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AIという❝技術❞とヒトという存在の間の話

昨今AIが幅を利かせてきております。
シンギュラリティという言葉もちらほら聞かれるようになりました。
所論あるようですが、AIなどの技術が、自ら人間より賢い知能を生み出す事が可能になる時点を指す言葉であるとされます。

AIで奪われる仕事なるものも懸念されており、警鐘が鳴らされております。

ただし冷静に考えてみてください。
いつから、私達はAIより上にいると錯覚しているのでしょうか。
いつから、私達はAIを使いこなせていると勘違いしているのでしょうか。

使いこなせている、というのは人間の保守性や慣れの問題なのであまり詳述しようと思いませんが、まずひとつ提起したいのはAIとヒトの関係です。

太古の昔から、人間は己の生活を便利にするため、あるいは何かの開発をするため、あるいは経済的動機の目的で、技術というものを開発してまいりました。

上掲した写真はワットの開発した蒸気機関でありますが、一番知られている例は産業革命でありましょう。
これもラッダイト運動といって労働者による機械打ちこわし運動があったわけです。
AIにおいてラッダイト運動はないと思いますが、一定程度仕事は奪われるでしょう。しかし蒸気機関が発明されても、蒸気機関がヒトのすべての仕事を奪うことはありませんでした。その後もさまざまな技術が開発されましたが、結局人間すべてを取って代わることはありませんでした。

正直、人は蒸気機関の生産力には勝てるはずがありません。
それと同様に、AIを始めとしてコンピューターに計算能力や記憶能力には勝てません。
AIとヒトはそもそも論ずる前提の土俵が違います。技術とは便利だから、使うのです。楽をしたいから、道具を使うのです。何も相対立するものではなく、技術はヒトを補完するものです。ヒトに足りないところがあればそれを補う、補う必要がないならただ廃れてゆく。それだけのことです。

表題にある通り、AIを技術として見るならば、今までの系譜にあるとも考えることができます。
すなわち技術はどこまでも技術であり、それはヒトではありません。まさかそれがヒトに取って代わることはないと考えております。

さて、AIが人類の知恵に到達するか否か、ではありますが
以下の記事が示唆してくれると思います。

神話と科学の間の人の話
https://note.com/seikeitan/n/nff3b6dba911d

それはホモサピエンスは「虚構(伝説・神話)」を創作し、他の個体を圧倒し、支配することが可能となったのです。
その後の農耕社会を迎えるにあたり、これはとても重要な要素となります。

AIがその認識において認知革命を起こしているのか、それは正直しているのか分かりません。
もちろん少なくとも、学習はしているはずです。
ですが、学習は動物もします。
AI=動物とは言いませんが、おそらく人間の域までは達してないと考えております。認知革命なき学習は、ヒトとのそれとは大きく違うでしょう。
AIがAIを生むということも指摘されておるようでありますが、今までの技術も副産物を生みました。所詮は副産物ではないか?と考えます。そこから何かは生まれるでしょうが、それはあまりいま関係ないようにも思えます。

最終的に言いたいことは、人間はもちろんAIの研究を進めるでしょうし、私もそれを否定するつもりは毛頭ありません。
シンギュラリティに関しては、その議論に意味があるとは思いません。
そんなことを考えなくとも、研究開発はすべきであると思っています。
もちろん倫理の問題やモラルの問題はあるでしょう。しかしそれはAIに関係なく、あらゆる科学技術に言えることです。AIだけことさらに浮き彫りにする必然性が、あまり感じられないのであります。

上記したとおり、人間はさまざまな技術を開発し、その技術と協力し、社会を豊かにしてゆくでしょう。
故にAIに怯えることはないと確信しております。人間は理性を持つ動物であり、今までも困難を乗り越えてきたからであります。
これからも人間の可能性というものを信じるのであれば、私たちのよき道具・便利屋として私達の生活を豊かにしてくれるもの、それがAIであります。

最後に、私達に想像できないことには沈黙するしかありません。
AIが私たちになにかをすることがあれば、それは今は想像できないことであり、絶対に語り得ることとはならないからです。AIが語りうることで私たちが語り得ないことであれば、それは私達は永遠に語り得ないのであります。

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