見出し画像

【タイムトンネルで飛んだスマホで】榛摺村殺人事件解決RTA【昭和因習村の少女を救え】 第1話

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

あらすじ

 昭和時代前半の因習村、榛摺村。そこには『御絵』という奇妙な絵を崇める不思議な風習があった。
 そしてその榛摺村で、代々庄屋をしている名士の家系である『京嶌家』の老当主が亡くなった。その後、京嶌家の本家の人間たちが、次々と殺されていく不気味な連続殺人が起きる。
 従兄弟を次々殺され怯える少女、京嶌華子。彼女は老当主の子が駆け落ちの末に生まれ、両親が死んで京嶌家に引き取られ、肩身の狭いの思いをしていた。
 そんな怯える彼女の前に唐突にスマホが現れる。そのスマホは七十年後の榛摺村(すでに町になって開発済み)を訪れた兄妹の妹のものだった。 華子は令和の兄妹と協力して殺人事件から逃れることはできるのか――?


本編

独白


 描く。絵具を掬い取り、筆に載せ、描く。

 白いカンバスに筆を置き、引く。その、暗い色に惚れ惚れとする。魂が込められているようだと、思う。何度も、何度も、何度も、何度も重ねて、塗り、描く。重ねれば重ねる度、色が深くなる。濃く、潜るように、うつくしくなる。

 絵を描くのであれば題材は何でも良いと、御当主様は仰った。ただ描けと、何でも良いから描けと、それがお前の傑作となるのだと。

 ――お前が■を作るのだと。

 莫迦な。■はもともと居られる。そこに居られる。御当主様自身も昔、よくそうお云いであったように。私は卑賤な人の身であることを弁えながら、神の姿を描き出すのだ。

この褪せたような、それでいて何より美しい絵具で。

 恍惚。

 私にとっては、描くことは、悦楽であり、禁忌を犯すことと同義だった。だからこそ背筋が痺れるような昂揚と、畏れ多いものを目の前にした時のような畏怖を覚える。

 そうだ。私は■を描くことを、絵を描くことを、恐れていた。畏れていた。この先私は呪われ、祟られ、きっと■はお赦しにはならぬだろうと。惨たらしく死に――死後は地獄へ堕ちるだろうと。

 それでもやめられなかったのだ。私は其れに魅せられた。魅せられれば、可笑しくなるまま、筆を動かすだけだった。

 

 ゴエ、と近頃村の民が私の描き出した神を見て云う。ゴエ――御絵。絵を、崇めている。■のことを、カカ様と呼ぶ。そうして拝む。

有難いものだと。これがなければ、ならぬと。この村は祟られ続けるのだと。

 ――違う。けして間違ってはならぬ。美しいものは、尊いものは、絵ではない。尊いものを、絵そのものであると、思ってはならぬのだ。

 そもそも、時間が経つにつれ、歪んだ。その絵は、有難くはない。寧ろ、呪われている。描き出したのが、私にとっての■であるのは間違いない。

 常に美しい■が最もうつくしく、神聖だった時の姿を、精魂込めて描いたのだ。


けれども、違うのだ。うつくしかろうと神聖に見ようとその絵は罪そのものだ。罪のかたちをしているのだ。この榛摺村をこの先長く蝕む罪なのだ。

――だが、私は描かずにはいられなかったのだ。


 知らなければよかったものを。知ってしまったからにはもう戻れない。

 あの、悪魔のような男のせいで! 私は罪に陥った!

 

 ――御当主様は絵を崇めよ、と仰る。

 それが慰めになるのだと。■の祟りを鎮めることになるのだと。

 真逆。慰めになどなるものか。罪は巡る。あるいは続く。罪の足跡を跡形もなく消そうなど無理があるのだ。

 呪われた■の絵は時間が流れるにつれて、その意味を知る者はいなくなるだろう。

そうして絵は変質し、祟りは続き、あるいは呪いとなり、またさらに我々は罪を重ねるのだろう。知るものを消せ、と。


 絵の中の■は、あの悪魔に穢されて尚、美しい。

 ■は孤独だった。独りだった。

 すべては悪魔が、否、■に魅入られた私が悪いのだ!


 嗚呼、これからこの地を染めるであろう惨劇が、孤独で哀しい■の、御心を痛めることがなきよう。

 罪深き身なれど、祈って居る。 

 


 

第一章 

▼令和××年九月十九日 楊梅町―小野忠


 風が冷たい。小野忠は無言で自分の腕を抱く。

 小都会と言って過言でない自分たちの住む町とは違い、山に囲まれているこの地の風はひどく冷たく感じられる。山間の九月の下旬となると妥当なのかもしれないが。―― 家を出た時には秋晴れだった空も、数時間電車に揺られている間にいつの間にか雲が垂れ込めている。

 おまけにこの時期はたいして紅葉もしておらず、ただ忠たちの降りた小さな駅を囲む山々は、暗い青緑のままずんとそこに佇んでいた。機嫌の悪い時の妹の目の色そのままで、忠は密かにげんなりする。

「つまんない景色だね」

 身も蓋もないことをその妹――陽葵が言う。

 そんなことを言うもんじゃないぞ、と兄としては注意しようと思ったが、ほぼ同じことを考えていたため、忠は気まずく頬に掻くに留めた。

「……まあ、紅葉もしてないからな。でもお前、楊梅町の人達にそれ言うんじゃないぞ。つまんないとか」

「わかってるって。でも、せっかくなら山が赤くなってる時に呼んでくれたらよかったのになー」

「無茶言うなよ……」

 行くぞ、と言うと、忠はスーツケースの取っ手を持ち、歩き出す。陽葵もそれ以上は何も言わず、自分のスーツケースを持ってついてきた。

 忠たちは昨年から体調を崩したという祖母の見舞いに来たのだ。あまり遅れては祖母に会えなくなってしまうかもしれないのだから、紅葉は諦めるほかない。


 1


 忠と陽葵の祖母の住む楊梅町は、彼らの家――都心から電車一本で一時間ほどのところにあると思っていただきたい――からロマンスカーと電車を乗り継いで三、四時間ほど行った田舎に位置していた。

 二時間に一本電車があるかないかの田舎と言っても、特に閉鎖的な場所というわけではないらしい。昭和平成の大合併を経て町となり、今ではグランピングとキャンプの施設を中心に人で賑わう観光地だと聞いている。まあ、忠たちが楊梅町を訪れたわけは祖母の見舞いなので、グランピングは関係ないのだが。

「あ、来たよお兄」

「ほんとだ」

 建物ひとつない小さな無人駅から少し離れ、ぽつんとある自動販売機の横に二人で立っていると、やがて黒いミニバンがやってきた。

 二人してガラガラ音をさせながらスーツケースを引きずって車に近づけば、運転席の窓が開いて叔母が顔を出す。

「や! 来たわね、忠くん陽葵ちゃん。さ、スーツケース後ろに放り込んで乗って乗って」

「はあい」「どうも」

 挨拶もそこそこに、スーツケースをトランクに放り込み、忠と陽葵はいそいそと車に乗り込む。忠はシートベルトを締めると、「すみません敦子叔母さん」と運転席に声をかけた。

「わざわざ車出していただいて」 

「いいのいいの。それにしても久しぶりね。陽葵ちゃん、あたしのこと覚えてる? 相変わらずとびきり可愛いわ」

「えへへ~またまた敦子叔母さん。そりゃ覚えてますよー。叔母さんこそ、久々ですけど全然変わんないですね。若々しいっていうか」

「やだ陽葵ちゃんったらお上手。陽葵ちゃんこそさらに可愛くなって。……ほら、忠くん? 君は言うことないの。妹ちゃんに男前度合いで負けてるぞ」

「エッ……」

 えらく雑な叔母の運転により酔いそうになるのを堪えていたら、突然の無茶ぶり。

 忠が色々な意味でグロッキーになりかけていると、三半規管が丈夫な陽葵が「お兄はだめですよ」と馬鹿にしたように一言。

「ヘタレだからお世辞も上手に言えないの。こういうとこ本当お父さんそっくり。こんなんだから高二にもなってカノジョのひとりもいないんですよ」 

「義兄さんがヘタレそうなのは同意。優しい人なのは知ってるけどね。ところで陽葵ちゃん、お世辞っていうのは? さっきの褒め言葉のことじゃないわよね?」

「…………じゃないです!」

 少しの間の後、妹がそう言う。死ぬほど嘘臭え否定、と忠は思ったが、叔母は少し笑っただけでその後は特に文句も言わなかった。

 車の窓から見える景色は、山ばかりの田舎そのものという感じだったが、少しすると開けた場所に出た。何もない、と思っていた景色に、ぽつぽつと民家や店が見え始める。

 しばらく車内は無言だったが、ふと陽葵がこちらを見ると、小声で聞いてきた。

「……にしても、お兄。楊梅町って結構人来るのかな。思ってたより、真性ド田舎って訳じゃなさそう」 

「みたいだな。実際グランピングのホムペ見たけどめちゃ綺麗だったぞ。写真とか」

「えっ、ホムペなんてあるの? わたしも見よ」

陽葵が小さなうさ耳のついた、つるつるとしたカバーをつけたスマホを取り出す。持ちにくそうなカバーだなと思っていたら、画面にヒビが入っているのが見えた。何度か液晶から落としたことがあるのだろう。カバー手帳型にしろよ、と忠は思った。

「あホントだ。写真きれーだね、いいなーグランピング。本当にちゃんと栄えてるっぽいじゃん。山奥なのに観光地って感じ」

「施設の近くだとWi-Fiも飛んでるわよ。京嶌の家もWi-Fiあるし」面白そうに叔母が口を挟んでくる。「最近のキャンプブームで楊梅町、さらに賑わってるみたいよ。あたしは二人ほどじゃないけど町から離れたとこに住んでるから、よく知らないけどね。お母さんは賑わってることを喜んでたわ」

「おばあちゃんが……」

「楊梅町が榛摺村だった頃はそりゃもう閉鎖的なとこだったみたいだけど。変わったわよね」

 祖母は、榛摺村が今の楊梅町と名を変える前からの大地主である、京嶌家の実質的な当主である。祖母は若い頃には留学もしていたようで、それもあってか行動力と実行力に富み、夫を病気で亡くしてからは一人で京嶌の家を取り仕切っていたらしい。それだけでなく、積極的に楊梅町の観光地化を進たというので驚きである。

ブームでさらなる町おこしができるのは大歓迎だろう。

「まあグランピングじゃないけど、晴れてたら星も見れるかもな」

「えー見たい!」

 そう言い、目を輝かせた妹だが、不意に沈んだ顔になる。「……でも、栄えてるのかー。ちょっと残念かも」

「栄えてて何が残念なんだよ」

「いやわたし、ちょっと閉鎖的な村! みたいなのに憧れがあって。わたし、ほら、因習村系の作品が好きでさー」

「まず因習村がなんだよ」

「えーお兄知らないの? ホラーとかミステリのジャンルだよ。曰くや言い伝えがある閉鎖的な村が舞台で、その中でシャレにならない怪奇現象や事件が起きたりして、人がバタバタ死んで……ほらお兄ミステリならちょっと読むからわかるでしょ? 『八つ墓村』とか『犬神家の一族』とか……」

「やめてくれる?」

 京嶌家は田舎の大きな家なので、横溝正史の金田一耕助シリーズと重ねて考えるとあまり洒落にならない気がする。そもそも祖母はまだ生きている。

 忠は妹のデリカシーのなさに頭痛を覚えて眉間を揉んだ。

 すると叔母が「あっはは!」と爆笑した。「大丈夫でしょ。少なくとも犬神家にはならないわよ。よく覚えてないけど、あれって確か遺産相続争いのせいで殺人事件が起きてたわよね? 母さんのことだからお金はほとんど寄付したいって言うだろうし、土地なんて山ばっかだからあたしたちも貰っても困るし」

 何より、と叔母が笑う。「――あたしも兄さんもお金なら普通にあるし」

「人生で一度でも言ってみたい台詞すぎる……」

 ただ、祖母の子どもたちが遺産相続争いに興味がないのは事実だろう。

 何せ忠らの伯父の勝也は大学病院で医師をしており、叔母は都内の大企業の役員である。

 さらにはきょうだいの真ん中である母は亡くなっており、その夫の父は財産への興味が皆無だった。見舞いには自分は行かず、祖母の孫である忠と陽葵だけをシルバーウィークを利用して向かわせる始末である。財産に興味があったら、祖母の覚えをよくするために顔を出すだろう。

「だから何も起きたりしないわよ」

「叔母さん、それ、フラグですよ」

「やめろって。そもそも陽葵、お前がここに来たかったのってまさかそれが理由なのか」

 父は今回、陽葵を京嶌の屋敷に向かわせるのを渋っていた。母は生前、陽葵は楊梅町に行かすなと言っていたらしい。ただ結局二人でここまで来ることになったのは、祖母の強い希望があったからだ。

「何。悪い?」

「馬鹿だ……」

 馬鹿とは何よ、と忠が年の離れた妹と大人気なくやんややんややり始めたところで、車が止まった。

 どうやら、京嶌邸に着いたらしい。


 *


「わかってはいたけど、すごいお屋敷ですね」

「お母さんってこんなとこに住んでたの? お嬢様じゃん」

 京嶌邸は観光客でごった返すグランピング施設からやや離れた山麓にあった。

 立派な門構えである。門柱も冠木も太く、日本建築にさっぱりな忠も、門を一目見るだけで京嶌家のこの土地での力を察するにあまりあった。さらに塀で囲まれた土地全てが屋敷の敷地だと言われれば、驚愕のせいでまさしく開いた口が塞がらなくなる。

 ――京嶌邸に来るのは、忠も陽葵も初めてのことだった。というのもここの娘である母があまり実家を好かず、帰ろうとすることもなかったからだ。それどころか祖母が写真に撮られるのが苦手な人だということもあり、二人は祖母の顔すらよく知らない。

「姉さんは親戚と折り合いが悪かったのよね」

 叔母に先導されて門をくぐり、土間に辿り着いて靴を脱ぐ。先にあった靴からして、伯父と従姉は先に来ているらしかった。

陽葵が、民家の沓脱石なんて初めて見た、取次もある、とはしゃいでいる。小学六年生の陽葵は和風の旅館にもろくに踏み入れたことがないはずなので、目新しいのだろう。

「京嶌は江戸時代から榛摺村の庄屋だったらしいんだけど。分家筋っていうの? 今は本家も分家もないようなものだけど、とにかく家族とまではいかない親戚の人たちとあんまり仲が良くなくて、町の高校通ってたんだけど、卒業する前に家出しちゃったのよ」

「へえ……あれ、でも、高卒前に家出したんですか? ですが母は大卒だったはずですが」

「高卒認定取ったらしいわ。一浪して結構いいとこ行ったのよね。文学部日本文学専攻。子どもの頃から古い本とか好きみたいで、古典がどうしても勉強したいって」

「はあ……それはなかなかの経歴で……」

 両親の過去を掘ってみようと考えたこともないので、知らなかった。そこまで大学に行きたかったのなら、なおさらわざわざ高校を中退する意味がわからないが。

「ここよ。――母さん、入ります」

 話していると、いつの間にか皆が集まっているという座敷の前に来ていた。

 叔母が声を掛けて襖を開ければ、座敷には老女の眠る布団を囲むようにして四人の人間がいた。

 忠らから向かって、布団の左側奥にいるのが伯父勝也、その娘美穂であることはわかる。ただ、向かって右側にいる眼鏡の男と若い男に見覚えがなく、陽葵と忠は一瞬視線を交わした。

「忠、陽葵。よく来てくれた」

「――伯父さん、美穂さん、お久しぶりです」

「こんにちは! えっと、それで、そっちのお二人は……」

「ああ、まだ二人は会ったことがなかったかな」

 陽葵が見たことのない二人に目を向けたところで、「こんにちは」と柔和な声で眼鏡の男が言った。

「京嶌賢一です。私は君たちのお母さんの従兄弟にあたる。こちらは息子の……」

「幸也です。近くの法科大学院に通ってる。よろしくな、二人とも」

「あ……小野忠といいます。こちらは妹の陽葵」

「はじめまして」

 陽葵が健一と幸也に会釈をする。母の従兄弟ということはつまり、従兄伯父と再従兄というわけだ。確かに、伯父には会っていても、なかなか従兄伯父とまでいくとそう会わない。

 ――すると。そこで、「来たのですか?」という声が布団の中から聞こえてきた。

全員が弾かれたように布団を見やれば、今の今まで眠っていたらしい老女が――ゆっくりと身を起こしたところだった。

「母さん、起きては……」

「大丈夫です、勝也。忠さんと陽葵さんはどこに……?」

 背中を支える伯父が視線を向けてきたことで、忠は慌てて布団の傍に寄った。幸也が場所を空けてくれたので、忠は陽葵と共に老女――祖母月子の顔が見える位置に座る。

「俺が忠です……すみません、起こしてしまったようで」

「わ、わたし陽葵です。あの、騒がしくしてしまってごめんなさい」

「構いません。そう……あなたたちが忠さんと陽葵さんなのですね。――わたくしが月子。あなたたちの祖母です」

 忠は、祖母の顔を見て驚いた。――寝衣姿の祖母は見るからに痩せ衰えていたが、それでもなお、驚くほどの美人だったのだ。

頬はこけているが、目には強い光が湛えられている。その凛とした顔立ちも、まるで名前の通り月の光にみがかれたような美貌である。

 老いてこれほど美しかったのであれば、若い頃さはさぞかしたぐいまれな美女だともてはやされていただろう。思えば母も顔が整っていた。母の美貌は祖母の血筋だったのだ。

「ああ。特に、陽葵さん……顔をよく見せて」

 骨の浮いた祖母の手が、陽葵の頬に伸びた。

 祖母はそのままゆるりと陽葵のこめかみから頬を、輪郭にそって撫でる。

「おばあちゃん……?」

「ああ、確かによく……よく似ているものね。そう、あなたが……あなたたちが……」

 陽葵によく似た色の、祖母の目が優しく撓む。

 その整った顔に浮かべられたきれいな笑みを見て、忠も陽葵もつられて笑う。

「会えてよかった。――けれど」

 そこで、唐突に祖母の雰囲気が変わった。

 突然の空気の変化にぎょっとしたのか、陽葵が息を詰めたのが隣にいる忠にもわかった。

「あの、」

 祖母の様子に異様なものを感じた忠が、彼女に声をかけようとしたその時だった。

 祖母が、重苦しく口を開いた。――そして、言った。

 

「帰りなさい、陽葵さん。カカ様の祟りに遭う前に」


 それきり、祖母はふらふらと力なく布団に倒れ込むと、そのまま意識を失ってしまった。 


* 


「……大丈夫なんでしょうか、母は」

 次の間に出た京嶌家の面々を代表し、診察を終えて部屋を出てきた祖母の主治医の伊藤という男に、伯父の勝也が尋ねる。

「今は安定して眠っています」と伊藤は応えた。「ただしあまり良くはない」

もともと起き上がれるような体調ではなかったが、無理をしてしまった故に意識を失ったのだろう、とのことだった。

「……長くないというのは、本当だったんですね。話すだけで倒れてしまうなんて」

 思わず忠が呟くと、「気がついた時には末期の癌だったんだ」と伯父が言う。

「うちの病院で入院か、自宅療養か、という話になって、自宅療養を選んだ。私と美穂は遠くないから時折様子を見に来ているんだが、つい数日前にどうしても死ぬ前に忠たちの顔が見たいと言い出したからな……」

「それで、連絡を取ったんです、叔父さんに」

 美穂が言葉を引き継ぐ。彼女の言う叔父とは忠らの父のことだ。

「そうだったんですか……」

「いきなり知らない場所に呼びつけてしまって済まなかったな。忠、陽葵も」

「いえ、祖母のことなので。それも母が帰省したがらないので会ったことがなかったんですし……」

 顔を合わせたことのない孫に会いたい。出奔した娘には孫を会わせる気がなくとも、娘が死に、かつ自分も死に際なのだから――と祖母は考えたのだろうか。

 ただ、一つ気になることができた。

 忠は伯父と叔母を見る。

「……あの、母は高校卒業より前に家を出たんですよね。家出同然に出てきたんでしょうか。卒業後ならともかく、卒業前に突然出奔なんてかなり特殊な気がしますけど」

 家出同然だったのなら、実家と縁を切っていたとしてもおかしくない。が、その割には母は兄妹とはそこそこ仲が良かった。 三兄妹は全員異なるタイミングで京嶌の家を出てそれぞれ家を頼らず身を立てているが、数年に一度は互いの家を行き来している。伯父が母と叔母を繋ぎ、母が死んでからも忠たちは時折伯父叔母と会っていた。

 高校卒業前の突然の出奔。

少なくとも卒業まで待てばいいものを、一体どういう経緯で、母は家を出ることにしたのだろう。

「さあ、詳しくは……。あたしはその時小さかったし……兄さん繋がりで姉さんときょうだい付き合いが再開した時も、その時のことは姉さんに聞いたことなかったから。でも、なんだかんだ姉さんの自由にさせたんじゃないかと思うわよ。兄さん、何か知ってる?」

「……いや、正直、私もどうして真衣が高校をやめてまで家を出たのか、未だに皆目見当もつかない。敦子はよく覚えてないだろうが、それまで、真衣は普通だったんだ。普通に高校に通って……本当に突然、突然家を出る準備を初めて、すぐに高校退学手続きを取って、慌ただしく家を出た」

「母が祖母と揉めたりは」

「特に、していなかったはずだ。私も大学生で、忙しくしていたから確信はないが、母は受け入れていたように思う」

「そう、なんですか」

 祖母は受け入れていた。つまり勘当じみた家出ではなかったということなのだろうか。

「……それ」その時、幸也がぽつりと呟いた。「やっぱり、じいちゃんとのことがあったからなんじゃないのか」

「こら、幸也。お前……」

「いや、だって見たんだろ? 親父。真衣さんが家を出る数日前、うちの死んだじいちゃんが真衣さんと蔵で言い争ってたところを」

「……えっと、そうなんですか?」 

 忠が賢一に目を向ければ、柔和な印象の従兄伯父は額の汗を拭いつつ、「ああ、まあ」と困惑まじりに頷く。

「確かに父の賢二郎と激しく言い争っていたかな。内容までは知らないが……その後すぐに真衣さんがこの町を出ていかれたのは本当です」

 まるで、何かから逃げようとすべく――と賢一が言う。

 そして母は出ていったまま、結局死ぬまで一度も楊梅町には帰らなかった――。

 重苦しい沈黙が、その場を満たす。

「――あの」

 気まずい次の間の空気を、最初に破ったのは陽葵だった。手を上げる動作こそ遠慮がちだったが、親戚連中を見渡す目は祖母のように強い意志の光を秘めている。

「カカ様ってなんだか、知ってますか?」

「!」

「みんな聞いてたと、思うんだけど。そもそも、祟りって……なんですか? そんなもの、この町にあるんですか」

 今度こそ重苦しい沈黙が降りた。これは本当にどこぞの小説のように、村ゆかりの祟り伝説や怪異の噂があるのか――と忠は身構える。

 しかし。

「いや、それなのよね……」

「叔母さん、何か知ってるの?」

「いいえまったく。全く知らないからこそ困惑してるの。祟りもカカ様? も初めて聞いたわよ。何それって感じ」

「えっ」

「そもそも母さん、祟りと神とか、そういうの信じてるたちだったかしら。一番母の様子に詳しいのは楊梅に住んでる賢一さんたちよね。何か知ってます?」

 いえ、聞いたことがありませんね、と賢一が首を傾げながら言う。おまえは、と父親に問われた幸也が、残念ながら俺もよく知りません、と付け加えた。

「そもそも月子様は特に信心深い人というわけではなかったよな。父さん」

「ああ。……まだ楊梅町が榛摺村だった頃に、軽い気持ちで踏み入れると祟りがあると言われていたらしい山々を、次々開発していったのは月子様ですから。ケイビングで人気の、この屋敷の裏山は残していますが。もはや物置と化してますが、蔵もあることですし」

 京嶌邸の後ろに聳える大きな山のことだろう。なんと、屋敷の裏山も観光資源に使っているらしい。徹底している。

「ふーん、で、古い村にありがちな言い伝えが残っていそうな山々を次々潰していった月子様は、祟りには?」

「まあ、普通に考えて遭っていないでしょうね。でなければ病気が見つかるまでぴんしゃんとしてらっしゃらないはず」

 もっともな話だった。また、山の開発工事中に不審な事故で人が死ぬようなことも、特にはなかったらしい。

「しかし、祟りはともかく、カカサマとやらはなんなんだ? その、言い伝え? とやらの山の神か何かなのか?」伯父が首を捻る。「母さんの母親が、何か祟るような何かになっていたりするのか?」

「ああ、母親を『かか』と言うこともあるものね。うーん、母さんの母親が、人を祟るような何かにねえ……そういえば母さんから昔の話って、ほとんど聞いたことないかもしれないわ。思った以上に親のことって、よく知らないもんなのね」

 でも、とそこで叔母が首を傾げる。

「――それでどうして陽葵ちゃんだけ、祟られるから帰れ、って話になるのかしら」

「それは……」 

 伯父も、勿論他の誰も答えられずに気まずげに俯く。

 再び重苦しくなった空気に気がついたらしい陽葵が、「まあ別に大丈夫です」と言った。

「どうして帰らなきゃいけないのか、おばあちゃんが目を覚ましたら直接聞きます。どうせ、二日くらいは町の観光がてら泊まっていく予定だったんだし。ね、お兄」

「え? ああ、うん。そうだな」

「そうよね、そうしなさいよ」叔母が同調する。「祟りなんてこの現代でバカバカしい話だし、せっかくきたのに帰れって言われて、大人しく従う必要もないわよ。あたしたちだって『カカサマ』が何か気になるし、ついでに陽葵ちゃんに聞いてほしいわ」

「もとからその辺も聞くつもりだったよ。気になるもの」

「抜け目ないわね、陽葵ちゃん」 

 ――カカサマとやらが何で、祟りとは何なのか。

 しかし、伯父も叔母も賢一さんらもよく知らないらしい、得体の知れないその名について――陽葵が祖母月子に尋ねることは叶わなかった。

 なぜならその夜、祖母の容態が急変し、昏睡状態となってしまったからだ。


 2

 

「――京嶌月子さんは毒を摂取した可能性があります。部屋の水差しの水に、毒が入れられていました」

 居間には、二人の男が並んで座布団に座っている。伯父によって居間に通された、地元の警察署から来た刑事だった。

診察した主治医の伊藤が警察を呼ぶべきだと判断し、調べてもらったところ、なんと、祖母の部屋に置いてあり、祖母が愛用している水差しに毒が仕込まれていたらしい。容態が急変し、昏睡状態になったのも、病気の進行と言うよりは毒物のせいだろうという。

それを聞き、「そんな」と声を上げたのは叔母だった。

「母は末期の癌なんですよ? どうしてわざわざ毒なんて。自分で飲んだにしても、他人に飲まされたにしてもおかしいでしょう」

「娘さんの京嶌敦子さんでしたね。それは我々も同感です。言い方は悪いが、たしかに月子さんはそのままにしていても近いうちに命を落としてしまうであろう方だ。それなのに、何故か毒で昏睡状態に陥った。これはたしかに、不自然です」

「なら……」

「――ただね、娘さん、こうなってくると調べない訳にはいかないんですよ。警察としてはね。殺人未遂だったとしたら、犯人がいるということになりますからね」

 あくまで淡々とした正論に、叔母が押し黙る。

代わりにとばかりに、賢一が壮年の刑事を見て釘を刺した。

「京嶌家としても、捜査が必要であることは承知しております。ただ、無理な捜査はなさらないで下さい」

「わかっておりますよ。我々とて楊梅町民。天下の京嶌家に睨まれたくはないのでね」

 ただね、調べるところはきっちり調べさせてもらいます――と刑事は続ける。鋭い眼光だった。

「何せ京嶌月子さんは楊梅の町民にとっては、豊かにしてくれた恩人だ。誰かに害されたかもしれないとあっては放ってはおけない。詳しく調べなきゃならないんだ」

「それは、もちろん。ありがたいことです」

伯父が叔母の肩に手を置き、身を乗り出す。「京嶌家一同ももちろん、捜査の邪魔をしたりは致しません。な、敦子」

「ええ……ごめんなさい。あたし、取り乱して変なことを言ったみたい」

 項垂れる叔母に「いいえ」と首を振った壮年の刑事が、横にいた若い刑事を横目で見る。

 慌てて立ち上がった若手の刑事が、「では順番にお話をお聞きしますので、長男の勝也さんから別室に移動していただけますか」と言った。とりあえずは親世代から話を聞くつもりらしい。

 それならばこの中で一番年下の忠と陽葵の事情聴取は自然と最後ということになる。

 呼ばれるまでどうしていよう、と忠が陽葵と顔を見合せたところで、呼ばれた賢一が振り返り、「しばらく、そこらへんを散策していたらどうかな」と言った。

「屋敷の中で閉じこもっているんじゃ退屈だろう? 裏山も道はそこそこ整備されているから、上まで行かなければそう危なくないよ」

「え、でも。いいんですか……」

 忠はちらと刑事二人の様子を窺ったが、彼らとしては特に何かを言うつもりもないようだ。問題はないということだろう。

「中腹の辺りには京嶌の蔵もある。倉庫みたいなところだし、がらくたばかりではあるが面白いよ。陽葵さん、たしか、そういうの好きなんだろう?」

「名家の蔵探検ってことですか? ……確かに、気になるかも。なんかドラマみたいで」

「おい、陽葵……」

 ドラマがサスペンスドラマを指していることに気がつき、忠はさすがに不謹慎だろうと妹を睨んだが、賢一が「確かに、いい気分転換になるかもしれませんね」と朗らかに言う。

「今、管理しているのは私なので、鍵は渡しておきます。暇潰しにはなるでしょう」

「ありがとう賢一おじさま。お兄、行こう!」

「えええ……」

 陽葵に引きずられるようにして外に出る。

そして門まで辿り着いたところで、後ろから、「事情聴取の番が来たらライン電話するからね」と叔母の声が追いかけてきた。


 *


「ぶっちゃけ、どう思う、お兄」

「はあ、はあ、何が……」

 裏山の道は確かに、ケイビングに来る客も多いからか、割と整備されていた。

とはいっても、あくまで登山道として多少形になっているという程度で、普段特に運動をすることもない忠にとっては獣道と大差ない。

 中腹辺りに見えるのが蔵だろう。本邸とはさすがに比べ物にならないが、ガラクタを詰めておくだけの倉庫というには随分と立派な造りをしているように思えた。

「何って、おばあちゃんのことだよ。どうして毒を盛られたんだと思う? 叔母さんも言ってたじゃん。おかしいでしょ、これから長くないおばあちゃんをわざわざ殺そうとする理由って、何?」

「そんなん、この町に来たばっかの俺らにわかるわけないだろ……」

 確かに、不可解は不可解だが。

諦めと共にそう言うと、「お兄、ちょっと薄情じゃない」と陽葵が顔を顰めて言う。「普通、自分のおばあちゃんが殺されそうになったって聞いたら、何が起きたのか知りたいと思うでしょ」

「まあ、そりゃそうかもだけどさあ」

 とはいっても、忠は陽葵のように、積極的に何が起きたのか知りたい、とは特には思っていなかった。むしろ、血の繋がった祖母とはいえ会ったばかりの人のため、殺人未遂と言われてどう反応していいか困る。

いつ死んでも知れない、と言われてここまで来たのだから尚更で――そもそも忠も陽葵も、見舞いのあとは葬儀に参列することになるかもしれない、という覚悟もしてここまで来たのだ。

「じゃあお前はどう思うんだよ。どうしておばあちゃんは殺されそうになったんだ?」

 聞きながら、忠は申し訳程度に道に張られている小さな柵の向こうをちらと見る。道の向こうは崖というほどでもないが、切り立つような急斜面で、転げ落ちたら死ぬなと思った。斜面の下には川が流れている。水の流れはそこそこ速そうだ。

「そりゃあ、決まってるよ。おばあちゃんの最後の言葉が関係してる」

「……、『カカ様』の『祟り』?」

 そう、と陽葵が頷く。先行していたはずの妹は、いつの間に戻ってきていたのか、忠の隣を歩いている。

「はー、馬鹿らしい。祟られて毒殺未遂はないだろ。怨霊が毒を使うってか?」

「違うよ、そりゃ人の仕業なのは間違いないでしょ。――おばあちゃんは『カカ様』って言ったから毒を盛られたんだよ。『カカ様の祟り』について言葉にしちゃいけなかった。その話について、詳しく調べられたら困る人がいたから」

「口封じされそうになったって?」

「そう」

 馬鹿馬鹿しい、とまた言い掛けて、忠は口を噤んだ。――確かに、祖母は『カカ様』と口に出してすぐ、昏睡状態になった。京嶌家の面々が、『カカ様』とやらの話なぞ聞いたことがないと口をそろえて言っているのだから、祖母は今までこの町に――あるいはこの家に――『カカ様の祟り』があるなど口にしたことがなかったのだ。

忌み詞、という言葉がふと忠の頭に浮かんだ。口にしてはいけない言葉。祖母は口にしたから、毒を盛られた――。

「……わたし、おばあちゃんが起きたら直接聞いてみる、って言っちゃったでしょ?」

 陽葵の視線は足元に落ちている。そして、そのまま立ち止まった。

「『カカ様』についてさらに詳しく調べるつもりがあるって、宣言した。……だから、おばあちゃんに何か話されたら困ることがある人間が、おばあちゃんに毒を盛ったんだよ」

 忠は立ち止まったまま俯く妹を見下ろした。

陽葵は昔から整った顔をしている。青みがかかった目は大きく、鼻筋が通り、肌は白い。母に似ていると父はいつも言っていた。おまけに利発で活発で勝気で好奇心と正義感が強く、慕う陽葵も敵も多い。面倒くさがりで、ことなかれ主義で、父似の平凡な容姿で、友人も敵も少ない忠とは大違いだ。年が離れているので自慢の妹といって憚りなかったが、年が近かったら自分の劣等感で兄妹仲は大惨事だっただろう、と忠はいつも思う。

そんな妹が――いつも勝気な表情をしている妹が、つらそうに顔を歪めているのは久しぶりに見た。まるで、祖母が毒を盛られ、今もなお目を覚まさない原因は自分にあるのだと言わんばかりの表情だった。

「はあ……もう、わかったよ」

「……何が?」

「何がって、何が起こったのか調べたいってことじゃないのか? 真相を知りたいって言ってただろ。付き合うよ。俺らみたいな子どもに何がわかるのかは疑問だけどな」

「お兄……」

 しばしの間ぽかんとこちらを見ていた陽葵が、ふと顔を綻ばせる。

「ありがと、お兄。お兄って面倒臭がりのくせになんだかんだ助けてくれるよね。わたしが小三? くらいの時も――」

「……まあ、昔っから危なっかしすぎるんだよ陽葵はさ。ずけずけ物言ってすぐ敵作るし、近くで見張ってないと何やらかすかわかったもんじゃないし……そりゃ面倒見もよくなるよ。五歳も離れてりゃ尚更だろ」

 陽葵のそういうところも――いまだ理由はわからないが親戚と仲が悪いからと突然家出を決行したらしい母とよく似ているのかもしれない。あまり知りたくはなかったが。

「……まあ事件を調べてみるにしても、カカ様について調べてみるにしても、とにかくここまで来たんだから蔵くらいは行こう。山道かなり歩いたのに今さら戻るとか御免だ」

「お兄ひ弱すぎない? ちょっと歩いただけで息上がってるじゃん」

「やかましい。万年文化部で体育3だけどひ弱ってほどではないわ」

「まあ、別にいいけどねー。あんまりゆっくり登ってると事情聴取の番が来ちゃって蔵に行けなくなるよ……あ、見てお兄。あれ、京嶌邸じゃない。屋根、見える」

「本当だ」

 斜面に生い茂り、視界を塞いでいた木々のさらに向こうに、本棟造の屋敷の屋根が見える。京嶌邸の全貌が見えたわけではないが、こうやって見下ろすとやっぱり広大な敷地にでかい屋敷だな、と忠は思った。まあ、京嶌の土地は屋敷の敷地だけではないだろうが。

「いい景色だし写真撮ろ。お兄も写っていいよ」

「いや別にいいよ……あぶな! 引っ張るなよ落ちるぞ崖から」

 落ちないよ、と言って無理やり忠を画角に引きこんだ自撮りを決めた陽葵は、「見て、いい感じ」と画面をこちらに見せようとして――指を滑らせた。

「あっ――」という陽葵の甲高い声。

かん、と音を立てて地面に落ちた陽葵のスマホは、跳ねて柵の間を通り抜けると、そのまま急斜面を滑り――否、真っ逆さまに落ちていく。そして果てには、ぼちゃ、と間抜けな音を立てて川に落ちた。

「あ~~~~~ッッ」

「ううわ」

 忠はハハ、と乾いた声で笑った。

あれはもう無理だろう。崖面に何度か打ち付けただろうし、落下の衝撃もあの浅そうな川では和らげられまい。そもそも水没だ。データはお陀仏、本体もおそらくお陀仏。

 忠は呆然とする妹の肩をぽんと叩いた。「……諦めな、あれは無理だ」

「やだよゲームも連絡先の引継ぎもできてないのに! 今ならデータまだ生きてるかもしれないじゃんっ」

「いや無理だろ。川に落ちて流されてるのに」

「まだわからない! この目で見るまでは死んでない!」

「んなシュレディンガーの猫みたいな……あっ、ちょ、待てってもう!」

 川に下りる道を探す、と言って来た道を戻っていく陽葵を追いかける。こういうところも、きっと陽葵は母に似ているのだろう。



 結局事情聴取の時間が来るまでスマホを探していたが、果たして見つかることはなかった。当たり前と言えば当たり前だったが、陽葵は事情聴取を終え、夕飯を食べながらもぶつぶつと文句を言っていた。

「え、スマホ落としたの。そりゃー辛いわ」夕飯の膳を片付けながら声を掛けてき幸也は、陽葵の不機嫌の理由を話せば笑ってそう言った。「俺だってスマホ落としたらやばいよ。ゲーム重課金勢だから。めっちゃ探す」 

 現在大学院生の幸也は、どうやらスマホゲームにアルバイト代をつぎ込んでいるらしかった。忠はこんな大人にはなりたくないな……と思ったが、同じくゲーム好きな陽葵は「だよね? 幸也さんはわかってるなー」と、わかってもらえて嬉しい様子である。

「わたしは課金したことないけど、やりこんでるソシャゲがあるんだよね。課金はほら、お父さんとお兄が止めるから」

「だって、小学生の時からソシャゲに課金とか。ないだろ」

 皿洗いをするお手伝いさんに手伝いを申し出て、忠は陽葵と共にスポンジで磨かれた皿を水で洗っていく。皿を拭くのは自然と幸也になった。

「親みたいな思考回路だな、忠くん。『無』理ない『課金』なら『無課金』だよ」

「法科大学院生なんでしょ幸也さん。ゲームやってる暇あるんですか。勉強は?」

「何この高校生。めちゃくちゃツッコミの切れ味鋭いんだけど」

 辛ァ、と言いながら洗った皿を拭く幸也に、陽葵はもちろん、思わず忠も笑いを零す。

柔和そうな賢一とはまた違った意味で、幸也は取っつきやすい人物だった。――母が付き合うのを拒んで町を出て行くほど折り合いが悪かったという幸也の祖父は、一体どんな人物だったのだろう。

そうだ幸也さん、と陽葵が忠ごしに幸也に声を掛ける。「事情聴取って、どんな感じだった? わたしたち来たばっかりだったからすぐ終わっちゃったんだけど」

「月子様の水差しだろ? 毒が入ってたの。だから、水差しに近寄ってないかを聞かれたよ。俺は一回、月子様の部屋に行ってるから、ちょっと疑われてるんだよな」

 幸也の話だと、祖母の部屋にある水差しの水は、夕食前に毎日変えられるらしい。お手伝いさんが水を変え、レモンを沈め、祖母の部屋に届ける。そこでお手伝いさんが一杯、水を飲む。それが習慣なのだという。

 お手伝いさんは昨日も夕食前に水を飲んだと証言している。そしてお手伝いさんは無事だ。彼女が嘘をついていない限り、毒はそれ以降に水差しに仕込まれたということになる。

「聞かれるばっかりじゃあれだったから、逆に聞き出したんだけど。その後月子様の部屋に行ったのは全部で四人。勝也さんと敦子さん、俺、親父だ。全員一人ずつ部屋を訪ねてる」

「なるほどね。その四人全員に毒を盛る機会があるわけだ」陽葵は訳知り顔で頷く。「幸也さんはどうしておばあちゃんの部屋に行ったの?」

「俺は月子様に大学院の今期の成績について報告しろって言われてな」

「それで成績が悪すぎるのがバレると困るから、その前に毒を……」

「そう、毒を……って盛ってない! どうなってるんだ忠くん、君の妹にいたっては、切れ味が鋭いを通り越して不謹慎のレベルだぞ」

「すみません、うちの妹が」

 忠がぺしっと頭を叩くと、暴力反対! とすかさず陽葵が声を上げる。

「とにかくだ」幸也が咳ばらいをする。「勝也さんと敦子さんはそれぞれ、まあ、月子様が亡くなった時に備えての話をされたんだろう。親父は遺言書を作るかどうかの相談をしたと言っている。全員、部屋を訪ねた時月子様と話をしたんだ。つまりその時月子様は起きてたってことになる。あの人は頭のいい人だから、意識がある限り、誰かが水差しに何かしたら必ず見咎めるはずだ」

「じゃあ、水差しに毒が入ってたってことは、四人のうちの誰かが目敏いおばあちゃんの目をかいくぐったか……」

 あるいは、その中の誰かが、「京嶌月子と話した」と嘘をついているということになる。


 そのまま三人でお茶を飲みつつ少し話してしばらくして解散し、それぞれのタイミングで風呂に入った。

 同じタイミングで風呂から戻ったので、忠と陽葵は兄妹並んで部屋に帰ることになったのだが、その道の途中で忠のスマホが短く鳴った。ラインのメッセージの音だった。

「スマホ落とした妹の前でスマホ見るとかぁ」

「うるさいなもう、絡んでくるなって……ん? おい、これ……」

 忠はラインのトーク画面を開くと、陽葵に見せる。

 何よー、と文句を言いながら覗き込んだ陽葵が、「え」と声を漏らし目を見張った。


 ――メッセージは陽葵のスマホから届いたものだった。

 たった一文字、「た」と、それだけが送られてきていた。



▼昭和××年七月某日―九月十九日 榛摺村


 ――お祖父様がお亡くなりになった。

 ということを、私は七月になったある日、中学校から帰ってきてすぐに知った。

 お祖父様はもともと長らく肺を病んでいらしたが、長男である勝弘伯父様を戦争で亡くされてから、一層衰弱されて、お医者様の伊藤先生に数か月間からもう長くないと言われていた身だったので、突然の報せにも驚きはなかった。伊藤先生が速やかに検視をなさったが、その死に不審な点もなかったという。

「華子さん、すぐに皆さま本邸にいらっしゃいます。通夜の準備をいたしますよ」

 学校の荷物を部屋に置いたところで、女中を取り仕切る小梅さんが襖を開けて鋭く言った。はいと頷き、すぐに小梅さんの後を追う。

(お祖父様が亡くなった。どうしよう)

お父様が戦争で亡くなり、そのことでたちまち体調を崩したお母様が亡くなってしまってから、私は御当主様――お祖父様に引き取られた。お母様が死んで一人になった私が路頭に迷わずに済んだのは、お祖父様のお慈悲があってこそだった。そもそも殆ど駆け落ち同然で結婚したという両親だったので、この家の当主の直系とはいえど居候のような存在だ。

とはいえ、これまではお祖父様の直系の孫娘だからということで、どこの種かわからぬ娘、とは言いつつも京嶌の方々は親のいない私を育ててくださっていた。

だが――次男の亘伯父様が家を継げば、私は京嶌家当主の直系ですらなくなってしまう。

このままでは、私は家を追い出されてしまうかもしれない。

(役に――役に立たなくては)

 私は女で、しかも、一人で生きていくには子どもすぎる。

誰かの慈悲がないと、まともに生きていくことすらできないのだから、せめて少しでもこの家に貢献しなければならないのだ。

「あ……いけない。忘れていたわ」

 私は足を止め、部屋の奥の押し入れ、そのまたさらに奥の壁に飾ってあるカカ様に向き直る。美しい女神が描かれているその絵に、二度手を合わせ、二度額づく。

どうかこの先、これ以上不幸なことが起こりませんようにと祈り、私は改めて自室を後にした。


 *


 ――お祖父さまの四十九日の法要ののち、弁護士であり、お父様や伯父様たちの従兄弟にあたる兵衛先生の立会いの下、遺言書の公開をすることになった。

座敷の続き間を仕切る建具を取り払い、遺言書の公開に出席する人数分の座布団を小梅さんら女中たちと共に敷いていった。

弁護士の兵衛先生、その跡取りの賢二郎さんを含め十枚。カカ様の御絵が掛け軸として飾られている床の間に近い上座から、長男勝弘伯父様の奥様である裕子伯母様、次男亘伯父様、その奥様の真紀伯母様、三男博巳伯父様が座っていく。そして私を含めた孫四人は、床の間に向かうようにして並んで座った。出入り口に最も遠い位置から勝弘伯父様のご子息弘文兄様、ご息女雪子姉様、亘伯父様のご息女月子姉様、私華子の順だ。

「それでは、京嶌忠臣翁の御遺言を、読み上げさせていただきます」

 伯母伯父様がたの正面に座った兵衛先生が、封がされていた書類を丁寧に開いていく。皆の間に緊張の糸がぴんと張られたことが、私にもわかった。

「京嶌家次期当主は、次男、亘とする。亘が何らかの理由で当主を務められないと判断されし折は、三男博巳を当主とする」

 順当な当主指名だ。長男の妻である裕子伯母様はご不満そうだったが、何も言わない。

「――もし、両名とも次期当主を務められないと判断されし折は、亘の娘月子を仮の当主とし、月子が結婚せし折は、その婿を京嶌家当主とする」

「な……」

裕子伯母様が、思わずというようにお声を漏らした。

ちらりと見れば、月子姉様も、弘文兄様も驚いたお顔をなさっている。

――無理もない、と思った。何より、私も驚いた。弘文兄様は、今は亡きお祖父様のご長男の御子息。弘文兄様がいらっしゃるのに、月子姉様を仮当主にする理由がない。

 とはいえそれは亘伯父様と博巳伯父様が揃って当主を務められなくなった場合の話である。裕子伯母様もとりあえず口を挟まないことにしたのか、眼を伏せると、それ以上は何も言わなかった。

 ――ただし、兵衛先生が読み上げられた次の言葉で、伯母様はお顔の色を一変させた。

「また、すべての財産は、次男亘と三男博巳で半分ずつに相続させるものとする」

「なんですって?」

 今度こそとばかりに裕子伯母様が赤い唇を震わせ、立ち上がった。拳をぶるぶるとけいれんさせ、かっと開いた眼で兵衛先生を睨めつけた。

「――どういうことですの。それでは、お義父様は弘文と雪子には何も残さないとおっしゃるの? 我が夫勝弘はお義父様の長男なのですよ!」

「ええ、まあ、その」裕子伯母様の剣幕に、たじたじとなりながらも、兵衛先生は頷く。「そういうことに――なりますかな」

「有り得ません。わ、我が夫は、お国のために最期まで勇敢に戦い命を落としたのですよ。この京嶌の家を継ぐのも勝弘様であったはず、勝弘様こそが京嶌の主になるはずだったのですよ。それを……その子らに何も遺さないと?」

弘文兄様が、徐々にヒステリックになられる伯母様の袖を「母さん」と言って咎めるように引く。その手を振り払い、伯母様は甲高く叫んだ。「――そんな遺言書は贋物ですわ!」

「母さんっ」

「お前は黙っておいで。――どうなの!」

「その――裕子夫人がおっしゃりたいことも、私共にはわかるのですがね。この遺言書は忠臣翁と私が協議を重ねて作った、正真正銘の本物なのですよ。法的にきちんと意味を持っておるのです。間違いなく、この遺言書は、忠臣翁の御意志なのです」

「莫迦な! そのような……そのようなこと! 何も遺さないだなんて、お義父様は孫に情はないというの」

「お母様」と、今度は控えめに雪子姉様が裕子伯母様を呼んだ。「あんなにお祖父様に可愛がってもらっていた華子だって、何も遺してもらっていないのですから。わたくしたちばかりが不満をさけぶのは……」

 突然名を呼ばれ、私は面食らって顔を上げた。遺産相続の話など、まるで自分には関係ないことだと思っていたので――実際にそうだった――話の真ん中に放り出され、驚いたのだ。

 しかし伯母様は、雪子姉様の言葉を聞いてきりりと眉を吊り上げた。

「あんな、どこぞの馬の骨の種で生まれたかも判らぬ娘! 図々しくもこの、由緒ある京嶌家に居座る居候! この家に認められて結婚をしたわたくしたちから生まれた子であるお前たちとは違います。……けがらわしい!」

「お母様、そのようなおっしゃりようは」

「――お見苦しい真似はおよしになったら、伯母様」

 私の隣から響いた凛としたお声。

それを耳にした裕子伯母様の眉がつり上がった。

「見苦しいですって?」

「だって、そうでしょう」

 お声の主である月子姉様は、伯母様に烈しい眼つきで睨まれても、ただ冷ややかな視線を返すだけだった。月子姉様のそのぴんと伸ばした背筋も、その冷然としたかんばせも、まるで月光で磨かれたかのように美しい。

私が十四才、月子姉様は十五才。

顔立ちもそこそこに似ていて、しかもたった一つしか違わないというのに、月子姉様は私よりも格段に大人びて見える。

「そもそも他所から嫁いできた伯母様は、正確には京嶌の人間ではないじゃあありませんか。それを長男の嫁だからと長らく威張り散らして。未亡人という意味では伯母様だって、この家に置いてもらっている身ではないのですか? その点華子はれっきとした京嶌の血を引く娘ですけれど」

「なッ……」

「と、言うより、人の出自をあげつらうのはどんな高貴な人間でも見苦しいわよ。そんなこともおわかりでないの。伯母様」

 ふんと鼻を鳴らし、もうこの話に興味はないとばかりに裕子伯母様から視線を外した月子姉様は、取り澄ましたお顔で前を向いた。お顔を真っ赤にして月子姉様のもとへ歩き出そうとした裕子伯母様のことを、弘文兄様が必死に止めている。

「亘さん! 真紀さん! あなたがた一体この娘にどういう教育を――」

息子に止められ、満足に身動きが取れなくなった裕子伯母様は、今度は亘伯父様ご夫妻に文句を言おうとしたらしい。そんな彼女を気にしながら、兵衛先生は慌てたように座布団から立ち上がる。

「ゆ、遺言書は以上となります。どうか遺産につきましては、私共にお任せください。悪いようにはいたしませんから」

 この場は解散、と先生はお言いになりたいらしい。

 そして、亘伯父様が無言で立ち上がったのを皮切りに、一人ひとり立ち上がり、その場を後にしていく。裕子伯母様も、怒りに震えながら、弘文兄様と雪子姉様に寄り添われて項垂れたまま座敷の間を出て行った。


 *


 遺言書公開ののち、私は間もなく夕餉の準備で呼び出され、小梅さんの指示に従いつつ品数を揃えていった。今日も皆様泊まっていかれるはずなので、板の間も随分と慌ただしい。博巳伯父様は仕事の関係で早く東京にお戻りかもしれないけれども、初七日までは暫く忙しいだろう。皆様、法要には揃って参加されるおつもりだと聞いている。

 ――食事は遺言書の公開と同じ、建具の取り払った大座敷に親戚一同揃って摂る。私も、女中仕事をお手伝いはしていても、夕餉は伯父様がた、従兄弟の兄様姉様とご一緒することになっている。京嶌家の者として食事を共にしてよいとのことらしい。

「……あら。膳が一つ足りないわ」

「ああ、それは裕子様の分です。今は皆と同じところで食事をする気はならぬ、とのことですよ」

 準備のさなか思わず呟けば、淡々とした口調で小梅さんが応えた。「食事はしばらく後で良いとのことでしたから、華子さん、のちほどお部屋をお見舞いするついでに夕餉をお持ちして。私は他にやることがありますから」

「は、はい」

 頷く。……けれど、わたしが持って行って、裕子伯母様はご不快にならないかしら。

 お父様のことをよく思われていない裕子伯母様は、私のことがお嫌いだ。……いいえ、裕子伯母様だけではない。昔から、真紀伯母様も、亡きお祖母様も、私を見る時は、鬼魅の悪そうなお顔をなさるのだ。

  

「――華子さん、先程はお母様が失礼なことを言ってごめんなさいね」

 お酒を楽しみ始めた大人たちを横目にしながら、もくもくと料理を食べていると、ふと一つ隣の席に座る雪子姉様が、申し訳なさそうなお声で言った。

 箸を止めて面を上げると、姉様のやや色素の薄い双つの眼が、うしろめたそうに曇っていた。

「お母様も、冷静でなかったの。あの遺言書に動揺して、わたくしたちのことを思って怒って、それで……」

「いいんです、雪子姉様。私、気にしておりませんから。確かにお母様とお父様は駆け落ち婚で、私は路頭に迷いかけたところを引き取っていただいた居候ですもの」

 それに、わかっている。――伯母様がたが私を厭わしい、穢らわしいと感じている理由も、わかっているのだ。

 お祖父様は私に甘かった。可愛がっていただいたが、伯母様がたは私がそういう意味で――可愛がられていたのだと、そう考えておられるのだ。

 だからただの居候の子どもに、優しくするのだと。数年前に亡くなられたお祖母様が、そう繰り返して言っておられたことも知っている。

「まあ、財産がなくても身を立てることはできるさ」弘文兄様が陽気に言う。「大学の学費を出して貰えさえすれば、俺は構わないね」

 確かに弘文兄様は学校でも優秀な成績でいらっしゃると聞くし、この家に頼らなくてもよい大学を卒業して大企業に就職なさるだろう。生活に困るようなことにはならない。

「雪子も見目は悪くないし、京嶌の名があれば嫁入り先はあるだろう。華子なら尚更だ」

「そんな……。そもそも、私、嫁ぎ先を探していただくことは出来るのでしょうか」

 ちらと隣の月子姉様を見やれば、「大丈夫よ」と一言。

「新当主のお父様にとって、華は可愛い姪だもの。これから悪いようにはしないわよ」

「そうでしょうか……」

「あの場では腹が立って伯母様にあんな口を利いたけれど、あの遺言書は確かにおかしかったわ。父親がいない孫を、まるっと無視しているみたい。特にあれだけ可愛がっていた華に何も遺さないというのが、不可解よ」

「確かに……お祖父様は私が大きくなったら、取っておきの御絵をくださると……」

「はん。御絵ねえ」月子姉様が鼻を鳴らす。「華、あんなものが余分に欲しいの? 自分の部屋にもあるでしょう。御絵を飾れ飾れって、私達昔から散々言われてきているんだから……確かにあの絵は綺麗だけれど、だからこそなんだか鬼魅が悪いじゃない」

「え……」

 思いがけない言葉に、蒼褪める。そんな、御絵を、鬼魅の悪い――だなんて。

 ショックを受けていると、雪子姉様が月子姉様を窘める。

「……月子さん、御絵は京嶌家の家宝で、榛摺村の女神であられるカカ様を描いたもので、京嶌家を祟りから守ってくださる御神体のようなものなのよ。それを……」

「祟りから守ってくださる? あの絵が? そもそも祟りとは何なの。絵を拝まないと生まれた子は十八までに死ぬ、という言い伝えのこと? この経済成長の時に、祟りだなんて、ばかばかしいわ」

 ずっとおかしいと思っていたのよ、と月子姉様が吐き捨てる。花びらのような唇から、御絵を、カカ様を罵るようなお言葉が、飛び出す。

「この家に伝わる、同じ女――カカ様とやらのをさまざまな角度から描いた、古びた写真のような面白みのない色の絵。京嶌の名を持つ者に贈られる何枚もの絵……。伯父様も伯母様も、仕来りだからと、皆絵に手を合わせて、額づく。神棚でも仏壇でもなく、ただの女の絵によ。異様としか言いようがないでしょう」 

「や……やめてください」

 私は震えながらも、なんとか口を開いた。

この村で、いいえ京嶌の者が、カカ様を侮辱するなど許されない。恐ろしいことだ。

 少なくとも私は母恭子に、そう教わって育った。御絵を、カカ様を崇めれば、京嶌の者は安らかに居られると。「それ以上はいけません、月子姉様……」

「やめないわ。そもそも、私たちが何故祟られなければならないの。その経緯を誰か知っている? 知らないでしょう。カカ様とは何者? 女神だと言われているけど、どういう女神なの? それも、知らないでしょう。皆、一度はおかしいと思ったことがあるはずよ。学校に通い出して、世間を識るようになってからは、さらにそう。違う? 戦時下で御真影にするように絵を拝む家が、京嶌の他にある?」

「――やめてくださいませ!」

 気がつけば、大きな声を出してしまっていた。

 周囲がしんとしてはっと我に返ると、月子姉様ばかりでなく、雪子姉様や弘文兄様、近くに座っていた兵衛先生やそのご子息まで私に目を向けていることに気がついた。

 ――水を掛けられたようにすぐに頭が冷えた。なんてはしたないことをと恥じ入り、俯く。私などが、当主の娘となった月子姉様に反論していい筈がないだろうに。

「も。申し訳ありません。私は、ただ……」

「華……」

「私がお祖父様に拾っていただけたのも、お母様から受け継いだ御絵があったから、ですから。それで私……、あの、ごめんなさい」

「華」さらに俯いたところで、眉を下げた月子姉様が優しい声で私を呼ぶ。「いいの、謝らなくて。そもそも家の信仰を否定したのは私の方だもの」

「月子姉様……」

「もうこの話はやめて仲直りしましょう。それに、暗い話ばかりでも良くないわ。喪に服さなければならないからお祝いはできないけれど、明日は弘文兄様のお誕生日なんだから」

「やあ、なんだ。覚えていたのか月子」

 弘文兄様が照れたように笑う。そう言えば確かに、九月の二十日は弘文兄様のお誕生日――しかも今年は十八歳のお誕生日だ。

「それは……喪が明けたらお祝いですね。ご馳走を沢山作ります」

「華、それよ」月子姉様に、肩をつつかれる。「あなた、まだ女中にこき使われて家事手伝いをさせられているの? あなたも京嶌家の娘なのよ。使用人に顎で使われては示しがつかないわ」

「でも月子姉様。置いていただくからには、お手伝いくらいしないと」

「使用人はお金で雇われているの。家事は、彼女らの仕事よ。……まさかまた何か用事を言いつけられているの?」

「ゆ――裕子伯母様のお部屋まで、お食事を運ぶようにと」

「もう! あなたって本当に気弱ね」

 私も一緒に行って伯母様に文句を言ってあげる、伯母様たちがああいう風だから華がこんな扱いをされるのよ――と、月子姉様が苛立たしげに言う。弘文兄様が、うちの母が済まない、と苦く笑っている。

 月子姉様は聡明でお強く、美しい。弘文兄様は頭が良くて、雪子姉様はお優しい。

 ……弱い私とはまったくちがって、とてもまぶしい。

 

 *


「裕子伯母様。お食事をお持ちいたしました」

 襖の外から声を掛けると、「入りなさい」と声がする。失礼いたしますと入室すれば、伯母様は悔し涙を流したのか、目を赤くしたまま部屋に置かれた文机に凭れかかっていらした。壁には、額縁に入れた御絵が飾られている。

「どうしてあなたが……」

 伯母様が、食事を持ってきたのが私と知るなり、厭な顔をなさる。

ご不快にさせてしまったらしい。私は慌てて膝をつき頭を下げる。

「申し訳ございません伯母様、小梅さんがお忙しそうでしたので、手の空いていた私が代わりに」

「そう。暇なようで結構ですわね」

 そこに置いてとっとと出てゆきなさい、と裕子伯母様は冷ややかに言う。

 これ以上怒らせぬように、私が言いつけ通り夕餉を載せた黒漆の膳を入口に置くと――そこで、私についてきていた月子姉様が「ちょっと伯母様」と前に出てしまわれた。

裕子伯母様を睨み下ろす姉様の眉は、不機嫌そうにつり上がっている。

「夕餉のお席にいらっしゃらなかったから、わざわざ華が夕餉の膳を届けに来たというのに。その態度はないんじゃあありません?」

「……あなたもいらしたの。本当に、目上の者に対する態度がなっていないこと」

「伯母様こそ京嶌家の嫁としての振る舞いではありませんわね。高潔さというものが感じられないわ」

「口の減らない娘ね」

 月子姉様と裕子伯母様が真正面から睨みあう。私はなんと言ってよいかわからず、向かいあって視線をぶつけている美しい女性二人をおろおろと見くらべることしかできない。

 ――そこで、不意に伯母様の唇が意地悪に歪んだ。

「月子さん。あなたずっと華子を庇うわね。あなたもその娘に誑かされたの?」

「はい? なんのお話でしょう」

「……そう、あなたも誑かされたのね。お義父様やあなたのお父上のように」

 伯母様は、月子姉様の怪訝そうなお顔など、目に入っていないかのように、ああ、と零して天井を仰いだ。「そうよ。いずれ皆、魅入られてしまうのだわ。わたくしが弘文を守らなければ……」

 魔物のような女! 突如伯母様はわたしを睨み、異様な形相で吠えた。

「子どものなりで、穢らわしい。鬼魅が悪いにも程があるわ。絵も、お前も!」

「あ、あの、わたし」

私はそれ以上何も言えず、後退さった。

父母の駆け落ちの末生まれた私が厭わしいということは理解ができる。しかし、お祖父様や亘伯父様を誑かすなどと、そのような事実はありはしない。「私は、私はただ――お、伯母様、裕子伯母様、どうか落ち着いてくださいませ」

「うるさい! 消えるがいいわ、この榛摺村から、この家から」

 膝でにじり寄ってきたかと思えば、伯母様は、膳の上の椀を引っ掴んだ。あっと言う間もなく、無論押さえる間もなく、汁物が顔に浴びせかけられる。「あ、熱っ……」

「華っ? っ、あなたね――!」

「だ、大丈夫です姉様」伯母様に掴みかかろうとした月子姉様を必死に止める。「つい声が出てしまいましたがそれほど熱くありませんでしたから」

 それでも月子姉様は納得していない様子だった。離しなさい華! ときつい口調で叫ぶと「あなたがやらないならわたしが代わりに一発頬を打ってやるわ」と言って、激しく身動ぎをなさる。

「やめてください!」私はもう一度懇願して、その腕にすがりつき――その瞬間だった。


 きゃあああああああ! と。

 絹を裂くような悲鳴が、私たちの耳を劈いたのは。


「今のお声って、雪子姉様……?」

 ただならぬ悲鳴だった。私は唖然として、声のした方角を見詰める。

「……、行くわよ華」

「えっ、月子姉様?」

 このような時でも、月子姉様はお強かった。

即座に裕子伯母様から今聞こえた悲鳴へと意識を切り替え、私の腕を掴んで廊下を走り出す。月子姉様のワンピースの裾が、外から差し込む月の光を浴びながら翻る。

 聡明な月子姉様は、あの一瞬で、どこから声がしたのかも把握してしまっていたらしい。迷わず――弘文兄様の部屋に向かっていった。

「あ、ああ、ああ……」

「雪子姉様! 何があったの」

「つ、つき、月子さん、あれ、あれを……」

 雪子姉様が、震えながら部屋の中を指差す。尋常でないその様子に異変を覚えていただろうに、月子姉様は気丈にも、躊躇いなく中を覗いた。

 そして。

「うそ。弘文兄様……」

 思わずと言うように声を漏らした月子姉様が、茫然と立ち尽くす。

 彼女のそんなお姿を見るのは初めてで、私も吸い寄せられるように中を見た。――そして、咽喉を詰まらせたような声だけ漏らし、尻餅をつく。

 悲鳴も上げられなかった。……本当に恐ろしいものを見たとき、ひとは声を上げることもできないのだと、私はその時初めて識った。

 部屋は血の海だった。

 弘文兄様の背中に、包丁が深々と突き立てられていた。


 2


 弘文兄様が殺されたのは午後八時半から九時の間だ、という。

 午後九時とは、丁度雪子姉様が弘文兄様に学校の課題について質問しようと部屋を訪ねた時刻である。そしてなぜ午後八時半以降に殺されたことがわかるのかというと、午後八時半に厠に行く弘文兄様を博巳伯父様が目撃していたかららしい。伯父様は挨拶だけだがやりとりをしたそうなので、弘文兄様が午後八時には生きていたことは間違いないとのことだった。

 私と月子姉様は夕餉ののちしばらくお喋りをしていたので――離れず一緒にいたので――犯人ではない。また、裕子伯母様も犯人ではないだろう。私と月子姉様が揃って裕子伯母様のお部屋に向かったのは、八時半過ぎのことだったからだ。

「とりあえず、夜も遅い。事情聴取はまた明日続きを行います。皆さん、本日は解散で大丈夫ですので、ゆっくりお休みください」

 刑事さんのお言葉で、家の者は不安を抱えながらもそれぞれの部屋に戻る。

 ――どうして弘文兄様が殺されなければならなかったのだろう。

 部屋で布団を敷きながら、考える。お優しいひとだった。妹の雪子姉様とも仲が良く、頭のいいひと。あんなにいい方が、何故?

「カカ様……」

 押し入れの奥におられる、カカ様に祈る。どうか、弘文兄様を殺した者が、早く見つかりますように。罰を受けますように。

「あら?」そこで、ふと。――押し入れのカカ様の足許に、何かが落ちていること気がついた。「何かしら、これ。板?」

 おかしい、と首を捻る。

 押し入れは御絵の、カカ様の居所だ。私以外の誰も勝手に触れないよう、そして開けないよう、普段は押し入れの戸に小さな鍵をかけている。今朝、御絵にお祈りを捧げた時はこんなものはなかったはずだ。

「ということは、突然、現れた? ……もしかしてカカ様の奇跡?」

 有り得ない、と現実を見る気持と、信じたい、という気持が綯い交ぜになり、胸が震えた。――弘文兄様を亡くし、恐怖のさなかにいる私に、慈悲をくださったのだわ。

「それにしても、不思議な板……。真っ黒で、罅が入って、鏡のように顔が映る。板の半面を包むこれは、ゴムかしら?」

 兎の耳のようなものが、飛び出している。可愛らしいと、思わず吹き出した。

 薄い板だが、横には二つの突起がある。押し込めそうなことに気がついたので、そっと指で押してみる。すると。

「きゃっ。え……光が……」

 真っ黒だったはずの表面が、不意に光った。顔を映してください、という文字が一瞬見えたかと思えば、すぐに色鮮やかな画面に切り替わる。

「……この突起はスイッチで、これは、電気で動く機械……ということなのかしら」

 小さなテレビみたいなものかしらん。お祖父様が機械があまりお好きではなかったために京嶌家にはテレビはないが、私もテレビがどういうものかは知っている。

 しかし、待てどもテレビ番組はいっこうに流れない。チャンネルを変えるためのダイヤルもない。ただ、画面は私の知るテレビの映像よりも、ずっと色とりどりで鮮明だった。

「ううん。それともこの四角い箱のようなものが、ダイヤル代わりなのかしら? ……あ、画面が動いたわ」

 もはや御絵の奇跡かもしれぬということは、頭から吹き飛んでいた。私は夢中で不思議な板を弄る。「――すごい。これ、指で動かすと、画面がいっしょに動くのね」

 画面には、小さな吹き出しが並んでいる。上から読んでいくと、『お兄』と誰かが短い文通をしているのだと気がつく。……片方が『お兄』なら、もう片方は妹か弟だろうか。

 小説かしら、と思った。けれども横書きの小説なんて、英語の本じゃああるまいし、聞いたことがない。吹き出しで、台詞のみの小説も同じく聞いたことがない。

 このチャンネルがどういうものなのかわからず指を上げ下げしていると、ふと画面の下半分に、「あかさたなはまやらわ」の文字が映る。

私は、いつだったか学校の先生に見せてもらったタイプライターを思い出した。確か、あの英字の文字の盤はキイボード、というのだったか。――それに似ている。

 恐る恐る触れて見ると、「た」という文字と、三角が文字の横に現れる。なんだろうと思って触れてみると、ぽん、という音ともに「た」が画面上に吹き出しとして現れた。

「しょ……小説の続きに割り込んでしまったわ」

 どうしましょうと慌てていると、ぽん、と音を立てて新しい吹き出しが現れる。

そこには、こうあった。

『すみません、そのスマホの持ち主の兄です。榛摺川に落としてしまったみたいで。拾ってくださってありがとうございます。スマホを取りに行きますので、居場所を教えてもらえませんか』

「えっ、えっ? どういうこと……?」

 スマホ、とはなんだろう。――この板のことかしら?

榛摺川は、当然知っている。カカ様が守護すると言われる、このお屋敷の裏山を流れる川だ。しかしこの板が「スマホ」だとすると、おかしい。川に落としたというのに濡れていないし、そもそもこの板は押し入れの中に突然現れたのだ。

「……そうだわ。突然、現れたのよね」

 そのことを思い出すと、急に、今まで楽しく触っていた板が、急に得体の知れない何かに思えてきてしまった。この小説も、本当は小説ではなく、誰かが人ならざるものと通信した記録だったとしたら。

 けれどもこの板は、カカ様のところに落ちていたものだ。いかがわしいものであるわけがない――。

「……ね、寝ましょう。今日は、もう。疲れたもの」

 これ以上ぐるぐると考えていたら、おかしくなってしまう。だから、眠るべきだ。自分に言い聞かせるようにあえて大きな独り言を言い、灯りを消す。

 そして、何もかも夢であればいいのにと祈りながら、私は布団にもぐって目を閉じた。





リンク

第二話→【タイムトンネルで飛んだスマホで】榛摺村殺人事件解決RTA【昭和因習村の少女を救え】 第2話|日部星花(小説家) (note.com)

第三話→【タイムトンネルで飛んだスマホで】榛摺村殺人事件解決RTA【昭和因習村の少女を救え】 第3話|日部星花(小説家) (note.com)

最終話→【タイムトンネルで飛んだスマホで】榛摺村殺人事件解決RTA【昭和因習村の少女を救え】 最終話|日部星花(小説家) (note.com)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?