなである。しかし、私は気がついてしまった。このような特化した体験をする子育ては行動の自由が大前提であることを。


今、私は新しい恐怖に震えている。新型肺炎は今までの対話型鑑賞をかつての我々のような「一般美術館鑑賞者」から強奪しようとしていないかと。

新型肺炎がもたらした「New Normal」では訪問を暴力と思う概念が明らかにうまれた。私自身も訪問やリアルの交流が怖いと感じる部分がある。それは私がマレーシアでロックダウン(行動制限)を約80日以上体感したことが強く影響してると思う。


そしてマスクに関しても恐怖を感じる人がいるだろう。対話型鑑賞は文字通り「話す」。話すことで飛沫が飛ぶから話すなと言われるNew Normmal、美術館で話しながらの鑑賞はそもそも許されるのか。マスクをすればいいじゃないか。という意見もある。しかし「マスクをすれば問題ない」という考え方にもそもそも危険性があるようだ。

マスクよりも距離なのか、となると「美術館の展示室で2メートル以上離れてマスクをして話す」ってどう考えたってうるさい。他の鑑賞者から苦言をもらう可能性が高い。そうなると日付や時間指定の開催が必須になる。それは実は子供を対象にした対話型鑑賞ではすごく厳しい条件となる。子供って「絶対この日に熱出さないで」って時に熱を出す生き物だから。。


そして私が個人的に恐怖を感じるのは「対話型鑑賞をやってる親子」を見て美術館において「おしゃべり警察」のような指摘をしてくる第三者が実際に出てくるのではないかという点である。


対話型鑑賞において、言葉にする、そして「相手にわかる言葉で説明する」はとても重要な点だ。しかし日本においての対話型鑑賞はそこに「発信してる人」に注目し過ぎてしまう傾向があると思う。

特に日本語思考が基準になると「発信している言葉」と「発信している人」の関係が密接すぎる傾向が強い。子供が話している、親が話してる、話すという行為ではなく話している人間に指摘の対象が向かわないか。親子(特に母と子)のような社会的弱者カテゴリーに設定されがちな場合、そこに厳しい指摘がうまれてこないか。

「美術館女子」の炎上を見てしまうと「(美術館で対話型鑑賞なんてやってたら)何か怒られないか」と恐怖感を感じてしまう親、特に母親は多いのではと思うのだ。


対話型鑑賞は「コミュ障の親にとって育児を救うぜ!」っていうのが私の自負だった。でも、どうも新型肺炎は「親子の対話型鑑賞」を奪おうとしていないか。そう考えると怖くてたまらない。


新型肺炎との共存を認識しながら今までの状況を忘れることなく「新しい環境を「これが【今の】基準」として認識しながら「今自分たちができることを探す」。

本当に難しいことだ。でも「炎上させることで終わってはいけない」と思うのだ。なぜなら子供は成長し、人は歳をとる。そして新型肺炎のような感染症は「人は病と隣り合わせで生きている」と思い知らせてくれたではないか。我々には自分が思っている以上に時間は残っていないのだ。


炎上をみている時間など、実はない。もっと自分たちで行動しなくてはいけない。もしかして私が危機感持ちすぎかもしれないけど、でも燃えてるさまをただ見てるだけのおばさんにはなりたくない。だって、美術館が大好きなんだもの。

美術館に、芸術作品に、対話型鑑賞に母親という自分を救ってもらった身として今、何が出来るのか、じっくり考えてみたい。