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原発20㌔圏内ツアー参加のすすめ

Uターン新人記者が巡る!!

 今年4月、15年暮らした東京から地元・福島に帰ってきて、本誌編集部で働き始めた。取材などで県内を回るようになり半年が過ぎたが、浜通りに足を運んだ際に東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の被害、復旧・復興状況について何も知らないことに気付かされた。そこで浜通りを巡るスタディツアーに参加し、東京の視点で見た被災地・福島県の現状をリポートしてみることにした。

 福島第一原発周辺の様子を知りたいと思ったきっかけは、9月に初めて国道6号を通った時だった。

 帰還困難区域内の民家に通じる道路や出入り口にバリケードが設置されていることに衝撃を受けた。福島県出身者として状況を理解しているつもりだったが、東京で暮らしテレビを見ているだけでは感じることができない現実があった。

 浜通りの被災地について一から説明を受けながら巡りたい……そう思って情報収集したところ、相馬市のNPO法人「野馬土(のまど)」が運営している福島第一原発20㌔圏内ツアーに行きついた。ツアーと言っても車を用意・運転するのは参加者自身で、同法人に所属するガイド1名と合流し、各所を巡る。料金は7500円(ガイドブック料500円、寄付金=ガイド料7000円)。

 早速同法人ホームページの申し込みフォームから申し込んだ。

 ルートは時間に合わせて自由に決められると言われた。丸1日予定を空けていると伝え、ガイドにお任せしたところ、10時から16時まで6時間かけて、浜通りを南北に走る国道6号を南下しながら、被災地を視察するルートを組んでもらった。

 ルートは以下の通り。

 ①松川浦(相馬市)

 ②大甕(おおみか)仮置場(南相馬市)

 ③浪江町商店街(浪江町)

 ④希望の牧場(浪江町)

 ⑤なみえ創生小・中学校(浪江町)

 ⑥請戸漁港(浪江町)

 ⑦富岡町の住宅街(富岡町)

 ⑧廃炉資料館(富岡町)

 10月8日、福島第一原発から40~50㌔離れた相馬市の同法人事務所から出発した。

 ①松川浦(相馬市)

 まず訪れたのは相馬市だ。震災による死者数465人。福島第一原発からの距離約45㌔。事故当時、風が北西に流れていたため、原発の真北に位置する相馬市は放射性物質が集中的に降り注ぐことはなく、避難区域に指定されることもなかった。

 そんな同市において、シンボル的存在である潟湖(せきこ)・松川浦とその周辺の地区は、震災時に発生した津波で壊滅的な被害を受けた。動画サイト「ユーチューブ」で「松川浦」と検索すると、津波到達直後の生々しい映像が出てくる。正直寒気がした。

 だが、その後、復旧工事が進められ、2017(平成29)年に松川浦大橋が一般車両の通行を6年ぶりに再開。翌2018(平成30)年には松川大洲地区海岸や大浜地区海岸の工事が竣工し、併せて海沿いを走る大洲松川線も再開通した。

 松川浦に面する同市磯部地区にはもともと民家や農地が広がっていた。しかし震災後、民家は流され農地は塩害で使えなくなったという。その荒れ果てた土地を整備し、現在は広大なメガソーラーが設置されている。

 ②大甕仮置場(南相馬市)

 相馬市から南下し南相馬市に入った。震災による死者数1043人。原発事故により市南部の小高区などが避難指示区域に指定されたが、2016(平成28)年7月に解除となった。ただ西側の一部はいまも帰還困難区域に指定されている。

 同市の中心部に位置する原町区の「大甕仮置場」は、除染した際に生じる汚染土などを保管する仮置き場だ。除染とは放射性物質が付着した表土の削り取り、枝葉や落ち葉の除去、建物表面の洗浄等により、放射性物質を生活圏から取り除くことを指す。取り除いた廃棄物は「フレコンバッグ」と呼ばれる大型の土嚢袋に詰められる。仮置き場の敷地面積は1万3400平方㍍(東京ドーム3個半分)。

 仮置き場の除染廃棄物は福島第一原発の周辺に造られた中間貯蔵施設に運ばれ、最終処分するまでの間、安全に集中的に管理・保管される。

 南相馬市から中間貯蔵施設への輸送状況(10月17日現在)は搬出済量約23・9万立方㍍、残量約90・8万立方㍍。達成率約21%に留まる。

 同行したガイドによると「大甕仮置場」にはぎっしりフレコンバッグが敷き詰められていたが、現在はかなり減ったという。

 国道6号では中間貯蔵施設にフレコンバッグを運ぶトラックを多く見かけた。普段走行する人にとっては日常なのだろうが、初めて見ると、その光景はかなり異様に映った。

 ③浪江町商店街

 南相馬市に隣接する浪江町に入る。震災による死者数605人。震災・原発事故直後、町全域が避難指示区域となったが、2017(平成29)年3月に帰還困難区域を除く中心部などの地区が避難解除になった。しかし約80%の面積がいまだに避難区域となっている。人口は当時約2万1000人だったが、避難解除になって2年半が経ち、現在同町に住んでいるのは約1000人。

 前述したとおり、浪江町の一部で避難解除されたのは2年半前。しかし町に戻ってきた人が少ないため、空き家が多い。人が住んでいない家や人がいない店舗は異様だ。まるでアメリカドラマの「ウォーキング・デッド」の世界にいるような不気味さを感じる。

牛と生きる吉沢さん

 ④希望の牧場(浪江町)

 事故当時から280頭の牛を放牧し育てている。以前は肉牛飼育をして生活を営んでいた。しかし牛肉の出荷が制限されているため、商業用としては利用できない。経済的には1円も寄与しない活動を続けている。

 牧場主の吉沢正巳さんは、牛を殺処分せず、牛とともに生活することを選んだ。吉沢さんは、原発反対運動を積極的に行っており、その際に使う街宣車が牧場入口にある。

 人の気配を感じない街並みから、突如現れる牛の大群に声を大きくしてしまった。人は住まない、しかし動物は住んでいる。ただそれだけのことなのだが、人がつくった科学やルールに翻弄される動物を見て悲しい気持ちになる。

 ⑤なみえ創成小学校・中学校(浪江町)

 同校は、前浪江東中学校を震災後に改修して造られた。改修費は15億円。ここでのテーマは復興と税金だ。同校を見た感想は「綺麗で立派だなあ」。1000人規模が収容できる学校だ。現在、小学校15名、中学校2名が在籍している。児童・生徒17名に対して、同校の職員数は20名。

 2019年度の浪江町の予算額は約395億円だ。そのうち復旧・復興分は331億円で予算総額に占める割合は約83%(震災前の予算額は約71憶円)。復興予算の財源は何かというと、復興所得税などの国税から賄われる。つまり、福島県に限らず県外で働いているすべての人が払う所得税が含まれている。県外の人が同校を見たときに、どう感じるかはさまざまだろう。払った税金が有意義に使われていると感じるか、それとも無駄遣いと感じるか。わたしは「こんな立派な学校はいらない」と正直に思った。

 ⑥請戸漁港(浪江町)

 請戸漁港は福島第一原発から約6㌔北の太平洋岸に位置する。震災前の漁港の利用は、地元船がほとんどだが、県外船の受け入れも可能な第三種漁港だった。水揚げ量はコウナゴ、シラス、サケ、ヒラメなど年間1600㌧。原発付近の沿岸漁業は震災で全面自粛を余儀なくされた。県によるモニタリングなどを経て、試験操業が行われている。(詳しくは本誌6月号参照)

 商工業者に比べて漁業者は手厚い補償を東京電力から受けている。商工業者への賠償は事実上、打ち切られているが、漁業者への賠償はいまも続いている。漁業の「自粛」が続いているから、という事情があるが、商工業に比べ、漁業の生産額が圧倒的に低いといった事情もあろう。つまりは、「賠償しています」という東京電力によるパフォーマンスの側面も強い。

 請戸漁港は津波で流されたため、復旧工事が進められており、2020(令和2)年度中に荷さばき場を備えた水産共同利用施設が完成予定だ。原発付近で生活を営んでいた人の中でも、漁業者はいまなお大きな影響を受けている。請戸漁港の周りには大きな集落があったが、津波に流されたため、漁港だけがぽつんとある。

 なみえ創成小・中学校と請戸漁港を見ると、被災した古里に戻ることだけが復興なのかと感じる。安全性が担保されたとしても、無理に原発近くの漁港を復活する必要はない。むしろ県外に住み、漁業を営むための支援をすることが、次世代に安全で安心した生活を担保することになるのではないか。わたしは請戸に生まれ漁師として生きてきたわけではないので、おまえに何が分かると言われればそれまでだ。しかし、避難解除から2年半が経ち、浪江町に戻ったのが1000人というのが答えなのではないか。

避難区域の境界線

 ⑦富岡町の住宅街

 同町も2017(平成29)年4月に一部避難解除となった。解除されたところとまだ避難が続くところで、地区ごとに細かく分かれている。富岡町の住宅街を通る道路に、避難区域の境目を象徴する個所がある。道路を境にして片方が避難解除されており、もう片方が避難区域になっている。両側での放射線量の差はごくわずかであろうが、行政区ごとに避難区域を設定しているため起こる事象だ。ただ、解除された地区で人が住んでいる気配はあまりない。朝起きて家を出るときに、目の前が避難区域だったらあまり気持ちのいいことではないだろう。

 ⑧東京電力廃炉資料館(富岡町)

 東京電力廃炉資料館はかつて、原子力発電所の安心や安全をPRする施設だった。震災を機に一転、原子力発電所事故の反省と教訓の資料館に様変わりした。

 館内をじっくり回れば2時間はかかる内容量だ。福島第一原発で事故が起きた1号機から4号機の細かい説明を動画やパネルを通して学べる。また、福島第一原発と第二原発の両方が津波の被害を受けたのに、なぜ第一原発が大きな被害を受け、第二原発が最小限の被害で済むことができたのか。興味深い内容だった。

 経済産業省によると、福島第一原発の収束作業への関心は年々薄れている。2018(平成30)年に実施した「福島県における風評被害対策の在り方等に関する調査研究事業の調査報告書」によると、テレビキー局の報道では福島原発関連の報道回数や放送時間が減少傾向にあるという。

 テレビキー局報道担当者は、インタビューで「福島関連では視聴率が取れないのでは、という話になっており、結果的に報道される回数も少なくなっている」と述べている。

 さらに同報告によると、インターネットのグーグル検索で「福島原発」の検索数が減少傾向にある。

 「福島原発」の検索数分布を都道府県別でみると、福島の近隣県、およびメディア感度の高い東京と、その他の県との温度差が開いている。

 全国では「無関心層」あるいは「気にしない層」が増加しているのだ。意識レベルでは気にしないものの、福島県の食品の購入や観光等、消費行動していない生活者がおり、結果として風評被害が改善されないまま膠着する事態を招いていると推測される。

 また、こうした層は、個人的に信頼できる情報発信者や販売者の影響から、購入行動へシフトする場合もある。つまり誤った情報でもツイッターなどのSNSで見聞きしたことを鵜呑みにしてしまう危険をはらんでいるのだ。

 その危険を防ぐためには、福島の「正しい情報」と「際立った魅力」を発信していくことが重要なフェーズに入ったことを示す。

イチエフを観光名所に

 福島県の認知度は昔に比べて上がっている。震災前、関西出身の人に「福島県がどこにあるか知っているか」と尋ねると「九州だっけ?」と答えられたことがあった。そう答えるのは一部の人だけだと思いたいが、現実はその程度のものだ。逆に、福島県に住む人の中には、九州地方の各県の位置を思い浮かべられない人もいるに違いない。

 先述の報告書によると、グーグルで「福島」関連ワードの検索数は震災時に爆発的に増えた後、平均に戻ったが、震災前比で言うと、1・5から2倍に増えている。幸か不幸か、東日本大震災を機に福島県は知名度を上げたのだ。「福島 観光」の検索数も増加傾向だ。福島県を観光地として見ている層が増えており、魅力をさらに発信していくことが必要になる。

 国内観光といえば、京都、奈良、広島、沖縄などを思い浮かべるだろう。その中でも広島県と沖縄県には〝負の遺産〟の「原爆ドーム(広島県)」、「ひめゆりの塔(沖縄県)」がある。いまこそ〝イチエフ(福島第一原発)〟を観光名所として確立していくことが、風評被害、経済停滞、人口減少などの打破に繋がっていくはずだ。

 最後に。廃炉資料館内を回っているときに「福島第一原子力発電所視察・座談会」の案内を見つけた。経済産業省と東京電力の主催で、住民を対象に初めて一般公募した。相双地区に住む人に向けたもので参加には制限があるが、今後規模を広げていくようだ。わたしは12月に取材として同行する予定で、その際はまた詳報したい。

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