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Bear strikes back but I'm still aliveー20230713ー。スケジュールはマルチタスク。


本当にいくつものスケジュールが走り始めた。まさに全身マルチタスク。


大きなアートフェアでのシンガポールギャラリーのお手伝いが大きなトラブルなく無事に終了した。搬出もきちんとお手伝いできた。出展における環境作りをお手伝いすることはできたのではないだろうか。まあ本来ならもっと英語がしっかりしていて見てくれが良くて免許とかも持っててお酒も飲めるような人がサポートしたらもっと良かったのかとしれないけど、まあ声をかけて下さったのはあちら様、しかも日本初進出なので何もないよりかは良かった、ということで。


そしてフェアが終わったら騙し続けていた体調と向き合うため、今まで通っていた大学病院ではなく自分の家に一番近い大病院の婦人科での検査開始。もう覚悟を決めたので最終的に自分が動けなくなったらそれはそれだ!と覚悟を決めて診察に挑む。
毎回びっくりするのは10年程前と違い本当に病院の先生が優しくなっていること。いや、前だって優しかったよ!でも10年経ったら本当に皆様お優しい。びっくりするほどにお優しい。


婦人科に関しては、正直アウトの可能性の方が高いと思っていたので覚悟していた。ただ、今、絶対に守り通したいのは「8月末に行く息子のトロント大学の入寮を見届けること」。やはりね、どんな場所で学ぶのか、私自身の目で見て送って大事だと思うのですよ。


今回の診察では子宮頸がんの可能性は高いが、腫瘍は悪性じゃないかもしれない。まあ手術としても9月以降になるのは決定なので、カナダ行けるよ。とのこと。


とりあえず、ほっと胸を撫で下ろす。さあ忙しくなるぞ。


その他にもいくつも動いたお仕事のプロジェクトも進んでいる。渡加をきっかけにぜひ、という形でお食事のお誘いも頂いている。そして俺の通院のスケジュールも増えてきている。


そう、まさにマルチタスクである。


ふと9年前を思い出す。乳がんの手術後、帰宅したらシンガポールに転居すっから!と夫に急に言われ、そのあと、子供の学校や引っ越し、自分の通院環境(当時は日本の病院から海外の病院に行くというのはとても珍しいことだった)、老いていく父親の様子を見ながら子供の将来のためを思い英語の特訓塾に8歳の子供を6時間ぶち込んだりしていた。(本人は今となっては良かったと言ってくれてるけど、当時はマジでこれって虐待って思っていたそうだ)&(ちなみに夫は先に渡星していた、駐在員とはそういうものだ)。子供の進路に関して、当時は「高校や大学は海外に行ってくれたらいいなあ」とぼんやり思っていたけど、具体的にどうしたらいいのかはわからなかった。


あの時は初めてのがん宣告を受けた後に放射線治療を受けながら家族の引越しの手続きを水面下で進めていた。そう、当時は6月まで言ってはダメって言われていたのだ。なので水面下で動きまくりながらマルチタスクで動いていた。今考えるとほんまによく頑張った。
本当に疲れていた。疲れ果てていた。でも、その疲労は放射線治療が原因なのか、他が原因なのか全くわからなかった。ちなみに当時の先生に「この不調の原因は😭?」と聞いてみても「何が原因?って考えないでください。今のあなたはやることが多すぎでしょ。考えすぎないで走りながら調子が悪かったらどんどん相談して」と言われてなんだかわからないまま突っ走っていた。

ただ、その先生には下記の2つは絶対にやれと言われた。

1:自分自身の心身の体調を細かく観察し、定期的に私たちに相談すること
2:やらなくてはいけない沢山のタスクについて「自分が動けなくなった時、どう対応するか」周囲と先に話し合い対策を明確化しておくこと

時にこの2は今にして思うと本当に大事。ここを決めておかないと本当に心が削られる。当時は通う小学校が決まらなくて本当に胃に穴が開きそうだった(実際9キロ近く痩せた)。今だったら「小学校なんて焦って決めることないよ!」と当時の私にガハハハと言いたいところだけど、でも当時は本当にそんな余裕がなかった。


今回は自分が引っ越すわけではない、当人もほぼ大人なので本当に気持ちがスッキリしている。そして大学なので、まあ本人がまたね、色々失敗して改善していくでしょってことにする。


とりあえずは、今走ってる複数の案件を同時に走らせるのだ。考えるな。走れ。

今日のサムネイルはAIが生成した「マルチタスクで仕事をするおばさん」。どこに電話をしておられるのだろう?ちなみに私は9年前も、今も電話は苦手だ。