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Lock Down 44日目(4月30日)

もう4月終わっちゃったよ!1年の三分の一が終わりだよ!ほんま、びっくりだよ。

昨日から少しずつ、行動制限の緩和が発表されてきた。今日から自家用車だと2名、Grabだとお客2名が乗車できるらしい。つまり買い物に2名で行けるようになった。

来週は息子のインターが「なんだかわからない中休み」なのでそのときにGrabに乗って大きめのモールに買い物に行ってみよう。息子は1ヶ月以上ぶりにコンドの外に出る。うわあ緊張しないかね(私が緊張してどうする)。

気がつけば、この行動制限も44日。国民のほぼ9割8分以上がこの行動制限を順守したおかげで新規感染者は確実に減っている。そして、いつまでもこのような生活をしてるわけにはいかない。なぜならこのまま息を潜めていたら経済が確実に死んでしまう。ちょっとびっくりしたニュースが飛び込んできた。海外旅行を行う人なら誰でも看板は見たことがある「Hertz」。こちらが破産申請を準備しているとのこと。

大手だったら持ち堪えられるとか、見通し甘っなのだろうなきっと。未来はどうなる、だからどうするとか考えない方がいいのかもしれない。教育においても、生活においても「未来はこうなる」的な憶測が本当に多く出てきてるけど、それに影響されすぎないようにしたい。予想は外れる。人は裏切る。そういうものだと思って生きていくほうが生き残れるのではないだろうか。

最近読み始めた本に「隔離という病」がある。

今回、自分がロックダウン(行動制限)を順守せよと言われて一番最初に思い出したのは「ハンセン病」だった。去年の夏、瀬戸内国際芸術祭に行ったときに初めて訪れた大島。そこはかつて、ハンセン病の隔離の島だった。人が人を、隔離する。行動を制限する。それは人権的にどうなのか。実際にどのように行われてきたのか。隔離された人間の気持ちは。もちろん今の自分の状況と比べるなんておこがましいことをする気はない。

大島の優しいオルゴールの音色と歴史を紐解く作品、そして今も資料として展示されている解剖台。(当時、ハンセン病の人がなくなると医療的調査より解剖が行われていた。その解剖の助手としてハンセン病の軽度の人が関わることも少なくなかったという記述にその場から動けなくなった)そこに直接行った人間として「隔離」という行為をより深く考察している。

「花までの距離」という文章を何度も何度も読んでいる。

政石豪さんは出兵中にハンセン病が発覚、隔離の上大島に24歳から亡くなるまで隔離された。彼の文章は人間の本質に語りかける。隔離された側と隔離してる側。同じ人間なのに。罪を犯したわけでもないのに隔離された側と隔離してる側、明確に分離された2つの層。違う層とのやりとりで生まれる葛藤は深く、深く考えさせられる。

中国から来たから、アジア人だから、日本人だから、この新型肺炎COVID-19においての様々な差別。「自分とは違う」と分離をする感覚。この感覚をどうとらえるかは本当に、人それぞれ。私はかつて個人的な経験から「信頼は誰に対しても5割以上持たない」「自分がダメ人間だって落ち込む自分を認める」をモットーにしている。これは私の心情だ。誰かに変えろと言われる気はないし、変えられない。そしてこのモットーを保つために自分なりにかなりしっかり生活してるつもりだ。分離や差別は私にとって「人が持つ当たり前の感覚」だ。

東南アジアは人を信じるべきとの意見もよく聞く。そして非常に親切な人も多いことは充分同意。しかし、その親切心や行為を自分の内面でどう捉えるかはその人の経験値によってまた変わる。人を信頼する自由があるのなら、人を過度に信頼しない自由があってもいいはずだ。信頼は、いつ負担に変わるかわからない。その関係が隔離する側とされる側になった場合は。。私たちが知ってしまった。この世の中、いつでも「隔離する側とされる側になる関係」が始まることを。

今週は色々頼みすぎた。冷蔵庫がパンパンである。なので今夜のハンバーグ、私は炭水化物抜きで野菜サラダのみ。野菜をいっぱい食べましょう。