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第8回横浜トリエンナーレに行ってきた④ー「マヌケ」と素人の乱の文学性と言葉の表現方法の違いについてー。

第8回横浜トリエンナーレを楽しむ会の4回目は「トークと政治性、そしてその表現手段」について。
今回は「野草:いま、ここで生きてる」実践編を旧第一銀行で拝聴してきた。


今回の登壇はこの3名。
芸術総指揮を務める盧迎華と劉鼎の二人と素人の乱の松本哉氏。横浜美術館の蔵屋美香館長がモデレーターを務めるとのこと。

旧第一銀行会場は何回も通っている。東南アジアの版画文化について思い入れのある私。特にInter-Asia Woodcut Mapping Seriesには深い思い入れがある。


だってマレーシア住んでたし。彼らの本気度や活動について実際に活動を見てきたし。なので横浜トリエンナーレ のADのリウ・ディン氏、キャロル・インホワ・ルー氏お二人が「素人の乱」をどう思っているのかどうしても知りたかった。

個人的には憤りとか感じてないのか?とか思っていた。だってあまりにも表現が「マヌケ」だったから。かつての祭感強めの 横トリ を懐かしむ横浜市民である私。なので「今回の横美の展示を受け止めろ!今、生きてる世界は大変なんだよ!ってことから目を逸らすな!」と言うのならこの素人の乱は個人的には受け入れにくかった。それは私自身がマレーシアでロックダウンを体験し「圧をされた側」を経験していたからだと個人的には分析する。圧の中で生活して、ふざけてたら圧をかける側に逮捕される様を実際に見てきたから。

リウ・ディン氏、キャロル・インホワ・ルー氏、ADのお二人は素人の乱の展示を本当に知ってたのか?知らなかったとしたら、このマヌケな内容を見て怒ったりしてないのか?と私は感じていた。

なので、ADのお二人と素人の乱の関係性について話始めるまで本当にドキドキした。私は北京を拠点とするADのお二人は内心(ふざけてんじゃねえよ!等と)お怒りだったのではないかと予想していたのだ。もし、関係性に触れられなかったら質問しようと思っていた。


私の予想は大外れ。横浜トリエンナーレ のADであるリウ・ディン氏、キャロル・インホワ・ルー氏はなんと高円寺に行って松本さんと話して共に活動して今回の参加をお願いしたとのこと。
著作も熟読してるとのこと。特にキャロルさんは松本さんの本と松本さんに対する愛がすごかった。松本さんの著作について文学的と言い切る彼女に松本さんが自身が動揺していた。

この旧第一銀行では特に強く感じたのだけど「政治性とメッセージを発する言語、そしてその言語をどう理解するかと言う環境性」はこのような国際芸術祭では目立たないけどとても重要なんだなと改めて感じる。表現に対する言葉の選択、そしてその言葉がテキストで、または翻訳で発せられる行為を経て伝えられるアクションはこのような市民活動、いや、個人と個人の間におけるコミュニケーションから重要性が高い。人が選んだ言葉の重要性の重みを改めて感じる。

私は松本市の著書に学生会館的なノリのみを感じ。文学的要素を感じることが出来なかった。自分はまだまだ学びが足りないのだとちょと反省した。(おそらくゲリラ的自費出版をする際の中国語翻訳者が優秀なのであろう。人が紡ぎ出す言葉の文学性を感じとれる人でありたい)。

同時に自身の本を中国で出版する際の綱渡りの様を「笑顔で話す」松本氏を見てマレーシアで政府の管理体制を実際に間近で見ていた私はとても複雑な気分になった。彼は圧を受ける側にいない強み、そして日本拠点での活動ならではの性善説的なものを感じてしまうのだ。

敵認定をしない。
ふあっと活動する。
結論を出さない。

松本氏の活動はあくまで性善説が根底にある。まず話そう、関係性を作ろう。友達になろう。とても平和的だ。でも、それはあくまで「相手もその活動を受け入れる余白がない関係性は成長出来ない」
実際に圧をかける側に余白を持たせないように上の組織が設定可能な政治体制だと生前説はそもそも設定出来ない。(事実上の)独裁体制の警察などを思い浮かべて貰えば想像はできると思う。


私自身は実体験からこの性善説を全力で全否定してるのだなと改めて自己分析してしまった。ぐぬぬぬぬ。


「中国では取り締まる側と友達になれないんですかー?」と明るく聞く松本さんの問いにリウさんがすごく言葉を選んで答えてる様になんだかとても重いものを感じた。(近年中国当局は国外でも反体制活動に関して公安的な取り締まりを行ってるとの見解もある。しかもここは日本で有数の大中華街がある横浜。どこに誰がいるかわからんじゃろ。。と思わず周りを見回してしまった)。(トークの撮影禁止、質疑応答を元々想定してない、というナビゲージョンからも運営側の気の使い方的な空気感は深く感じた。本当にお疲れ様でした)。


そのような体制の中での表現活動を継続してるADリウ・ディン氏、キャロル・インホワ・ルー氏お二人の視点からすると、高円寺と高円寺で活動する松本氏が楽しんで行っている「素人の乱」はリアルなユートピアと感じられたのではないか。

こう解釈するとADのリウ・ディン氏、キャロル・インホワ・ルー氏お二人が松本氏と松本氏の著作、活動に惚れた、というのも理解できる。ファンタジーなのではないだろうか。

キーワードは「マヌケ」だったと記憶してるが、この場合の「マヌケ」の「マ」は人と人とが普通の人であるための余白であり、その余白の大切さ、重要性を失いそうになっている側と元々あって意識しないけど無意識に大切に出来ている幸せな側とのやりとりなのかな?と私なりに解釈が落ち着いた。



あと、1つ疑問がある。


ADのリウ・ディン氏、キャロル・インホワ・ルー氏が「コレクティブ」という単語を一切使わないのは何故なのだろう。

マレーシアやインドネシアではアート活動だけじゃなく、草の根の連続性のある個人の集合体活動を「コレクティブ」と表現することが多い。まあこの「コレクティブ」の定義もとても難しい。


ちなみに先日多くの話題を振り撒いた「ドクメンタ15」の芸術監督であったルアンルパは「コレクティブ」と名乗ってる。
リウ・ディン、キャロル・インホワ・ルー氏が素人の乱や自身の活動を「コレクティブ」と呼ばない理由は個人的に聞いてみたいと思った。


横浜トリエンナーレ をドクメンタにしたくなかったのかな。
でも展示の日本語フォント、ドクメンタっぽいよね。


同時に「素人の乱」を「おふざけ」的な側面だけで見てた自分にはちょと反省。これは私の中での色眼鏡だった思う。キャロルさんとリウさんは松本さんを「すべての人に対して普通の人として接する心を持っている」とお話しされていた。

これって本当に難しいこと。そして同時にこういう心を持って実際に行動できる社会というのは素晴らしいことであり、当たり前ではないこと。なのでこの社会をちゃんと守るべきってことを忘れてはならない。性善説おめでたいよね、と冷めたふりしてるだけなんてのは一番カッコ悪いのだ。

同時に、このような「社会性のあるイベントを行政が関係する経営で行う場合の人の集まり方」など、通常私が美術館主催のイベントと違いを感じてとても興味深かった。
やはり、人が集まるという行為はとても重要性があるのだな。。と改めて思う。せっかく横浜に拠点を移したのだからこの地域を大事にしながら色々参加していきたい。と改めて思った。