生への誘い
お久しぶりです。高橋です。
昨年末に初めて行った利用者さんのコンサート。
6月にまた行きました。
1回じゃ分からなかったことが、2回目でもう少し鮮明になりました。
コンサートは、作曲背景や演奏方法の説明こそするものの、ALSであることはほとんど説明せずに始まります。
パンフレットの紹介文も、彼の音楽家としての経歴のみで病気についてほとんど記載がありません。
それは年齢や病気よりもまず、一音楽家として舞台に立っていることの表明にも思えます。
足の調子は、良かったか分かりません。
うまく押せなくて、演奏が止まってしまう場面もありました。
それでも、彼の演奏が良かった。
彼しかできない表現。
足の指先でやっと絞り出す1音の重み。
ALSの発症によって失ったものはたくさんあると思います。
両手でバチを持って奏でること。
腕を振って指揮をとること。
何百人もの教え子を育てること。
それらは、ALSの進行に伴いできなくなったこと。
身体機能以外にも、きっとたくさんあると思います。
けれど同時に、いろんなものを失った今だからできること、できる表現もあります。
両足の親指2本だけで電子マリンバを奏でること。
目線で指揮をとること。
かつての同志、育った教え子たち、教え子の教え子たちと一緒に演奏をすること。
昔であれば思いもよらなかったような演奏方法は、今だからできることです。
教え子や、その教え子たちと演奏できるのは、今まで彼が人を育ててきて、そして今も彼が辞めずに続けているからできることです。
何時間練習しても、どれだけ機材の調整をしても納得がいかない。
今まで積み重ねてきたことが、本番で積み重ね通りに報われるとは限らない。
何十年のキャリアをもってしてもずっと、人前で何かを表現するのは怖いものです。
緊張で手足が震えて冷たくなって、失敗しては何度も辞めようと思って、葛藤して、それでも自分と戦い続ける彼の演奏だから、心臓に響きます。
そしてそんな彼と伴走(伴奏)する奥様や同志たちの存在は、彼にとっても、観客にとっても支えになります。
般若「こんな夜を」、鬼とGADORO「白書」のようなユーモレスク。
THE BLUE HEARTS「終わらない歌」のような深い河。
うまく言えませんが、彼の命を見た気がしました。
それが、すごく良かったです。
もちろん彼もですが、彼以外のメンバーも、ものすごく豪華です。
全員本当に書ききれないくらい半端ないのですが、今回はパーカッション本間達也さんのスネアドラム一つから浮かび上がる空間の奥行きと情景にびびりました。
本も映画も曲も展示もなんでも私は噛み砕くのが遅くて、回を重ねるごとになんとか言語化ができるようになるので、私はまた行くでしょう。
ただコンサートに何度足を運んでも、日々介助で関わっても、分かった気になるばかりで、多面的な彼を本当に理解することはできないのです。
分からないからずっと知りたい。
それが介助の醍醐味だと思います。