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【タイムトンネルで飛んだスマホで】榛摺村殺人事件解決RTA【昭和因習村の少女を救え】 最終話

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

第四章

▼令和××年 九月二十二日――小野陽葵


 時刻は午後二時をとうに過ぎ、三時を回ろうとしていた。

陽葵は当然として、忠も普段ならとっくに寝ている時間であったが、華子から立て続けに座敷牢の中に残されていた日記のようなものが送られてきてしまうと、眠気も吹っ飛んでしまった。

「まさか本当の京嶌家の血が、わたしたちにも華子さんたちにも一切流れてないなんてね」

「俺たちとしては『へー、そうなんだ……』で済むけど、七十年前の田舎の村ともなると話が違うだろうな……」

まさか外国人と当主の愛人とのあいだに生まれた子が『正当な当主』とされていた、だなんて。そしてそれを、当時の京嶌家の者たちは隠蔽した――。

(亡くなった華さん、きちんと弔われてるのかな……)

 不思議な力を持っていたからと家族に売られて、美人だからと無理やり当主の愛人にされて閉じ込められ、子どもを産んだら衰弱死させられた――だなんて。なんという悲劇だろう。本当に祟りがあったとしても、まったくおかしくないと思える。

祖母はきっと、こういう話を子孫に残したくなくて、カカ様信仰に関する一切を語らず過ごしてきたのだろう。華子が撮影し、送信してきたような洞窟と座敷牢を埋め立ててしまったのも、きっとそれが理由だったのだ。

「……華子さん、無事に家に戻れたかな? もう夜中の三時近いよ」

「とりあえず家に着いたら連絡くれるだろうし、俺はもう少し待つ。……陽葵はもう寝ろよ。小学生が起きてていい時間じゃないぞ」

「ここまで起きておいて最後だけ寝られるわけないでしょ……あれ、お兄。今スマホ鳴ったよ。ラインの着信音」

 忠が「おっ」という顔をして、スマホを起動する。「無事帰れたのかな」

 陽葵も一緒にトーク画面を覗き込み、そして、未読メッセージを読んでぎょっとする。


『どうしましょう。出られなくなってしまいました。』

『どうやら、隠し扉の前に物を置かれてしまったみたいなのです。私が蔵の中に入るのを見て、追ってきて、秘密を知った私を殺すつもりなのかもしれません。』


「嘘だろ」

 忠が思わずというように零したが、陽葵も呆然とスマホを眺めていた。

 弾かれるように陽葵が忠を見ると、忠が眉間に皺を寄せたまま、『落ち着いてください』と送ったところだった。

『パニックになってしまうのが一番危険だと思います。手元にはスマホと懐中電灯以外に何かありますか? 飲み水や、食べ物は?』

『ありません。座敷牢にも、それらしいものはありませんでした。どうしましょう。私はこのまま、ここで飢え死にしてしまうのでしょうか。』

『そんなことはないですよ。大丈夫です。』

 きっと、朝になればあなたがいないことに気が付いた誰かが、探しに来てくれるはずです――忠はそこまで打ち込んだが、その文章を送らずに消してしまった。

 忠が文章を送信しなかった理由について、陽葵にも察しがついた。

(そうか。京嶌家は今殺人事件で大騒ぎだし、何より、華子さんを閉じ込めた何者かが潜んでるんだ……)

 華子は京嶌家でもかなり弱い立場だという。もしもその「何者か」が京嶌家で発言力を持っていれば、華子の救出は妨害されてしまうだろう。ただでさえ、華子は隠し扉の裏の通路という、きわめて見つけにくいところで遭難しているのだ。

 わずかな間沈黙していた忠だったが、消したメッセージの代わりに、こう打ち込んで送信した。

『僕たちがなんとか助かる方法を考えます。なので安心してください。』

(お兄、やるじゃん)

 これは華子さんもほっとするだろうな、と陽葵は思う。普段は頼りないところが目立つ兄だが、いざという時はなかなか頼りになるのだ。

『ありがとうございます。ただおそらく、助けは来ないと思いますので、私もどうにか出口を見つけられないか努力してみます。』

『もう移動するんですか? 朝まで待った方が危なくないんじゃないですか?』

『入口が隠し扉で完全にふさがれていますから、朝まで待ったとしても、きっと暗さはそう変わらないはずです。夜、少し眠っておいたので眠気もありません。進みます。』

 華子はやや元気を取り戻したようだ。この様子なら、そこまでパニックにもなっていないだろう。

 忠と陽葵は顔を見合わせて、とりあえずは安堵する。

『座敷牢のあったところに戻ってきました。』ややあって、華子からのメッセージが届いた。『残念ながら、ここはやはり行き止まりのようです。』

『座敷牢までの洞窟って、全部人が堀ったようなものでした? 掘削して、座敷牢のための空間をわざわざ作ったような感じですか?』

『わかりませんが、自然の洞窟を利用しているように思いました。多分ですが、入り口を少し掘って、洞窟に繋げたのではないかと思います。』

 これが壁です、というメッセージとともに、写真が送られてくる。

――でこぼことした凹凸は、確かに自然のものに見えた。思えば座敷牢のあった空間の写真も見たが、人工的に無理やり作られた空間には見えなかったような気がする。

「自然の洞窟と繋げたなら、出口もあるかもね」

座敷牢のためだけに道を堀り、空間を作ったのであれば、出口があるはずがない。けれども自然の洞窟を利用したのなら、どこかに繋がる可能性もある。

『座敷牢までは一本道なんですか?』

『いいえ、分かれ道がありました。左に行ったら座敷牢についたので、右の道を行ってみます。狭い道なので、しばらく返信ができなくなります。少し待っていてください。』

『わかりました。気をつけてください』

 忠の送ったメッセージに、既読が付かない。おそらくスリープにしたのだろうが、スマホが取り出せなくなるほど狭い道ということなのだろうか。

 とはいえ、広い道だろうが、スマホを見ながら洞窟を進むのは危ない。電話ができればいいのに、と思う。スピーカーモードにすれば、手が空くし視野も広がる。

 陽葵は忠からスマホを受け取り、今までのやり取りを見返す。

そこでふと、兄の顔を見た。

「ねえお兄、誰が扉の前に物なんて置いたのかな」

「なんだよいきなり。今はそんなことを考えてる場合字じゃ……」

「だって、華子さんもお兄も、連続殺人事件の犯人、わかったんでしょ? ほら」

 そう言い、陽葵はトーク画面を忠に突き付ける。そこには確かに、『事件の真相が、わかったような気がします。』『俺も、なんとなくわかったような気がします』というメッセージが並んで表示されていた。

「さすがに華子さんの閉じ込めの件と、連続殺人事件が無関係ってことはないでしょ。この事件はずーっと、カカ様の話が根っこにあったって話だったよね? それなら、カカ様の秘密を知られたら困る人が華子さんを殺そうとしてるってことでしょ」

「まあ、それはそうだけど」

「ならこっちの犯人だってわかってるんじゃないの」

 ずいと顔を近づけて、忠の目を凝視する。陽葵の深い青の瞳が、忠の黒い目に映る。

 ――陽葵に真っすぐ見つめられると、多くの人はなんでも言うことを聞いてくれた。陽葵に見つめられると、すぐに目を逸らしたくなるし、願いは断れなくなるのだという。母は違うが、父もそうだった。

 忠も違う。だが、こういう時はたいてい「仕方がないな」と頷いてくれる。

 忠は陽葵に見つめられると弱いのではなく、真剣な頼みごとに弱いのだ。

 ――果たして、忠は「わかったよ」と言った。

「多分、兵衛さんか賢二郎さんだ。華子さんを殺そうとしたのは」

「え……」

京嶌家はなんとしてでも秘密を守る必要があった、と忠は強いて平坦な声で言う。

「だからこそ、ごく一部の人間にだけ秘密を伝え、その秘密を守るために殺人を繰り返していたんじゃないか」

「殺人を――? ちょ、ちょっと待ってよお兄」

京嶌家の者が、秘密を知られては困るのはわかる。しかし、それで何故殺人を繰り返す、という話になるのか。

「……祟り」

「え?」

 忠が陽葵に視線を返し、難しい顔をしたまま言葉を続けた。

「祈りが足りないと十八歳までに祟られて死ぬって話、あったろ。まずこの話はおかしい。十八歳以上は祈りが足りなくても死なないということになるからな。……だからこれは作り話だ。十八歳までに死んだ者は、カカ様の祟りに遭ったのだと思わせるための」

「なるほど」

 言われてみれば確かにおかしい。後付けの伝承というのも納得できる。

「カカ様の言い伝え自体はおそらく、早めにできたものだ。信仰を作り上げるために必要だからな。でも、十八歳未満云々は後付けだ。たぶん、初めは十八、という区切りがあったわけじゃないんだと思う」

――『対象者』をなるべく早く、若いうちに殺していたら、いつの間にか『十八歳までに』という話が出来上がったんだろう。

忠はあくまで淡々とそう言う。

「対象者、って何?」

「秘密の継承者は京嶌家の秘密、つまり偽の子を京嶌家当主に仕立て上げたという自分の過ちを覆い隠すために、殺人を犯していたというのが俺の考えだ。つまり逆に言えば、生かしておけば秘密が露見するような子が生まれるたびに、殺してきたってことだ」

つまり、と忠は陽葵を指さした。

否。――正確には陽葵の目を、だ。


「異人の碧眼――青い目を持って生まれた子をな」


(……青い目、が)

 咄嗟に陽葵は自分の目を、瞼の上から押さえた。

昔からコンプレックスだった。この、色づいていない山の色のような、緑がかった深い青の瞳が。――これが、過ちの証だというのか。

「当主は恐らく黒い瞳だったはずだ。弱視でやや色素が薄かった可能性もあるけど、たぶん華も黒か茶色の瞳だっただろう。だとしたら二人の子の間に、碧眼の子が生まれるはずがない」

「だから、青い瞳の子を殺してきたってこと? 秘密を守るために?」

「ブルーアイは潜性遺伝だって聞いたことがある。この後もそうそう青い目の子どもなんて生まれなかったんだろう。だから誰も気づかなかったんだ」

 殺す母数は少なかったはずだ、というのか。

 それでも信じがたい話だ。途方もないとすら言える。

「でもどうして秘密を受け継ぎ、守る者が兵衛さんか賢二郎さんってわかるの」

「可能性の話だよ。当主の直系血族がその役目を負ってはまずいだろ。秘密を受け継ぐのはもちろん黒い目の者ということになるだろうけど、たとえば当主の直系、つまり本家の人間が秘密を守るための殺人をしなければならない場合、もし殺人が露見した場合、貴重な本家の黒瞳の人間がひとり減ることになる」

「……危険な『お役目』は、分家の人間に押し付けておく、そういうこと?」

 忠が苦々しげな顔で頷く。

「母さんはたぶん『京嶌家の秘密』に気が付いた。だから逃げてきたんだ。殺されるかもしれないから、高校を中退してまで。……母さんも、黒にも青にも見える色の瞳だったからな」

「そっ、か」

 ――不意に陽葵は、この町に来るまでのことを思い出す。

母は、忠と陽葵を頑なにこの町に連れてこようとしなかった。父にも、特に陽葵はこの町に近づかせるなといったことを頼んでいたらしい。

 そういうことだったのだ。

 ひとめ見て青だとわかる瞳を持つ陽葵を、母は、どうしてもここに連れてくるわけにはいかなかったのだ。

(お母さんが町を出て行く時、賢二郎さんとお母さんが揉めてたっていうのも)

 そのことで、揉めていたのだろうか。

 折り合いが悪かったというのも、秘密に気が付いた母が親戚と仲よくできなかったということだったのかもしれない。

「どうしてお母さんは秘密に気が付いたんだろう」

「……蔵にはくずし字で書かれた日記みたいなものがあったよな。俺たちは読めなくて放棄したけど、実は当時の記録が残されてたのかもしれない。母さんは高校の頃から古典とかが好きで、どうしても日本文学科に進みたかったらしいって話だっただろ? それなら、もしかしたら母さんは、町にいた時からくずし字が解読できたのかも」

「なるほどね。そういう日記に、いろいろ書いてあったかもしれないってことか……」

 陽葵は忠のスマホに目を落とした。

最後に送られたメッセージに既読がついているのを見て、ぽんと送信ボタンをタップする。

「……今、何送った?」

「ん? これまでの、お兄が話してたことを録音した音声メッセージだけど。お兄の推理の話長かったから、ラインにぜんぶ打ち込むの面倒くさいなって」

「え、ええ……お前、勝手に録音って……」

 陽葵は微妙な顔をする兄から目を逸らし、音声メッセージの聞き方だけ軽く説明すると、『合ってると思う?』とだけ送った。すぐに既読が付く。

 返事が返ってくるまで、しばらくの間があった。

 そして数分が経ち、送られてきたのは一枚の写真だった。

「……これ」

 少しブレた自撮り。おさげにした黒髪がつややかで、鼻筋が通っていて、緑がかった青い瞳の――ややレトロな洋装をした少女が写っている写真。背景は暗い、洞窟の壁。

 京嶌華子の自撮りを見て、忠が呆然と漏らす。

「陽葵にそっくりだ」

 ――そうか、そういうことか。同じく呆然しつつも、陽葵は妙に納得した。

だから、スマホのロックは開いたのだろう。スマホのロックが解除されたのは不思議な現象でもなんでもなく、単にスマホを拾い、開いたのが陽葵と瓜二つの顔立ちをした華子だったから、顔認証が誤作動したというだけの話だったのだ。

『忠さんの推測は、合っていると思います。私もこのように、青い瞳です。雪子姉様の目はさらに色素が薄い青で、弘文兄様は黒に近い青い目でした。

きっと博巳伯父様も、殺されて行っているのが青い目の者だと、気付いておられたんでしょう。だから、この目を呪いとおっしゃったのです。青い目の者は呪われているか殺されるんだぞ、と。そういうことだったのでしょう。』

(なるほど……)

 陽葵が深く頷いていると、華子が、少し広くて長そうな道に出たので、こまめにスマホを確認できそうだ、と送ってくる。

 それを見て、陽葵はスマホを持ち直し、メッセージを打ち込んでいく。そして、送信。

『雪子さんと弘文さんは、青い瞳だったから殺されたんですよね? じゃあ、新しいご当主様の、亘さん? はどうして殺されちゃったんでしょうか?』

『そうでうすね。それはおそらく、遺産を手に入れるためではないかと思います。』

(ん?)

 陽葵は首を傾げた。

『どういうことですか? 兵衛さんか賢二郎さんが、遺産のことでご当主様を殺すんですか?』

『いえ。兄様たちを殺した犯人と、亘伯父様を殺した犯人は別です。亘伯父様を殺したのは、おそらく裕子伯母様でしょう。』

「えっ……!」

 そのメッセージを見て、思わず陽葵は隣にいる忠に目を向けた。

しかし、忠の表情は崩れない。――兄は驚いていないのだ、とわかって、陽葵は唖然とした。

 京嶌裕子。長男勝弘の妻で、雪子・弘文の母。

 まさか。だって彼女は一件目の時に、華子・月子と共にいたというアリバイが――。

(いや、ちがう)

 一件目は、京嶌賢二郎もしくは京嶌兵衛の仕業でほぼ確定なのだから、京嶌裕子にアリバイがあってもおかしくはないのだ。

二件目は、京嶌兵衛が屋敷におらず、かつ雪子へ膳を運んだのが京嶌賢二郎だったことから、間違いなく犯人は賢二郎だろう。

 次々と人が殺されたから、当然のように同一犯だと考えてしまっていたけれども――そうか。一件目二件目とずいぶん毛色が違ったのに、三件目連続殺人事件のひとつに見せかけて起こされた事件であった可能性を、すっかり見落としてしまっていた。

『裕子伯母様は一件目の事件で自分にアリバイができていることを知っておいででした。ですからそれを利用しようと考えたのでしょう。これから何人殺されても、連続殺人だと思われている間は、一件目にアリバイがある自分は容疑者から外されるであろうと。』

『でも、裕子さんて人は華子さんのお祖父さんの息子の奥さんなんでしょう? 本当の娘じゃないのに、遺産を相続ってできるんですか?』

『いいえ、長男の嫁にすぎない裕子伯母様は法定相続人ではありません。

 けれども裕子伯母様には、雪子姉様の死が伝えられていませんでしたから。伯母様は部屋に閉じこもり伏せっていて、皆伯母様の部屋の近くでは雪子姉様の死に関することは口にしないようにしていましたし、警察の方も先生の牽制があったので、裕子伯母様の近くにはなかなか近寄ることができなかったはずです。』

 そして、被相続人の子である長男勝弘が既に鬼籍に入っているので、勝弘の子である雪子は相続人になることができる。

『ですから、殺すことしたんでしょう。亘伯父様と博巳伯父様と、それからおそらくは月子姉様を。そうすれば確実に、雪子姉様に遺産が渡ることになるでしょう?』

『ちょ、ちょっと待ってください! それってつまり……』

 

『はい。まだ殺人は終わっていないのです。少なくとも三件目の犯人である裕子伯母様にとっては。』


 亘が夜に殺されたのは、ほとんどの人間にアリバイがないからだろう、と華子は付け加えた。

 裕子は容疑者を絞らせたくなかったのだ。――三件目にアリバイはなくとも、連続殺人事件に見せかけることさえできれば、京嶌裕子は『息子を殺された可哀想な親』であり、『一件目の殺人のアリバイのある人物』である。容疑者が減らなければ、警察にも疑われにくいままでいられる。

 ついでに殺されてしまったのは女中だったのだろう。深夜、亘の部屋に忍び込んだ裕子は、入口の近くに飾られている刀を使い、眠っている亘を殺した。その時彼と眠っていた女中は目を覚ましてしまい、目撃者となってしまった。――だから殺された。亘、女中、の順で殺されたために、彼女の胸に刀が突き刺さっていたのだ。

「……、ちょっと待って」

 容疑者を絞らせないために夜に犯行を行った。

 連続殺人はまだ終わっていない。

 そうすると、つまり――京嶌裕子は、今夜また人を殺すことになるのではないか?

『きっと次は博巳伯父様でしょう。早く助けないと、殺されてしまうかもしれません。』

(そんな……)

 人が死ぬ。

この時代のことではなくとも、スマホで繋がった、その向こう側でまさに今。

 そして華子も、殺されてしまうかもしれないという危機に陥っている。それもひと思いにではなく、ただ閉じ込められて、じりじりと弱らせて見殺しにされようとしているのだ。

「……とにかく、まずは華子さんを助けないとな」

「お兄……」

「華子さんはとりあえず、狭い道は出られたんだろ。どうなってる? 出口は見つかりそうだって?」

 陽葵が忠の疑問をそのままラインに送ると、すぐさま華子が応える。 

『広い道には出ました。でも、坂が続いて、下がったり上がったりしていて、出口に向かっているのかは存じません。途中分かれ道もいくつかあったのですが、どこに行けば正解だったかはさっぱり判らないのです。』

(洞窟……)

 裏山は大きくも高くもないが、洞窟が深くないか、入り組んでないかというと話は別だろう。世界では洞窟探検で遭難し、死んだという話はいくらでも転がっている。

 人は三日水を飲めなければ死ぬ、という。まだほんの十四歳の華子となると、いつまでに出口を見つけることができれば、無事に脱出することが叶うのだろうか――。

『あまり無闇に進まない方がいいかもしれません。洞窟には危険なガスが溜まっていたりすることもあると聞いたことがあります』

『ですが、どこに危険なガスがあったりするのか、かんたんに判ったりするのでしょうか?』

『窪みなどに不自然に草木が生えていなかったりすると、危うかったりするそうです。そこの空気をひと吸いするだけで気絶、なんてこともあると聞くので、あまり深く息をしない方がいいかも』

 忠が必死に洞窟でのサバイバル方法を調べ、華子に送っている。

 けれども、救助が望めない以上、必要となるのは長くサバイバルをする方法よりも脱出方法だろう。

(どうしよう。これじゃ埒が明かないよ……)

 洞窟がかなり入り組んでいることは、華子の話から察しがつく。正解の道など、忠も陽葵もわかるはずがない。

 ただでさえ出口があるかどうかもわからないのに、分かれ道で迷い、さらに山の深部に行ってしまえば、たとえ出口があっても迷い込んだまま出てこられないだろう。

 ――残酷な殺害方法だ。

 奇跡でも起きない限り、どこが道なのかもわからない洞窟で女の子が一人、生きて戻れるはずがない。

「どうにかして、出口の場所だけでもわからないかな」

「そうだな。ゴーグルマップに洞窟の出入口、とか書いてあったりしないか――待て。マップ?」

 忠が唐突にラインのトーク画面を閉じた。

 陽葵が目を丸くするのをよそに、検索エンジンを起動する。

「ちょっと、お兄? 何してるの?

「――マップだよ、陽葵」

「マップ?」


「ケイビングだ。この裏山ではケイビングが流行ってるって聞いたよな」


 陽葵は、はっと息を呑んだ。

 確かに聞いた。山の中腹に洞窟の入口があって、そこから入って探検するツアーがあると。

 ケイビングの洞窟の道と、今華子がいる道がもしも山の中で繋がっているのであれば、ケイビングに使われている洞窟入口こそが、出口になりうる。

「洞窟内の細かい地図も観光サイトにあるかもしれない。どの道をどう行けば、出口にたどり着けるのかも、それを見ればわかるかもしれない」

 陽葵は思わず背中をはたいた。

「お兄ごちゃごちゃしゃべってないで早く!」

「わかってる、叩くな! ――あった! これだ!」

 山を輪切りにした断面図のようなマップが、スマホの画面に映し出された。

 表示された洞窟マップをすぐさまスクリーンショットをした忠が、それをトーク画面に送信する。

『これは?』

『山の洞窟の地図です。僕らの時代では、山の洞窟体験ができるといって観光客をこの地に呼び込んでいるので、地図があるんです。脱出の手がかりになるかもしれない』

 すぐに既読がつく。

『いま私がいる道も、この地図に載っているでしょうか?』

『きっとあります! 地図自体が細かいですが、まず現在地を探りましょう』

 忠と陽葵で地図を覗き込む。

 午前三時である。大人を頼りたいが、そもそも起きている大人がいないし、洞窟探検は専門家が先導する。おそらく京嶌家の人間は洞窟には詳しくないだろう。

「ケイビングのための洞窟入口は中腹。蔵は山の低い位置」

 さすがにマップには蔵の裏にある洞窟の道はなかった。埋め立てられているのだから当たり前だ。  

 だが、どのあたりに埋め立てられた洞窟があったのか、想像はつく。

「京嶌家がたぶんこっちでしょ」陽葵は地図の下側を指差す。「なら、京嶌家の蔵はこの地図じゃ少しだけ左のあたりとすると、蔵の裏の隠し通路は、このあたり?」

「隠し通路の途中の狭い分かれ道を通ると、広い道に出たって言ってたな。蔵の位置から近そうな広い道は……これか?」 

 有り得る、と反射的に陽葵は思った。忠も半ば確信のある目をしていた。

 この地図では、広い道を歩くと、細い分かれ道に当たる。ずっと左を選んでいれば、広い道をずっと進めるというわけだ。坂があるかはこの平面的な地図ではよくわからないが、華子も分かれ道のことには言及していたはずだ。

 華子は隠し通路からこの道に出たのだ。間違いない。

『華子さん、おそらくあなたがいるのはこの道です』忠がマップのスクリーンショットに印をつけ、メッセージとともに送信する。『隠し通路から出たなら、道のこの辺りに出たはずだ。分かれ道をどっちに進んだか覚えていますか?』

『覚えています。自分のいる場所も、なんとなく判ったような気がいたします。』

(良かった……!)

 ただ問題は、華子が今いるであろう場所が、ケイビング入り口からかなり遠いところにあるという点だ。大人でもそこそこかかる道のりだのに、女の子が歩くのは大変かもしれない。脱出までに二時間は掛かるだろう。

 しかし華子はあくまで毅然としていた。

『死ぬまでここにいなければならない訳ではないなら、二時間なんてかんたんです。』

 必ず脱出してみせます。

 そう、短く送られてきた、それから二時間と三十分後――。


『出口が見えました。お二人は私の命の恩人です。』


 今まさに夜明けを迎えた陽の光が、大きな洞穴から零れてきている写真が送られてきた。

 午前五時三十五分のことである。

 


▼昭和××年九月二十二日 榛摺村


「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 出口を目指して二時間と三十分、必死に歩いた。出口が見つかった安堵、すぐそこにあるのだという安堵で、腰が抜けそうになっている。平地ではなく、凸凹とした道を上ったり降りたりもしたので、足がろくに動かない。

 わたしは壁に手をつきながらもふらふらと出口にたどり着くと、大きく口を開ける洞穴から這い出る。

(眠い。寒い……疲れた)

 ここはどこだろう。――屋敷の裏山の、屋敷側ではない方かしら。

 ダメだわ、と近くの木に寄りかかる。屋敷側ではない方、とは何だ。疲労で何も考えられなくなる。

 早く帰らなければならないのに。そうしなければ――。

(少し……少しだけ)

 そう思って目を閉じる。すぐに睡魔がやってきた。


「――さん! 華子さん!」

 名前を、呼ばれている。

 意識が浮上していくのを自分でも感じながら、私は瞼を持ち上げた。

「んん……」

 顔を上げる。すると目の前には、見覚えのある壮年の男性の顔があった。……刑事さんだわ、と眠気が残る頭で考える。

 わたしはまだ身を預けた木の根元に寄りかったままのようだ。

 ――ぼんやりとしたまま手元のスマホを隠し見れば、バッテリー切れです、と画面に文字が浮かび上がったのが見えた。

「無事で良かった。君の姿がないと、京嶌家の月子さんが心配しとりましたよ。また新たな殺人が起きてしまったので、事件が巻き込まれたのではないかと……。とにかく、担架を持ってきたので運びますよ」

 新たな殺人。

 事件に巻き込まれる。

 ぱちぱちとゆっくり瞬きをし――刑事さんの言葉の意味を咀嚼し、そこでわたしはようやく完全に目を覚ました。

「新たな殺人があったとおっしゃいました?」

「あ、ああ。親戚の君には酷なことと思いますが……」

 もしや、と言って、刑事さんの背広の襟を掴む。

「殺されてしまったのは、博巳伯父様ですか?」

「どうしてそれを……」

 刑事さんの顔色が変わる。

 そして、そもそもどうしてあなたはこんなところで寝ているのだ、と厳しい顔で問われ、私はなんとか木につかまりながら立ち上がる。

 怪しまれているのだ。犯人と疑われているかまではわからないけれども。

「私はあの、洞窟の中で迷っていたんです。博巳伯父様の死には関係がありません」

 それでも、毅然と立ってみせた。

 スマホは繋がらない。七十年の彼方にいる親戚たちは、もう助けてはくれない。

 ――私は誰かに縋るのではなく、一人で立たなければならない。

 あの暗い座敷牢を見て、ようやくそれがわかった。

「伯父様を殺したのは裕子伯母様です。亘伯父様も、裕子伯母様が殺害したと思います」

「なんだって……? どうしてそんなことがわかる。そもそも京嶌裕子さんにアリバイがあると証言したのは君と月子さんだったでしょう」

「それは一件目のことでしょう。私は三件目と四件目の殺人の話をしています」

 まさか、と刑事さんが目を剥いた。

「一件目と二件目、三件目と四件目で犯人が違うとでも言うのか」

「そうです。動機は遺産。弘文兄様を喪い周りに気遣われ、雪子姉様の死を知らされなかった伯母様は、亘伯父様、博巳伯父様、月子姉様、私を全て殺すことで、遺産を全て雪子姉様に継がせようとしたのです」

「莫迦な。そんなことまで企んで、娘の死に未だ気づかなかったなど、有り得るのか」

「息子を喪い、正気を失い、四人を殺そうとさえ企んだ方が、まともな精神状態だと思われますか。……思い込みとは、強いものです。私はそれをよく知っています」

 数日前の私が、いもしない、作り上げられただけの女神に縋っていたように。

 胡散臭いと断じる月子姉様の言葉に耳も貸さず、ただただ信じていたように――。

「伯母様はご自分が『子を殺された親』である限り疑われないとお思いのはず。だから危険を犯して、警察の方が着目しているこの家で、家の他のものにアリバイが成立しにくい夜を狙い、何度も殺人犯しました。……反面、人の目が多くある以上、証拠を隠滅するのも難しかったでしょう」

 博巳伯父様がどうやって殺されたのかは知らないが、少なくとも三件目――正確には三件目と四件目の殺人は、あれほどの出血量だったのだ。

 着物に返り血をたっぷり浴びただろう。

「伯母様の部屋を調べてください。きっと殺人の証拠が出てくるはずです」

「……。私はこれまで君を、ただ顔の綺麗な、穏和しいだけの少女だと思っていた。だが」

 唖然と、刑事さんが私を見詰めている。

 彼の目に映る私を見て、そうだ、と思った。――もうこれで、京嶌家の人間は、月子姉様と私しかいなくなってしまったのだ。 

「君はそれほど、毅(つよ)い顔をした少女だったかな」

「……人は、変わるのです」

 私はスマホを握りしめた。

「変われるのですよ、刑事さん」


 *


 私の言葉が切欠となったのか、あるいはもう他の刑事さんが既にその可能性を考えていたのかは判らないけれども――その日のうちに裕子伯母様の部屋には捜査が入り、伯母様は逮捕されることになった。すぐに詳しい調べが行われ、殺人犯として起訴されるだろう。

「ふう……」

 わたしは部屋で大きく伸びをした。

 押し入れの中には、人目を避けて丁寧に飾られていた絵は、もうない。

(広いわ。こんなに、このお屋敷は広かったかしら)

 人がどんどん減っているから、そう感じるのだろうけれども。

 というのも、使用人が次々と京嶌家を見限り、出て行ってしまったのだ。この家を継ぐ男がことごとくいなくなり、もはや京嶌家はこれまでと思ったのだろう。小梅さんや古参の女中は残ったが、それだけだ。

(それでも、事件はほとんど解決した)

 残る問題は――。

「……華。少しいいかしら」

「月子姉様」

 部屋の外から声を掛けられたので、戸を開ける。月子姉様はここしばらくで大分回復されたが、真紀伯母様が心を病んでしまわれたこともあってか、お顔に疲労の色を残している。

「どうかなさいましたか? あの、中にお入りになってくださいな」

「いいの。……聞きたいことがあるのよ」

「はい、姉様。お答えいたします」

「そう。……華」

 月子姉様が私の目を見る。美しい瞳だ、と思った。私とは違って。

「あなた、警察の方には何も言わなかったそうだけれど、本当は知っているのじゃない? 弘文兄様と、雪子姉様を殺した犯人が誰なのか」

「……」

 そう。

 残る問題とはそのことだった。

(……二件目の犯人は、わかる。状況的に賢二郎さんしかありえない。ただ一件目ははっきりしない。兵衛先生でも、賢二郎さんでも、どちらでも有り得る)

 警察に詳しく話をしてしまうことも考えた。

 しかし躊躇った。犯人は分家の二人のどちらかだろうから調べてくれと言えば、その理由を話さなければならなくなる。

 京嶌家の犯した罪を。

 そう――私は迷っているのだ。この血に塗れた惨劇の真相を表に出すべきか、否かについて。

(でも、このまま秘密を抱え込んでいるだけでは、そのうち私も先生か賢二郎さんのどちらかに殺されてしまうわ。生き残ったことは知られてしまったのだから、いつ『祟り』に遭うかわからない)

 それならば、一か八か――。

「……わかりました」

「華?」

「私の知っていることをお話します。一緒に、来てくださいますか」



▼令和××年九月二十二日 楊梅町――小野忠


 どうにか。

 どうにか、華子を救出することができた。

 そう思って、床に身体を投げ出したのち、すぐに意識が遠ざかり――忠が目を覚ますと、太陽はいつのまにか南の方まで昇っていた。

(もう昼か……)

華子が健闘している二時間半、忠たちもずっと起きていた。気晴らしになるというので時折メッセージを送ったり、いまだ残る疑問について軽く議論をしたりしていた。そのため、忠たちも気を張って地味に心が疲れていたのだろう。忠は、出口を見つけたというメッセージを見るやいなや、妹と二人、気絶するように眠ってしまったのだ。

「おー、おはよう。起きたか忠くん」

 襖が開いて幸也が顔を見せた。まだ覚醒に至っていない陽葵が、低く唸り声を上げる。

「幸也さん。おはようございます」

「朝寝坊はまだいいけど、昼は食べたほうがいいんじゃないかって敦子さんに言われて起こしに来たんだよ。なんだ、兄妹そろって昨日夜更かしでもしたのか? 動画とか見てた?」

「まあ、なんでしょうね、そんなところですね……脱出RTA実況みたいな…」

「へー、ゲーム実況とかか? 面白かった?」

 忠は曖昧に笑った。昨晩は必死だったので、当然ながら面白くはなかった。

「まあいいや。陽葵ちゃーん、昼飯だぞー」

「るッさいな……」

「口わっるいなこの子」

 寝穢い妹をなんとか起こしにかかっている幸也を横目に、忠は大きく伸びをした。太陽の光が眩しい。きっと、華子もそう感じていることだろう。

 脱出の報告をもらったあとに送った、『おめでとう!』のメッセージには、いまだ既読がついていなかった。ラインだけ起動することで、細々とだが保たれていたバッテリーも、とうとう切れてしまったのかもしれない。

 ただきっと今頃、華子は無事家に辿り着いていることだろう。

(よかった。……本当に)



 七十年前の疑問は解消された。――とはいえ、まだ疑問は残っている。

 未だ昏睡状態である祖母。彼女の水差しに、毒を盛ったのは誰なのか、である。

「やっぱり、幸也さんか賢一さんなのかな……」

 昼食を食べ終えたあと――用意してもらった朝食を無駄にしてしまったお詫びとして――二人で皿洗いをしているさなか、ぽつりと陽葵が言った。その発言自体は唐突だったが、陽葵が何を言いたいのかはすぐにわかった。忠としても同じことを考えていたからだ。

 二人の予測では、祖母が唐突に『カカ様』のことを口に出してしまったから、そのために、カカ様のことを知られたくない者が、祖母を口封じしようとした、ということになっていた。

 そして実際、『カカ様』の件に関しては京嶌家にとって大きな秘密が隠されていた。人に知られれば、京嶌家の名声が地に落ちるような秘密である。

(実際、京嶌家の一部が、秘密を外に漏らさないようにするために殺人まで犯していた)

 七十年前には二人の人間が殺された。特に京嶌雪子の死には、幸也の祖父、賢二郎がかかわっていたと思われる。

 であれば、カカ様のことを突然口に出した祖母を手にかけたのも、今の分家の二人・幸也か賢一である可能性は高いだろう。

 ――そこまで考えたところで、忠はふと我に返った。

(待てよ。どうして賢二郎は捕まっていない?)

 京嶌賢二郎に殺人の前科があるなどと言う話は聞いたことがない。もちろん、会ったばかりなので、ありえないとまでは言えないが――それでも可能性は低いだろう。親戚に前科があれば噂くらいは聞くはずだ。

 華子は賢二郎と兵衛が殺人事件にかかわっていたことを知っていたはずだ。家の名誉を守るため、華子が口を噤んだのか? あるいは、警察には話したが、証拠が揃えられず捕まらなかった?

「ちょっとお兄、水、水。手を止めるなら水止めなよ」

「あ、ああ。ごめん……」

 ぼうっと考え込んでいたら、横から伸びてきた陽葵の手が、蛇口の水を止めた。手を動かさずに水だけ出しっぱなしにしてしまっていたらしい。

「どうしたの。何か気になることでもあったの?」

「いや……何かが引っ掛かるんだよ」

 だがその何かがわからない。

喉に魚の骨が刺さって抜けないような、些細な違和感、不快感が消えない。

「俺たちはカカ様のことがバレたら困るからおばあちゃんを殺そうとした、とか考えてた。でも、そもそも分家はまだ秘密の守り手をやってるのか?」

 賢一の世代、幸也の世代まで、秘密を守るという使命が残されているのだろうか。碧眼の子が生まれたら『祟り』として殺さなければならない、と言われているのだろうか。

 ――伝わっていないのなら、京嶌家の人間が、カカ様の秘密を守るために祖母を殺さなければならない道理はなくなる。

「わからない、けど……」陽葵が困ったように続けた。「でも、思えばわたしたちに蔵に行ってみたらって勧めたのは、賢一さんだったよね。秘密を知られたくないなら、わたしたちを蔵に近づけたりしない、よね? 普通」

「……そうだよな」

何故なら蔵には隠し扉がある。通路は塞がれているものの、それでも秘密を知られるのを厭うなら、わざわざ忠たちを蔵に近づける必要はなかったはずだ。

――つまり、賢一は『何も知らず』に『ただ探検すると面白いかもしれないから』というだけの理由で、二人に蔵に行くことを勧めた可能性が高い。

「気になることはまだある」

「なに?」

「おばあちゃんは御絵を処分した。秘密を継承せず消し去ることしたからだ。……じゃあ、どうして三枚は蔵に残されていた? 何もかもなかったことにするんだったら、保管された御絵もまとめて、全部完璧に処分するべきだろ」

「それは、まあ、確かに……。京嶌賢二郎か京嶌兵衛が、どうしてもその三枚を残したいって主張したのかなあ?」

「理由は?」

「う、うーん……」

 混乱してきたよ、と陽葵が低く呟いた。先ほどから妹の手は、ずっと同じ皿の同じ個所を拭いている。

「それに、碧眼の子が殺される『祟り』は、もう終わった、んだよな?」

「それは、そうなんじゃない。だって祟りの正体は明らかになってるわけだし。……ん? あれ、でも、碧眼だったお母さんは逃げ出したんだよね。十八歳になる前に」

「そうなんだよ。つまり、母さんは『祟り』の前に逃げ出せただけ、という可能性もあるんだよ。青い目の母さんが大人になったことは『祟り』が終わった証明にはならない」 

祖母は子どもたち、つまり母たちにカカ様のことを一切伝えなかった。座敷牢を埋め立て、御絵を処分し、言い伝え自体をなかったことにした。

そのこと自体は、京嶌家の名誉を守るための判断だったのだろう。理解はできる。

 だがそれは、臭い物に蓋の理屈だ。

 逆に、母の世代に何も知らせないことで、「碧眼の子を殺して秘密を守る」という京嶌家の風習が宙ぶらりんになってはいないか。

「いや、でも待って。やっぱり『祟り』は終わってるはずだよ。だって華子さんは殺されてないよね? どこかに嫁いだって……」

「それだよ」

「え?」

「華子さんはその後どうなったんだ? 嫁いだって話は俺たちが勝手に考えてただけだろ。俺たちは京嶌華子のその先について、確認してない」

 がしゃん、と、陽葵の手から滑り落ちた皿が床に叩きつけられて割れる。

 飛び散った皿の破片が忠のはだしの足を傷つけ、肌から細く血が流れた。

「まさか。華子さんは死んでるかもしれないって、言いたいの?」

「……俺たちは彼女が真実を知り、それをみんなに伝えるはずだから、何もかも解決するものだと思っていた。でもよく考えたら、おかしいだろ。カカ様の秘密は解明されたわけじゃなく、その痕跡を僅かに残して『なかったこと』にされてる。京嶌賢二郎は無事に弁護士になり、捕まってもいない」

 つまり、と忠は血が流れた自分の足を見た。

「何かが起きたんだよ。華子さんが助かったあと、何かが」

 だがもう、スマホは繋がらない。

 確かめる術はない。

「…大丈夫? すごい音がしたけど」

 するとそこで、慌ただしい足音が近づいてきたかと思えば、台所の戸が開いた。

顔を見せたのは京嶌賢一で、忠と陽葵は揃って肩を強張らせる。

「今の音は……ああ、皿を割ってしまったのか。おや、二人とも足を怪我したのか。私が破片を拾うから、破片のないところで服や髪をはたいて欠片を落としなさい」

「あ、はい。あの、先生、どうしてここに」

「ん? 近くの部屋にいたんだが、突然がしゃーん、って音がしたからね。何かあったかなと思って様子を見に来たんだ」

「そうですか……」

 賢一は棚から大きなビニール袋を取り出し、割れた皿のかけらを次々袋へ放り込んでいく。服をはらったら掃除機を取ってきてくれと言われ、はい、と頷いた陽葵が、台所をあわてて飛び出していく。

「ああ忠くん、君足を怪我してるじゃないか。早く洗わないと」

「……賢一さん」

「ん?」

 しゃがんで大きな破片を拾い集めていた賢一が、忠を振り仰ぐ。「どうかしたかな」

「先生が、俺たちに蔵に行くよう勧めたのは、本当はどうしてだったんですか」

「本当は……? いや、別にただ、前に言ったように、君たちは蔵探検みたいなことが好きなんじゃないかと思って」

「どうしてそう思ったんですか」

「どうして、か。そういえばどうしてだったかな……」

 首を捻った賢一が、ふと「ああ」と零し、何かを思い出したのか顔を輝かせた。

「そうだ。月子様だよ。月子様がおっしゃっていたんだ」

「……え?」

「二人はこういう古い蔵のようなところが好きだと聞いたから、見せてやりたいってね」

「祖母が……?」

 それはおかしい。

 確かに、兄妹のうち陽葵は好奇心旺盛で、古い村の旧家に伝わる蔵、などと言われれば興味を示すだろう、と近しい者ならわかる。

 しかし祖母は、つい先日が完全な初対面だったのだ。母と連絡を取り合っていたわけでもなし、陽葵や忠の興味がどこにあるかなど、わかるはずがない。

(伯父さんか叔母さんかから聞いたのか? わざわざ姪の趣味を母親に話すか……?)

 忠は賢一を見る。おぞましい祟りを起こしてきた一族の現当主の顔を、見る。

 日本人らしく黒い瞳は、嘘をついている者のそれには見えない。

(黒い、瞳……)

 何かが思い出されそうになった、まさにその時。

 先ほどの賢一の足音とは比べ物にならないほどに慌てた足音が近づいてきたかと思えば――これまた凄まじい勢いで台所の戸が開いた。

「先生! 忠くん」

「敦子叔母さん。どうしたんですかそんなに慌てて」

 肩で息をしている叔母は、嬉し涙を目に浮かべながら、なんとかこう言った。

「――母さんが目を覚ましたって!」



▼昭和××年九月二十二日 榛摺村


 蔵の奥にあった隠し扉を開け、懐中電灯を持って先導し、座敷牢まで月子姉様を案内する。

 隠し扉の存在を知ってから呆然としたまま無言でいらした月子姉様だったが、座敷牢を見て、はじめて「なんてこと」と呟いた。

「こんなものがあっただなんて……」

「こちらが、日記です。この座敷牢に入っていたであろう者が書いたものだと思われます。そしてこちらが、この家にいた絵師の日記」

 月子姉様に、二つの冊子を渡す。彼女は黙って受け取ると、こわごわとした手つきでページをめくっていく。あっという間に一冊の日記を読み終えると、そのまま次の日記に手をつける。

 ――私よりも遥かに、読み解くのがお速い。さすがは月子姉様だ。

「こんな話が……では、兄様たちを殺したのは先生か賢二郎さんだったと言うの」

「はい。雪子姉様の事件は賢二郎さんの仕業でしょうが、一件目はまだどちらか判りません。私は昨日この隠し扉に気がつき、中に入ったところ、おそらくどちらかにここに閉じ込められてしまいました。なんとか、道を見つけて脱出」

「そうだったのね……。――華」

「はい」

 振り返った月子姉様が、こちらに両手を伸ばす。

 そして次の瞬間には、私はその腕に抱きしめられていた。

「怖かったでしょう……!」

ふわりと花の香りがする。

髪に丁寧に塗り込まれた、香油の匂いだろう。

「ごめんなさい、助けてあげられなくて。あなたはたった一人で、この事件をどうにかしようと考えていたのよね。私は……ふだん偉そうにしておきながら、肝心なところで役に立てなかった」

 姉様が鼻を啜っている。涙を流しているのだと気がついた。

 月子姉様が人前で泣くのを見るのは、これで二度目だ。

「絵への信仰はもうやめましょう。カカ様は女神様などではなかったのよ。祟りも、ただの秘密を守るための殺人を誤魔化す作り話……。これからら子孫に受け継ぐべきではないわ」

「私もそう思います。……月子姉様はずっと、下らないとおっしゃっていましたものね。それが正しかったのでしょう。視野が狭い己が、恥ずかしいです」

「そんなことはないわ! あなたはこの秘密を見つけて、殺人事件の謎を解明したのだもの。私な土より余程立派だわ」

 月子姉様がゆっくりと身体を離す。

 そして、私から視線を外して日記を見下ろした。

「この、あなたの同じ名の少女も、本当に苦しんだのでしょうね。たった独りで……」

「ええ」

「そしてあなたも、私が知らないところで、きっと多くの苦しみを感じてきたのでしょうね。これを読んで身につまされたわ。……この日記の少女と同じように、華、あなたも特別だから――」

 同じ人間だとは思えないくらいに美しいから、と。

 誰も彼も魅了してしまうほどの美貌の持ち主だから、と。

 姉様が――そう言う。

「でも大丈夫! もう、苦しまないでいいの。私は一生、あなたの味方だから」

 日記に目を落としたままの姉様の横顔には、涙のあとがある。

 ――美しいのは姉様の方だ。

 私は、笑みを浮かべ、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。

 ……私は見てくれは確かに、美形揃いの京嶌家の中でもとりわけ整っているだろう。

それでも姉様は誰よりも美しかった。その高潔さと、聡明さで、姉様は常に輝いていた。

 だから。

「華の幸せは、わたしが必ず守ってあげるか――らぇ?」


 私はその姉様の頭を、地面に落ちていた大きな石で、思い切り殴りつけた。


 めき、ぐしゃ、と嫌な音がした。

顔に生暖かいものが飛び散った。

 何か重いものが落ちる音がして足元を見ると、そこには月子姉様だったものが転がっていた。

「……ふふ」

 ぴくぴくと痙攣している。――あら。もしかしたらまだ生きているのかしら。

 まあ、生きているのでも死んでいるのでもどちらでも構わない。どうせじきに死ぬだろうからだ。

 そうして這いつくばっている姿が、あなたは一番うつくしい。

「ふふふふふ」

 今際の姉様が、残っている方の眼球を私に向けている。漆黒の瞳が、どうしてと言っている。宝玉のような目から、涙が零れている。

 嗚呼! 

私は震えた。――その哀れなお顔が見たかった!

「月子姉様。私はね、ずっと、かわいそうでみじめなあなたが見たかったのです」

 自分では自覚していなかったけれど、おそらくずっとずっと前から。

「そうと自覚したのは、亘伯父様が殺されて、泣くあなたを見た時です。――冷たくなった伯父様に縋って泣くあなたを見て、私はこれ以上ないほど昂揚した」

 姉様が哀れな顔をするたび、私は笑みをこらえるのに必死だった。

そして、あの日記を読んで、否が応でも自覚させられたのだ。私は確かに悪魔と呼ばれた男の血を継いでいるのだと――。

「姉様。美しく聡明でお強い月子姉様」

歌うように、言う。上機嫌に。恍惚と。

「私はあなたに憧れていました。けれどね、あなたのことが大嫌いでもあったのです」

 月子姉様がその美しさを発揮する度、そして私を庇い守ろうとする度、私は申し訳なさや居たたまれなさと同時に、ひどい惨めさに襲われた。

 親がいて、頭が良くて、自信に満ちている彼女は、哀れな従妹を守った実感を得て、どれだけ気持ちが良かっただろう。どれほどの優越感に浸っただろう。

 そう考えると、苦しくなるほどに屈辱を覚えたのだ。

「だからね、姉様」

 私はにっこりと笑った。

 強気に、美しく。――あなたのように。

 

「これからは私が京嶌月子になるの。だからあなたはずっとそこで眠っていて頂戴」


月子姉様は――否。

『京嶌華子』は、もう動かない。

黒い宝玉の用ようだった瞳も、いつの間にか濁っていた。

「月子姉様。なんてかわいそうなのかしら」

 彼女ともあろう人が、その死を誰にも気づかれず、何もかも奪われたまま、孤独に死んでゆくだなんて。

 なんて可哀想で――昂揚する話なのかしら。

「ねえ、いるんでしょう」

 私は振り返り、懐中電灯で後ろを照らした。

 そこには、その手に刃物を持った、京嶌兵衛が立っていた。

「やっぱり。青い目の私も、秘密を知った月子姉様も、生かしておけないものね。つけてきているのは知っていたわよ」

「……気狂いが。味方であろうとした従姉を殺すとは」

 京嶌兵衛の眼はおぞましいものを見る眼だ。

 心外だ。何故、私がこの人に、そんな眼で見られなくてはならないのか。 

「あなたたちに言われたくないわ。百年も前の秘密を守るためだけに、青い目の子どもをひたすら殺してきたあなたたち一家にだけは。今だって私達を殺しに来ているんでしょうに」

「私たちの崇高な使命と、貴様の歪んだ利己心を一緒にするな!」

「崇高な使命? 悪魔の子を当主に据えた秘密を守ることが? 笑わせてくれること」

 私はゆっくりと京嶌兵衛に近づいていく。

 得物を持っているはずの京嶌兵衛が、丸腰の私を相手に一歩後ずさる。

「――そもそも何故貴様は蔵に入れた! 鍵は我々一家が管理していたはずだ」

「お祖父さまが合鍵の場所を教えてくださっていたの。何かの役に立つかもしれないからとね」

「あの爺……怪しいと思っていたら。やはり、お前に既に籠絡されていたのか」

「……その言い方だと、やっぱり秘密は後継者から後継者にではなく、京嶌家当主にも共有されていたのね」

 だからお祖父さまは私に鍵をくれたのだ。

 蔵の秘密を知ることは、青い瞳の子が身の危険を察知し逃げ出すことができる唯一の道だから。

 おそらく口で説明ができなかったのは、京嶌家の秘密はその目で見なければ信じられるものではないと判断したためだろう。 

「――それから、伯母様方も何やら誤解をしていたようだけれど、私はお祖父さまを籠絡なんてしていないわ。お祖父さまは、好意で鍵をくださったのよ。私を特別可愛がってくれた理由もそう。私は特別なことはしていない」

 私が望んだことではないが、男にも女にも、私の都合のいいように動いてくれる者はいた。お祖父さまのように、そして月子姉様のように、容姿に勝手に惑わされ、尽くしてくれる者のことだ。――同じように、そんな私を魔物だと蛇蝎のごとく嫌う者もいたけれど。

 

 私は望まぬまま特別だった。

 だからこそ孤独だったのだ。

 

「ねえ先生。どうしてこの村に来た異人が悪魔と呼ばれたか、知っている?」 

「突然、なんだ。……知らないが」

「なら、考えてみて。絵師の日記にも、華の日記にも理由の記述はなかったでしょう」

 私はにっこりと笑う。

 京嶌兵衛が明らかに怯んだ顔になった。

「が……外国人だからだろう。金髪碧眼は、こんな田舎の村では初めて見る異物だったはず。そういう異物を鬼とみなして、伝承として残す例は日本でも散見されている」

「あら。本気でそう思ってらっしゃるの」

「なんだと」

「よく考えて。華の話は何百年も昔の話ではなく、幕末明治の頃のことよ。髪や目の色は、外国人特有のものだと京嶌家の人間は識っていたでしょうし、そもそも日記には異人は異人と書いてあるじゃない。村の者が外国人を悪魔と見なしたなら、日記でもずっと悪魔と書くわよ」

 京嶌兵衛は、それを聞いて怪訝な顔をした。確かにそうだ、という表情である。

「ではなぜ、悪魔と呼ばれるようになった」

「あれを見て」

 私は、机の上にあるパレットと代わりの陶器の皿、その横にあるすり鉢とすりこ木を指さした。

「絵を描く道具か。あれがなんだと言うのだ」

「……先生、描かれた御絵が、すべて茶色をしていたのは当然ご存知よね」

「赤に近いのか、黄に近いのか、よくわからぬ不思議な色合いだ。だからなんだと?」

「その茶色と、金髪碧眼の画商という言葉を組み合わせたところ、思いついたことがあるという方がいたわ。マミー・ブラウンという色がそういう、複雑な茶色をしているんですって」

「マミー……?」 

 地図を見つけたあとの二時間半。

 疲れを紛らわすために、私は忠さんとのやり取りを続けていたが、その時に、『もしかしたら』という体で聞かされた話を思い出す。

「そう。マミイ――ミイラのことよ。

 江戸時代ごろのヨーロッパでは、ミイラを砕いた絵具を使って絵を描くのが流行っていたそうなの」

 松脂と没薬と、ヒトや動物のミイラをすり潰したものを混ぜた顔料、マミー・ブラウン。塗り重ねて使うと、赤や黄色、茶色など、複雑で繊細な色合いを出すという。

 またその透明度の高さから、明るい色調の描写や濃淡や陰影をつけることに用いられたらしい。まさに幕末明治のころ、特に英国の美術家が好んで使ったのだとか。

「人を……すり潰して描いた絵の具を使った絵だと?」

「そう。だから悪魔だと呼ばれたのよ。当時の画家は知らないで使っていたそうだけれど、その画商はマミー・ブラウンが何かを知っていたのでしょうね。そのことを絵師に話したのなら、人の心がない悪魔と思われてもおかしくはないわ」

 そして、と。

 私はもう一度、あのすり鉢を指さした。

「もう一度言うわ。御絵は、茶色の絵の具で描かれていたでしょう」

「……まさか……」

 そうよ、と頷いた。

 

「御絵にもマミー・ブラウンが使われていたのよ。

それもおそらく、華のミイラをすり潰したものがね」


 ――ミイラになりやすいのは、脱水症状を起こしたなどで、死亡時に水分含有量が極めて少ない死体だという。だから、

「これはたぶん、華のミイラをすり潰し、画商に聞いた作り方でマミー・ブラウンを作るためのすり鉢とすりこ木なのよ」 

 華は、ほんの僅かな食べ物を与えられながら、弱って死んでいった。あの座敷牢では満足な水さえ得られなかったはずなので、華の死体が――完全にではなくとも、一部などが――ミイラ化した可能性は少なくない。

 ミイラ化した華を発見し、御絵を描こうと言い出したのはおそらく、当主だっただろう。どんどん当主の周りで人が死ぬ中、華そのものを神として祀るためには、どうすればいいと考えた。……そして思いついたのだろう。

 ――華そのものを使って華を描けば、その絵は御神体なりうると。

『だから、絵師は、その絵を罪だ、美しい罪だと言ったんですよ。その絵は、死んだ華で描いたものだったから』

 忠さんはそう言った。

 それからこうつけ加えた。

『それがもしも正しかったのならば、絵の彼女がカカ様と呼ばれていたのは、単に妊娠していたから……だけではないのだと思います』

 カカ様の名は、そのまま。

 マミー・ブラウンの『マミー』の音から来ていたのだろうと。

「――ねえ先生。碧眼殺しはもうやめにしましょうよ。だって、くだらないじゃない」

「何……?」

「それにそもそも、あなたたちが秘密を守ろうと碧眼を殺し始めたのは、京嶌家の名誉を守るためでしょう。だから使命と言ったのでしょう。主家と自分の家の名を守る、崇高な使命だと」

 それなら思い出して、と私は京嶌兵衛の持つ、包丁の歯をぎゅうと握った。

 痛みとともに、手のひらから血が流れる。

それは悪魔と女神にされた少女から繋がってきた、京嶌の――本家の血だった。

「もう京嶌本家の者は、私しかこの世にいないのよ? 私を守らず、どうするの? 守るべきものを減らして減らして減らして、最後の一人まで奪ってしまえば、使命も本末転倒でしょう?」

私達の祖先がやってきたことも、全て無駄だったということになってしまうんじゃないかしら。――私は包丁の刃を握りしめたまま、彼の耳元でそう囁いた。

 すると。彼は脂汗を垂れ流しながら、掠れた声で一言、罵った。

「この、蠱毒の魔物め……」

 ――勝った。

彼のその罵倒は、ほとんど私の言い分を認めたと同じだった。

「ふふ。蟲毒、言い得て妙ね」

 蠱毒とは、主に古代中国において使われた呪術のことだと聞く。蛇や蛙など数多の毒蟲を同じ容器に入れて共食いをさせ、最後に生き残った蟲を祀るのだとか。

 それならば――私はまさしく京嶌家で行われた蠱毒の、最後の生き残りの毒蟲だろう。

「……京嶌月子に成り代わる、と言ったな。何故、わざわざ京嶌月子に成り代わる必要がある。京嶌華子のまま、京嶌家を継げばいいだろう」

「あら、生き残るのは京嶌華子よりも京嶌月子の方が都合がいいでしょう、最後の当主の娘なのだから。『京嶌華子』はずっと孤独だったから、死んだところで騒ぎ立てる者もいないし、死んだことにするのにちょうどいいわ」

「……周りの人間はどうする。女中も、京嶌月子の母親も残っている。学校は……」

「『お母様』については神経衰弱を理由に離れにでも放り込んで監視しておきましょう。精神病院に入れてもいいわね。小梅さん……いえ、小梅たち女中は解雇してしまいましょう。身の回りのことくらい自分でできるわ。

 京嶌華子の学校の方は、そうね。失踪したとか、転校したとでも言えばいいわ。『私』の学校は休みましょう。どうせ中学校生活もあと数ヶ月なのだし、殺人事件で心を病んだと言っておけばいいわ。ついでに四、五年くらいは外国に留学でもしようかしら。私、外国語は得意だし、どこでもいいわ。それくらい経てば、もう、本物の『京嶌月子』の顔を覚えている者もいなくなるはずよね」

 二十歳にもなれば顔も少しずつ変わる。

 そもそも、私と月子姉様は従姉妹同士だ。私のほうが整っているかもしれないが、顔立ち自体はそれなりに似ている。今は違う顔に見えるだろうが、成長すれば、無理に誤魔化さずともそのうち皆このままの私を京嶌月子と思うようになるだろう。

 この碧眼も、さいわい近づいて凝視しなければ青だとはわからない、深い青緑色だ。本物の京嶌月子を知る者の前では、目を真っすぐ見詰めさせなければいい。

「……わかった。では、『祟り』はこれで終わりだ」

「そう。ならばそのように賢二郎さんにも伝えてね。……大丈夫、このままいけば警察は兄様たちのこともきっと諦めてくれるわ。あなたたちのことだもの、二人を殺す際に余計な証拠は残していないでしょう?」

迷宮入りさえしてくれれば、もうこちらの勝ちだ。あとは時効を待てばいい。

「ああ、そうだわ。すぐにここを『京嶌華子』の死体ごと埋めたてて、家の御絵は全て焼きましょう。あ、あの保管されていた三枚は残しておいてね。必要なの」

 彼らとともに謎を解き明かしていき、私が『ここまで』辿り着くために。

 しばらく京嶌兵衛は私を凝と見詰めていたが、やがて諦めたように項垂れた。

「判った……いえ、承知いたしました。月子様」

「ええ」

(……嗚呼)

 本当に――ぞくぞくしてしまう。

 生まれた時から生粋のお嬢様で、生まれてこの方負けたことなどないような完璧な月子姉様が、まさしくすべてを持っていた月子姉様が――最後の最後に全てを私に奪われることになるなんて。

それを、永劫誰にも気が付かれないままでいるなんて。

「あ。……忘れていたわ」

 蔵から出て、少し歩いて行ったところで、私は懐からスマホを取り出す。そして、思い切り振りかぶって、榛摺川の中へとスマホを投げ込んだ。

スマホは、ぼちゃ、と間抜けな音を立てて、そのまま川の中に沈んでいく。

「……? なんですか、今の音は」

「なんでもない」

 私は完全に見えなくなったスマホを見て、微笑んだ。

(――ありがとう、忠さん、陽葵さん。おかげで私は孤独で弱い子どもから、京嶌家の女王になった。あなたたちのおかげだわ)

だから。

(また七十年後に逢いましょう、その時はただの、祖母と孫として)


 そして私は京嶌月子として生き、誰にもそのことに気づかせないまま死のう。

 それさえ遂げれば、私の――独り勝ちだ。




終章

▼令和××年九月二十二日 楊梅村――小野忠


忠が陽葵とともに祖母の部屋の中に入ると、祖母はうっすらと目を開いて、座敷の中央に敷かれた布団の上に横たわっていた。

 祖母は最後に会った時よりもさらに頬がこけ、少しでも触れようものなら死んでしまいそうだ、と思えるほどには弱って見えた。それでもなお、美しいのが畏ろしい。

「お母さん、よかった……!」

 叔母が涙を流しながら祖母に縋っている。その横で、伯父も胸をなでおろしているようだった。幸也と美穂もすでに祖母のそばにいる。

祖母は目を開いてはいるが、どこを見ているのかはわからない。

「おばあちゃん、助かったんですね。よかった……」

「伊藤先生がずっとつきっきりで見てくださっていたからだろうね。摂取した毒物が致死量に届かなかったため、なんとかなったそうだ」

 賢一がしみじみとした調子で言う。ただ、祖母の身体は衰弱していてもともと危険な状態にあるから、本当に危なかったのだという。今回のことは死期をさらに早めてしまったかもしれないと、伊藤は言っていたそうだ。

「忠くんたちも月子様のそばへ」

「はい」

 祖母の手を握り、泣いている叔母の横に座る。陽葵は嬉しそうに、助かってよかったね、と祖母に声を掛けている。

 忠もぼんやりとしている祖母の顔を覗き込んだ。

 祖母の瞼はいつの間にか閉じられていて、その目を見ることはできない。

「――目を覚まされたばかりで、申し訳ない」

喜びに浸る京嶌家の空気を壊したのは、部屋に入ってきた二人の刑事だった。「意識があるのであれば、確かめておかなければならないことがあります。京嶌月子さん」

 祖母の顔がわずかに動き、布団のそばまでに歩いてくる二人の刑事を見た。あるいは無遠慮とも言えそうなその振る舞いに、ちょっと、と叔母が抗議の声を上げる。「母は今、ようやく意識を取り戻したばかりで……」

「わかっています。ですから先に謝罪を申し上げました」

 けれども刑事は取り合う様子はない。真剣な表情で祖母の顔を覗き込んでいる。

「月子さん。私達の声は聞こえていますか。話すことはできますか」

「……ええ」

「ああ、起き上がらなくて構いません。お辛いようでしたら、頷くか、首を振るかしていただければ大丈夫ですから」

 祖母が頷く。

「あなたはご自分で毒物を飲みましたか。あるいは誤ってなにかを飲み込んでしまったりはしましたか」

 祖母が首を振る。

「では、誰が自分に毒を盛ったのか心当たりはありますか。あなたの水差しに毒が入っていたんです。水差しに毒を入れることができたのは、あなたのご子息ご息女と、京嶌賢一氏とそのご子息ですが」

祖母がまた、首を振る。「四人と、それぞれ話したとき、わたくしは横たわっていました。話をしながら、水差しに何かされても、気づくことはできなかったでしょう」

「そうですか……」

 刑事二人は互いに顔を見合わせ、落胆したようにあからさまに肩を落とした。

「では、結局、誰が水差しに毒を盛ったのかはわからないままですね」


「――嘘です」

 思わず、忠は口を挟んでいた。

「祖母は嘘をついている」


「お兄?」

「なんだって? 突然何を……お、おい」

 戸惑う刑事たちを横目に、忠は膝でさらに布団の近くににじり寄り、祖母の枕元で正座する。

 祖母は固く瞼を閉ざしている。視線は合わない。

「そうでしょう。だっておばあちゃん、あなたが毒を自分で飲んだんですから。自殺だったら、話は簡単だ。飲む前にでも水差しに毒を入れ、それを飲めばいいだけだ」

 祖母は、眉ひとつ動かさないままだった。

 ――けれども、忠はわかっている。

頑なに閉ざされた瞼こそが、祖母の動揺を示しているのだということを。

「あなたは焦っているはずだ。俺たちに会って、速やかに死ぬことができなければ、あなたが生きているうちにあなたの『正体』が明らかになってしまう可能性があるから。

それなのに、最後の一手を間違えて、死に損なってしまった。だからあなたはさっきから瞼を開けようとしない。俺に目を見せたらいよいよ秘密がばれてしまうから」

「ちょ、ちょっと忠くん、何を言ってるのよ……」

 叔母が忠の服の裾を掴んだ。その手を無視して、忠は言葉を重ねる。


「そうでしょう。おばあちゃん。――京嶌華子さん」


 その場にいるほぼ全員が、忠の言っていることを理解できずに呆然としている中で――一人だけ毛色の違う動揺を見せている者がいる。当然だが、陽葵である。

 陽葵は目を限界まで見開き、忠と横たわる祖母を見比べて、唇を震わせている。うそでしょ、とか細い声でそう言い、それから忠の横まで来ると肩を強い力で掴んだ。

「いきなり何言ってるの。どうしておばあちゃんが、華子さんだってことになるのよ。私達のおばあちゃんは京嶌月子のはずでしょ?」

「違う。京嶌月子の目の色は黒か茶色のはずだ」

 それは間違いない。

 カカ様の祟りの真実について知っていたかは定かではないが、少なくとも十八歳までに死ぬのは「青い目の子ども」だとわかっていたらしい京嶌博巳は、月子は呪いの対象外であるということを示していた。『私と、それから弘文兄様と雪子姉様は呪われており、そのうち華子も、と仰ったのです』と、華子自身も言っていた。

 ということは、京嶌月子は少なくとも『祟り』の対象者、碧眼ではなかったはずだ。

「……けど陽葵、思い出せ。初めてこの人と会った時、お前は真正面からこの人の目を見たはずだろ。何色をしてた?」

「それは……」

「青だっただろ。俺も近い距離で見たから覚えてる。――お前と同じ、深い青緑だった」

 つまり彼女が、京嶌月子ではないことは明らかなのだ。

 ――祖母は特に若い頃、写真を撮られるのを嫌ったという。それは、写真から、『京嶌月子』が青い目ではおかしいということを悟られるのを避けるためだったのだろう。

「おそらくだが、あなたはあの後、本物の京嶌月子を殺害して遺棄した。その後の成り代わりには、たぶん京嶌兵衛と賢二郎があなたに協力したんだろう。七十年前の殺人事件で、兵衛親子が逮捕されていなかったのがその証拠だ。それで彼らとあなたは協力関係になり、そこで『祟り』は終わったんだろう」

「七十年前の殺人……?」

怪訝そうな声で刑事が呟いたのを聞き、忠は「調べてもらえれば、七十年前に四件の連続殺人が起き、はじめの一件目と二件目が迷宮入りになっていることがわかると思います」と言った。――『京嶌月子』が若い頃から村の開発のために腕を振るったというなら、京嶌博巳も殺されているはずだからだ。

京嶌博巳があの夜に殺されずにいたのなら、彼が当主を継いだはずであり、月子が婿を取って女当主になっているというのはおかしい。

「……よくわからないが、おい、お前」ただならぬ様子を感じ取ったのか、壮年の刑事が若い刑事に命じる「署に戻って七十年前に迷宮入りになった事件がないか調べてこい」

「あ、は、はいっ」

 忠は慌ただしく部屋を出て行く刑事の背中を見送り、また祖母に視線を戻した。

――京嶌月子と京嶌華子は従姉妹同士である。華子の方が美しかったのかもしれないが、顔立ちは少なからず似ていたはずだし、京嶌華子が『どこかへ行った』ことにすれば、成り代わるのも難しくなかったはずだ。

また、そうなれば京嶌華子はヨーロッパに留学したはずだが、彼女ならば勉強もそこまで難しくはなかっただろう。忠たちは、京嶌華子の頭の良さを知っている。ラインでの会話だけでも、彼女の聡明さは伝わってきていた。

「そうして京嶌月子に成ったあなたは、七十年間、村の開発に力を入れた。そのおかげで閉鎖的でおかしな因習の残る村は観光地化され、多くの人が訪れるようになった。カカ様信仰は完全に封印し、子どもたちには何も伝えず、ただひたすら成功者の道を突き進んだ。あの蔵に、ほんのわずかな痕跡だけを残して」

 いくらでも処分できたはずの三枚の御絵。
 京嶌賢一に、忠と陽葵を蔵に行かせるような発言をするよう仕向けたこと。
 死期を悟り、忠と陽葵を村に呼び寄せたこと。
 そして、わざとらしくカカ様の名を告げ、陽葵と忠の興味と恐怖を煽るように、逃げろと意味深に言ったこと。
 カカ様のことを言葉にしたから口封じをされたのだ、と、いざ死んだときにそう思われるようなタイミングでわざわざ毒を飲んだこと。

「それら全部、俺たちを導くための布石だったんですよね。七十年後の俺たちがいなければ、あなたはずっと、孤独で弱い京嶌華子のままだったから。」

 忠と陽葵がいなければ、スマホが時を超えなければ、彼女の成功はあり得なかったから。
 彼女は、忠たちに、七十年前の京嶌華子を助けさせるために、動いたのだ。
近く命を落とすのに、わざわざ毒を飲んだのは、忠たちを確実に『カカ様の調査』へ駆り立てるためだ。それから、万が一にも自分の生きているうちに、忠たちが彼女の『正体』を突き止め、それを周囲に暴露するのを避けるため。

(あの時、陽葵に目を見せたのも、すぐに死ぬつもりだったからだろうな。死ねば、もう俺たちに目の色を見られることはない)

 鶏が先か、卵が先か――それはわからないが、少なくとも忠も陽葵も、ずっと『祖母』の手のひらで踊っていたということなのだろう。祖母によって残された手がかりを頼りに謎を解明し、祖母が携わったケイビングツアーのマップを使い、京嶌華子を助けた。
 すべては予定調和の出来事だったのだ。

「忠さん、陽葵さん」

 果たして。祖母はそこで、ゆっくりと瞼を開いた。
 老化のせいでやや濁った眼が露わになり、視線がぶつかり合う。

(ああ)

 忠はぐ、とこぶしを握り込んだ。
 やはり、祖母の瞳は、深い青色をしていたからだ。

「先ほどから何を言っているのですか。瞳の色が青いだとか、黒いだとか……。目が青いから、私が京嶌月子ではない、と? 言っている意味が、よくわかりませんよ。私は京嶌月子です。他の誰かだった瞬間など、一度たりともありません」
「……しらばっくれるつもりですか」
「しらばくれるも何も。心当たりがまったくないのだもの」

 祖母が布団の中で微笑む。
 瘦せ衰えてなお、美しい笑み。見る者を、自らのうつくしさでねじ伏せる魔物の笑みだった。

「何も知らないというなら京嶌華子はどこへ行った? あなたが京嶌月子だというなら、従妹の行先くらいわかるはずだ」
「さあ……。華子は中学校三年生になる前に、家出をして以来どこに行ったのかもわかりません。ずいぶんと探したのだけれどね。いまだに行方知れずです」
「……屋敷のすぐ裏は山だ。川も流れている。人を殺したら、その死体を遺棄する場所はいくらでもある」

 しかも当時、祖母には秘密の後継者とその後継ぎが協力者としてそばについていた。男手、しかも弁護士一家として力を持つ二人がいれば、死体などどうとでもできただろう。

だが――。

(この人は、九月十九日に死ぬつもりで、行動していた)

 陽葵と会った時、自分の目の色が露見することを覚悟でその目を忠たちの前で晒したのも、おそらく忠たちが『祟り』の真実に辿り着いた時には、自分はもう既に死んでいるはずだと思っていたからだ。
 もし毒を飲んだことで死んでさえいれば、七十年前の殺人事件を華子とともに解決した忠たちは、すぐに家に帰されたはずである。すべてを知る二人が町を離れれば、もはや蔵のことなど誰も気には止めなくなる。隠し扉にも、さらにその裏にある壁の向こうに、隠し通路があるなど、なおさら誰も思わない。

 ということは。

「あなたはおそらく京嶌月子の死体を、蔵の裏にある隠し通路に遺棄したは
ずだ。そして『後継者』を使って、京嶌月子の死体ごと、座敷牢に繋がる通路を埋め立てた。……違いますか?」

忠たち以外誰も知らない隠し通路を掘り返す者はいない。
遺体の遺棄場所としては最高の場所だ。 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 次に口を挟んだのは伯父だった。

「さっきから、ずっと話が見えないんだが……隠し通路とはなんだ? そんなものがうちの蔵にあるっていうのか?」
「ありますよ。というか、ありました。京嶌家の当主と秘密の後継者が百数十年前から隠してきたもので、七十年前におばあちゃんが封印した通路です」
「百数十年……前?」

 混乱の中にいる伯父から視線を外し、忠は唖然としている賢一を見た。
「賢一さんなら知ってますか? 奥の壁に和箪笥が並べてあるでしょう」
「あ、ああ、確かに。あるね……」
「実は、あのうち一つは隠し扉になっていて、昔は狭い洞窟みたいな隠し通路に繋がってたんです。今は埋め立てられてしまってますけど」

 行って調べればわかりますよ、とそう告げれば、賢一は驚愕と動揺をその顔に浮かべた。

「それならどうして君は、そんなことを知ってるんだ……?」
「……」それには答えず、忠は、今度は二人いたうち残った壮年の刑事に視線を向けた。「それから隠し扉の向こうも、深く掘ってみれば多分、死体が見つかるはずです。さすがに白骨化していると思いますけど」
「……本気で言っているのか」
「本気ですし、正気です。……どうしてそんなことを知っているのかは、言えないんですけどね」

 言ったところで信じてもらえないだろう。
 妹のスマホが川に落ち、七十年前にタイムスリップし、そのスマホを通じて時を超えた通信を行っていたなどということは。
 忠は祖母を見た。

「どうですか。警察が調べれば、死体はおそらく出てくるでしょう。それも、女の子の白骨が。これでも、自分が京嶌華子だとは認めませんか」
「……もし、万が一そこから、少女の遺体が出てきたとして。忠さんの言うことがすべて正しかったとして」

 しかし、祖母は穏やかに微笑んだままだ。

「それが本当に京嶌月子の死体であるということは、どうやって確かめるのかしら」
「それは、もちろんDNA鑑定かなにかで」

「DNA鑑定? 一体何と照合するのかしら。七十年前のものなんて、もこの家には何一つありませんよ」

「……!」

 忠は息を呑む。

 そうだ。彼女が月子に成り代わったのは、子孫ができる前のことだ。自分たちや伯父叔母のDNAと照合してみたところで、祖母が京嶌華子であるという証明はできない。忠たちは『京嶌月子』として生きた彼女の子孫に間違いはないからだ。

 七十年前にDNA鑑定はない。しかしそういう技術ができたと知ったとき、彼女は本物の京嶌月子に繋がる痕跡はすべて消しただろう。当然、DNA鑑定で調べられるようなもの以外でも、本物の京嶌月子に繋がるものならば処分したはずだ。七十年前の白骨死体から、殺人の証拠が見つかる可能性も薄い。

 忠は、ぎり、と奥歯を食いしばった。ここで引けば、負けだ。
苦し紛れだが、なんとか言葉を繋げる。

「……蔵にある絵を調べれば、あの絵が何で描かれているかはすぐにわかる。壁は掘られるだろうし、必ず京嶌家の秘密は明らかになる」
「あなたそう言うのなら、そういうなるのかもしれませんね。けれどそれは、私が京嶌華子である、ということを証明することとどう繋がるのかしら」
「それは、」

 反論が咄嗟に出てこない。

(まずい。これは、負ける……!)

いつの間にか場は不気味なほどに静まり返っていた。その場にいる皆が、得体の知れないものを見る目で忠を見つめている。
――ただ祖母だけが、痩せたかんばせに慈愛すら感じ取れる笑みを浮かべていた。

「……。きっと、いろいろあって疲れたのですね。あなたのような年ごろなら、少しのことで精神的に不安定になり、ありもしない想像に囚われてしまうこともあるでしょう」
 だからもう帰ってゆっくり休みなさい。
 祖母がやさしくそう言った――その時だった。


「あるよ。おばあちゃんが本物の京嶌月子じゃない、証拠」


 今までずっと黙って成り行きを見守っていた陽葵が、言葉を発した。
 忠も驚いて妹を振り返る。

「おばあちゃん、たぶん蔵のことは京嶌賢二郎に任せきりだったんでしょう。だから見つけられなかったんだよね」
「見つけられ、なかった?」
「蔵の中にあったんだよ。七十年前の、京嶌家を写した写真が」
 ここで、初めて祖母の表情が崩れた。「……なんですって?」
「これだよ」

 皆に見えるように写真を掲げて見せた。当時にしては珍しかっただろう、カラー写真だった。
 そういえば、と思い出す。確かに陽葵は初めて箱を見た時、何か写真みたいなものが入ってる、と言っていた。
 あの時忠は写真を見なかったが、――これのことだったのだ。

「写真の裏には日付が書いてある。昭和二十年代だね。撮影者の名前は京嶌兵衛。写真に写ってる人の名前も書いてあるよ。京嶌忠臣・亘・真紀・月子・裕子・弘文・雪子・華子――『華子、京嶌邸へ来る』だって。たぶん、京嶌華子が母親を亡くして京嶌邸に引き取られたばかりの時に撮った写真だよ」

 年齢を考えると、真ん中に写ってる一番幼い女の子が京嶌華子だよね。――そう言い、陽葵が写真を指さした。
 やや年嵩の少女に背中を撫でられている、どこか不安げな表情で写っている、ひときわ背丈の小さな少女。年のころは七歳か、八歳といったところだろうか。


「で、その隣にいて、華子の背を撫でているのが京嶌月子だね」
 白黒だと目の色なんてわからないものだろうと思ってたけど、こうして華子と月子を見比べてみるとよくわかる。――陽葵はそう言って、祖母を見た。

「集合写真だから、一人一人が小さいけど、よーく見ればわかるよね。真ん中の京嶌華子は深い青の瞳、その横の京嶌月子は黒い瞳。こうしてカラー写真で瞳の色を比べてみれば、一目瞭然ってやつだよ。おばあちゃん」
「……バカな……」
「バカな、じゃないよ。これで証明になったんじゃないの」

 陽葵が、祖母の目の前に写真をつきつける。

「あなたは京嶌月子ではなく、京嶌華子。――他人の名前を奪って何食わぬ顔をして周りをだます卑怯者だってね!」
「そんなものは……」

 祖母が、ゆっくりと上体を起こす。真っすぐに陽葵を睨みつけたまま、全身を震わせながら、弱った体を持ち上げる。呆然としていた伊藤が我に返ったのか、「起き上がってはなりません!」と祖母に駆け寄ってくる。

 しかし祖母は、今ようやく死の淵から還ってきた者とは思えぬほどの強い力で、伊藤の手をはねのけた。

「うるさい。お前は黙っていらっしゃい! ……そんなものが一体何になると言うの。うつりの甘い昔の写真が、どれだけ正確に瞳の色まで映し出せると言うの」

 こんな写真一枚で、と祖母が陽葵から写真を奪う。
 そしてぐしゃりと丸めて、その場に投げ捨てる。

「――はあ、はあ、こんな写真一枚で、私を追い詰めることはできないわ。たとえこれから死体が出てきたところで、殺人の証拠はどこにもない。ふは、いいえ、たとえ証拠があったとしても、誰も私を捕えることはできない」
「昔の殺人には時効があって、七十年も経てばとっくに起訴できなくなってることはわたしでも知ってるよ。だから別に誰もおばあちゃんのことを捕まえたいなんて言ってない。だよね? お兄」
「そうだよ」

 祖母が京嶌月子を殺したと思われるのは、七十年も前のこと。彼女を法で裁くことはできない。
忠も、そんなことはわかっている。けれど、それでも彼女のやったことを明らかにしようとしたのは。

「他人の名前で生きて成功したあげく、死んで勝ち逃げだって粋がってるあ
んたが、死ぬほど見苦しくて腹立たしいからだ」

 京嶌華子は孤独だった。

 誰にも必要とされず、愛されず、近寄ってくる者は容姿に魅入られた虫のような者ばかりだった。だからこそ、両親も将来も才能も、なんでも持っているように思われた京嶌月子に憧れ、同時に彼女を羨み、憎んだのだろう。
だからこそ、縋ることのできるカカ様を喪ったとき、彼女は『自分の足で立てるようになる』と決意した。

 それが、己にとって完璧だった、京嶌月子そのものを奪うことだったのだ。

「孤独で弱かったあんたは、自分が京嶌月子に成ることで、それで強く美しい存在に変われたと思ったんだろう。京嶌月子からすべてを奪うことで、そしてそれを誰にも気づかせずに生き抜くことで、彼女に勝ったつもりでいた」

 でもそれは勘違いだ、と吐き捨てる。
そして忠は、己の祖母を――魔物に成った、蟲毒の生き残りの毒蟲を睨みつけた。

「だって、人は他の誰かにはなれないし――誰かに成ろうとした時点で、自分自身の弱さを一生改善できないことになるんだからな」

 祖母が――京嶌華子が、目を見開く。

 ――そうだ。彼女は結局、どこまでも孤独だった。

彼女は他人に成り代わったからこそ、結局誰にも本当の自分を知られることもなく、誰のことも信用できないまま、誰にも言えない秘密を抱えて生きていくしかなくなった。
どれだけ成功したところで、皆が慕うのは、彼女が真似をしてきた『京嶌月子』であって、彼女自身ではない。夫も子どもも孫も、誰も本当の自分を知らず、認めてもくれない。

それを、孤独と言わずになんと言うのか。

「誰かのものを奪って、一人でなんでもできるような気持ちのまま幕引きをしようとするから、最後の最後でミスをしたんだよ。毒を飲む分量を間違えるなんて、馬鹿馬鹿しいミスを」
「……ッ」

 その時、スマホのバイブ音が鳴った。刑事のスマホだ。
 彼は我に返った表情になると、スマホを手に取り耳に当てる。しばらく会話をしてから、「ああ、わかった」と言って電話を切る。

「どうかしたんですか。刑事さん」
「……いえ、その」

 こわごわと尋ねた伯父に、壮年の刑事は首を振ってみせ、それから忠と陽葵を交互に見た。得体の知れないものを見るような、はたまた感心しているような、複雑に感情が混ざり合った視線だった。

「私らも知らなかったのですが、確かに七十年ほど前に、迷宮入りになっている殺人が二件ありました。連続殺人だと思われていた四件の事件のうち、一件目と二件目、三件目と四件目で犯人が違ったという事件で、一件目と二件目の方はまだ犯人が捕まってないと」

 それに、と彼は低い声で付け加える。

「『京嶌華子』の行方はわからないとのことです。忽然と姿を消したことになったまま、消息不明だと」
「な、なんだって? それじゃあ」
「……そこの子どもたちが言っていたことがどこまで本当のことかはわかりませんが、蔵の隠し扉とやらと、その向こうにあったっていう隠し通路のことは、調べさせてもらうことになりそうですな」

 忠と陽葵は顔を見合わせる。
 そして、二人揃って、呆然としている祖母に視線を向けた。

「――聞いたか? 警察の調査でもしも本物の京嶌月子が見つかれば、きっとあんたの罪もすぐに明らかになるだろうな」
「……いや……」
「カカ様の言い伝えのこともそう。あの蔵と洞窟に警察の捜査の手が及べば、あんたが封印し、なかったことにしてしまっていた過去の罪がすべて明らかになるかもしれない」

そうなればきっと、京嶌家の者は、真の意味で過去の罪のしがらみから解放されることになるだろう。
――罪を犯した当本人である、京嶌華子を除いて。

「法律ではあなたを裁けない。でも、京嶌華子に戻ることは、あんたにとってはこの上ない屈辱と罰だろ?」
「い、厭だ、違う……私、私は! 京嶌月子だ……ッ!」

「――せいぜい死ぬまで、敗者としての人生を楽しんでいればいいさ。おばあちゃん」

 ぴしゃりと、忠の冷ややかな声が降ると同時。
 人を殺して魔物と成った、蟲毒の最後の毒蟲が、低く呻いて頽れた。


 
 *


 兄妹二人、がらがらとスーツケースを引きずりながら駅に向かう。

 祖母が毒を飲んだ経緯もはっきりしたことで、忠と陽葵は一通りの事情聴取を受けたあと、家に帰ってよいことになった。学校があるためである。
これから蔵の隠し通路の調査があるが、もしそこで『何か』が見つかったら、話を聞かせてもらうことになるかもしれない、とは言われたが、とりあえずは帰宅が決まってほっとした。
伯父や叔母も、祖母の正体について祖母自身に詰め寄る忠たちの語り口から何かただならぬものを感じ取っていたのか、何を知っているのかについて無理に詮索されなかったのがありがたかった。さんざん得体の知れないものを見る目で見られた上に、さらにSFじみた経験について語らなければならなくなるのは困る。

「……京嶌家、これからどうなっちゃうんだろうね」
「さあ? もともと伯父さんも叔母さんも、家継ぐつもりなかったみたいだし、終わりかもな。そもそも、華の生んだ子が京嶌家の血を継いでない時点で、終わってるも同然だろ」
「それはそうだけど……」

 交通系ICカードを使い、改札を通る。

忠と陽葵は、ベンチがぽつんと一つ置いてあるだけの寂しいホームに二人で立って、ぼんやりと電車を待つ。山々は、代り映えのない青緑色だ。

「……あのさ、お兄。なんでスマホがタイムスリップなんかしたんだと思う?」
「そんなの、俺に聞かれたってわかるわけないだろ」
「まあ、そうだよね……」

 陽葵はそう呟くと、足元に視線を投げた。

「わたしさ、もしかしたらなんだけど、華がそうしたんじゃないかって思うんだ」
「華が? ……ああ、そういえば、未来を見るだの心を覗くだの、不思議な力を持っていたって話だったっけ。そういう華の思念みたいなものが、スマホを飛ばしたって?」
「うん、そう」

 華は特別で、だからこそ最初から最後まで孤独だったでしょ、と陽葵は下を向いたまま言う。――ずっと独りぼっちで、寂しく死んだでしょ、と。

「……だから、華は誰かと繋がりたかったんじゃないかってことか」
「それもあるし、あとは孤独なやつを誰かと繋いでやりたかったんじゃないかって」

 華と同じく特別な容姿を持ち、しかし孤独だった京嶌華子。
 そして、彼女と瓜二つの特別な容姿から、孤独を拭えないでいる陽葵。
 華と同じように孤独に苛まれていた少女を、助けてやろうとスマホを使って繋いでくれたのかもしれないと、陽葵はそう言った。
 ので。

「……はあ~~~~~~?」

 忠は腹を立てた。心底である。

「おっ前あれだけ好き勝手振る舞って、下のきょうだいの立場フル活用して人のこと振り回しておいて自分のこと孤独とか思ってたのか? ありえないんだが……」
「だ! だって、私のこと特別扱いしないのはお兄くらいじゃん。お父さんだって陽葵は特別だからって言うし」
「はー……」

 確かに陽葵は、顔が整いすぎていることから学校でも苦労している。
人間関係でうまくいかず、なかなか学校に行けなくなり、保健室登校を続けて久しい。特別扱いをされて嫌な思いをすることも多かったと聞く。
だが、と忠は鼻を鳴らした。

「バカバカし。理解者なんて作ろうと思えばいくらでも作れるだろ。お前小学生のくせに思いつめすぎなんだよ。どうせ自分は独りだ~なんて自分の殻に閉じこもらない限り、どうとでもなるよ」
「それは……所詮お兄は他人事だから、そんな簡単に言えるんだよ」
「そりゃそうだけど。でも、今は華の時とも華子の時とも違うだろ。メイクも整形も発達してるし、『とびぬけた美人』は作れるって時代なんだから、見てくれでコンプレックス抱いて悩むだけバカバカしくないか」

 小野陽葵は京嶌華子でも華でもないのだ。

忠の妹は、華子のように卑屈ではないし、自分ではなく誰かになりたいと思っている様子はない。華のように、周りの誰も頼れず、ただ流されるばかりということもない。

――そもそも妹は、弱いどころか肝が据わっている、と忠は思う。

 将来の苦労を知りながらも、自分の身を守るために単身家を飛び出す行動力を持っていた――母に似ているのだ。

「つうか特別扱いされるのが嫌なら、いっそ芸能人にでもなれば。特別扱いしかされないから、たぶん慣れるぞ」
「何その強引すぎる解決法……」
「そのくらい簡単に考えろってことだよ。学校も嫌なら別に無理しなくてもいいと俺は思う。たくさん人とかかわるのは大切だとは思うけど、それは学校じゃなくてもできるだろ」

 電車が近づいてくる。ぷあー、という、特徴的な音と共に、風を運んでくる。

「……そんなんでいいのかな」
「いいだろ」

 二両編成の短い電車がホームに止まり、音を立てて戸が開く。
二人はそのまま中に乗り込んで、人もまばらな車両の真ん中の座席に腰かけた。

「お兄」
「今度は何だよ?」
「……あのさ。新しいスマホ買ってってお父さんに頼むの、手伝ってくれない?」

 電車が発進する。忠はもう一度、はんっと鼻で笑った。


「そのくらい自分で頼め、バカ妹」
















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