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神話と科学の間の人の話

(今回はユヴァル・ノア・ハラリ著の「サピエンス全史」を下地に筆を走らせます。かなり独りよがりの箇所もあると思いますが、それでもよい方はお読みください)

神話や伝説、というものは古今東西、ほぼ普遍的に見られます。
今それに依っているかとは別として、かつて人類はおそらく神話や伝説に縋って生きておりました。当時からそれが批判的に見られていた可能性は否定しませんが、おそらく多くの方は建前上はそれに依りその神話や伝説が事実だろうと思いながら生きておりました(かの司馬遷も、中国の太古の神話の記述(女媧や伏犠など)が史実ではないだろう、なぜ古の人々がそのような認識に至ったのか、それを知りたい、と史記で記したとされます)。

いまその神話や伝説に依って生きている方は、多くはないと思います。一応◯◯教徒だけど…という方もいるでしょうが、まさか神話や伝説がまったく事実だと考えている方はいないのではないでしょうか。

司馬遷の項でさらっと触れましたが、重要なのは「太古の人がなぜそのような認識をするに至ったか」が重要になってきます。

手前味噌ではありますが、キリスト教の聖書も「(教会の伝統的な解釈は別として)聖書はいつ成立し、いつ誰に依って書かれたか」を探求する作業というものはあります。これを高等批評と呼びます。
また聖書に出てくる事物(エデンの園、バベルの塔、モーセの十戒の箇所etc)がどこであるか、史実に合致するのか、あるいは聖書の記述で後年の加筆ではないか…など、そういう研究・考証の作業はあります。しかしこれについて詳述するとnote記事がいくらあっても足らないので、措きます。

さて、話を戻します。
神話・伝説であれ、科学であれ、世の屋台骨であったことに変わりはありません。

なぜヒト(ホモサピエンス)は類人猿の中で唯一高度に社会を組織し、他の種には見られない生活様式を手に入れたのでしょうか。

ハラリは、それについて「認知革命」と呼ばれる用語でそれを説明しています。
それはホモサピエンスは「虚構(伝説・神話)」を創作し、他の個体を圧倒し、支配することが可能となったのです。
その後の農耕社会を迎えるにあたり、これはとても重要な要素となります。

時は下り、交流が活発になり人の行き来が盛んになると、ヒトは「我々は実は無知なのではないか」と疑い始めます。それが科学を生む端緒になりました。これが科学革命です。それまでは神話や伝説の範疇で説明をしていたことから、無知であるがゆえに科学の研究が進むことになりました。

しかし根本的なことに目を向ける必要があります。
我々は未だに「虚構」から逃れられていないのです。
ヒトは虚構が何者であるかを解明できても、それを破壊するまでは至りませんでした。

乱暴な言い方をすると、科学は宗教から生まれました。
マックス・ヴェーバーもその主著「職業としての学問」において「科学とは、最初は神への道であった」と述べています。

「え、でも神話や伝説の書いてあることなんて嘘8百じゃないか。ヒトは類人猿から進化したんだし、もともとは38億年前に生命は誕生したし、宇宙はビッグバンからじゃないか」とおっしゃるでしょう。

結論から言います。それは正しいです。
ただ最初に書いた通り宗教に依って生きていた当時は、そのような神話が正しいと思われていたのです。当然のことですね。

ですが、決してヒトが作ったものはそう簡単になくなりません。むしろ強化されているとすら言えます。
上記した「認知革命」以来、ヒトは一度たりともその虚構を捨てたことはありません。論理の展開や説明が変わっただけで、本質的なヒトの「何かにすがる気持ち」はまったく変わっていません。宗教と科学は極めて相互互恵的であります。

分かりやすい例を出しましょう。それは貨幣と政府(国家)です。もちろん貨幣は流通しやすい商品だからだ、すなわち必然なんだ、という意見は重々承知しております。しかしながら経済人類史を見ると必ずしもそうではなく、硬貨に政府の刻印を押し、流通させたこともあるようです。政府もそもそも実態のないものです。国会議事堂や裁判所は具体的に存在しますが、国家(政府)そのものはどこにもありません。
「目に見えるものだけが実態じゃない」という話もありましょうが、さらに言うと「それそのもの」ということ自体、極めて抽象的です。なぜなら具体的に存在するものをいくら並べても、「それそのもの」を提示することはおそらく不可能のはずです。

話を戻します。
科学は何かの説明に関しては、完全に神話や伝説の内容を超えてとって代わっております。しかしながら虚構の説明ができても、虚構そのものを破壊することはなく、むしろヒトの営みを加速する方向に連れていっているように思えます。ハラリのサピエンス全史でも、科学革命の前は進歩はなかったが、革命後ヒトは進歩するものになったと述べています。科学は虚構に支えられながら発展していったのです。決してそれは相矛盾するものではありません。

前回の記事でも述べていますが、ヒトは理性的であると同時に思想信条を持つ存在です。
他者を理解すること、また過去を理解すること(無下に非科学的と否定することではなく、上記したなぜそのような神話や伝説が生まれるに至ったか)はおそらく大きな示唆をヒトに与えるのではないでしょうか。
私たち人間は、過去より明らかに分かることが増えつつあります。どこまで発展するかは誰にも分かりません。そもそもなぜ人間は科学を学ぶのでしょうか? 生きるだけならとっくに我々は進歩をやめているはずです。人間社会にとって必要だからでしょうか? それは虚構たる何かを維持するためでしょうか。やはりヒトから虚構を奪うことはできません。

なぜ科学をやるのか、それは極めて根本的な問いであり、人間的な、またどこか神話めいた問いであるように思えてなりません。

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