見出し画像

【高野病院】異世界放浪記⑪

 「私、負けましたわ」。自虐ネタは今時の若い子には受けないからねーと、子供達に注意されていますが、回文作っている段階で自虐ですかね。

 東京電力福島第一原子力発電所事故で再開から1年経たずして閉鎖を余儀なくされた特別養護老人ホーム花ぶさ苑。再開に奔走し、平成24年4月から施設長としてしばらくの間、高野病院事務長と兼務していた花ぶさ苑を3月末に広野町へ譲渡することになりました。

 事故後、再開しない選択肢もありました。再開時には「無理して再開しなくてもよかったのに」と言われましたが、私は入所していた方達の時間を大切にしたかったのです。若い世代が過ごす10年と高齢者の10年は、同じ時であっても全く違うものだと思います。将来は故郷に戻りたい、でもその将来がいつなのか、その時自分は元気でいられるのか? そんなことを考えた方達も多かったのではないでしょうか。休止している間に、一時帰宅で施設に立ち寄られた入所者さん達は「空の色が違う。帰りたいなー」と、懐かしそうに自分のお部屋から故郷の空を眺めていました。この方たちの時間を大切にしたい、その姿をみて思ってしまったのです。

 再開までの苦労や、その後の人員確保、資金面についての困難さは容易に想像していただけると思います。原発事故後この地域の福祉は、医療機関同様、一民間の事業所が支えるには重いものでした。私財を投入し、自分達の力でどうにか守り続けるしかなかったのです。

 もともと40床の特養が安定した経営を続けるのは困難であり、開設の翌年には増床許可が下りる予定だったようですが、震災と原発事故で計画はなくなりました。再開してからはぎりぎりの人員体制で、職員には本当に苦労をかけてしまいました。それでも全員が入所者さんのために何ができるのか、地域のために何をすべきなのか、増床してこれからも花ぶさ苑を盛り上げていこうと、大変な中でも同じ方向をみて頑張っていたのです。そんな職員の姿は何物にも代えがたい、宝物のようでした。その頃は、朝晩の通勤道路も大渋滞で、業務外でも時間と体力を使う毎日でした。みんな疲れていただろうに、それでも花ぶさ苑はいつも活気にあふれていました。もっと職員を楽にしてあげたい、そんな思いで私は求人に奔走しました。私達は自分達ができることはすべてやり切り最後の望みを増床にかけました。しかし双葉郡の復興は進まず、特養の適切なベッド数の議論も進まず、この9年間増床の許可はおりませんでした。また様々な社会情勢により、計画を断念せざるを得なかったのです。

 前理事長高野英男は原発事故後、この町のために医療と福祉を守ってきました。人前で弱っているところを見せるのが嫌いだった人が、よろよろした姿を見せながらも、守るべきものを守るという信念を貫き日々を生きてきたのです。その生き様を傍で見てきた私は、その時間をなかったことにはしたくありませんでした。4年前、患者さんと入所者さん、そして働く人達の場所が守られるのならば、私が理事長でなくてもかまわないと、繰り返し広野町に伝えていましたが、今回私が経営責任を取り法人を解散し、残った負債を負うことで、町からは譲渡という形での支援をお約束いただきました。私達がずっと守ってきた福祉を、広野町に残すことができるのです。

 あの日から必死に頑張っていた職員と、帰りたいと願った入所者さんの居場所は守れたけれど、やっぱり私、負けましたわ。原発事故に? 行政に? 施策に? 自分自身に? いったい誰に? 私、負けましたわ。



たかの・みお 1967年生まれ。佛教大学卒。2008年から医療法人社団養高会・高野病院事務長、2012年から社会福祉法人養高会・特別養護老人ホーム花ぶさ苑施設長を兼務。2016年から医療法人社団養高会理事長。必要とされる地域の医療と福祉を死守すべく日々奮闘。家では双子の母親として子供たちに育てられている。2014年3月に「高野病院奮戦記 がんばってるね!じむちょー」(東京新聞出版部)、2018年1月に絵本「たかのびょういんのでんちゃん」(岩崎書店)を出版。


よろしければサポートお願いします!!