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【タイムトンネルで飛んだスマホで】榛摺村殺人事件解決RTA【昭和因習村の少女を救え】 第2話


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

第二章

▼令和××年九月十九日―二十日 楊梅町―小野陽葵


「『た』……?」

 なんだこれ、と、自分のスマホを手にしたまま兄、忠が首を捻る。陽葵は神経質なところのある兄の物らしく傷一つないスマホの画面を覗き込み、忠のトークに「た」の一文字を送ってきた相手を確認する。

間違いなく、自分のスマホからのメッセージだった。アイコンも、友人とお揃いにした――ネットの拾い画だが――花のイラストである。

「誰かが拾ってくれたのかな」

 期待を込めて、呟く。落としたスマホを拾って、連絡しようとしてくれた誰かがいるのかもしれない。だが、すぐに忠が「まさか」と首を振る。

「あれだけ探してもなかったんだったら、川を流されたはずだろ。崖から落ちて川をどんぶらどんぶら下って行って、メッセージなんて送れるわけないだろ」

「なんでよ。奇跡的に壊れなかったのかもしれないでしょ?」

「だとしてもおかしいよ。だって、陽葵のスマホ、エスペリアの新型だろ」

 ――ロックを解除するには、指紋認証か顔認証をパスしなきゃいけない。

 兄の言わんとするところを悟り、陽葵は言葉に詰まる。

そうだ。ラインのアプリを開けるはずがない。だというのに、メッセージが届いた。

「え、ど。どういうこと……?」

「わからない。奇跡的に壊れていないスマホを拾ってハッキングでもした人がいたのか、そもそも誰かが拾った時にはロックがいかれてたのか……」

 とにかく何か送ってみるか、と言い、忠がキーボードを操作する。自分がスマホの持ち主の兄である旨と、取りに行きたいから居場所を教えてほしいという旨をフリック入力で素早く入力し、送信ボタンを押す。

 そしてポン、と吹き出しが表示されたとほぼ同士、その横に「既読」の二文字。

「あ。既読ついた。マジで見えてるんだな」

「うん……」

 自分以外では開けられないはずのセキュリティを突破し、スマホを操作している者がいる。かなり不気味な状況のせいで、陽葵の返事にも覇気はない。

 何が返ってくるのか、と陽葵は身構える。わかりました、教えます、と居場所を送られてきたら、そこに行くのか。得体の知れない人物に会うのか。

 ……帰りなさい、と、ふと祖母の声が陽葵の頭に蘇った。帰りなさい、カカ様の祟りに遭う前に――。

「……来ないな、返事」

 しかし身構えていたものの、返事はしばらく経っても来なかった。拍子抜けしていると、忠も、やっぱロックごとスマホ自体いかれちゃってるんだろうな、と気の抜けた顔で言った。そして、「いろいろあって疲れたしもう寝よう」と言って、そのまま襖で仕切られた隣の部屋に向かう。

「スマホのことはまた明日考えればいいだろ」

「……うん、そうだね。お兄、お休み」

「お休みー」

 忠が襖の向こうに引っ込んだのを見て、陽葵は古き良き蛍光灯の紐を引き、消灯する。

 そのまま布団に潜り込み、掛布団を頭からかぶった。カカ様の祟りに遭う前に。祖母の声が、また聞こえる。次に、馬鹿馬鹿しい、と言った兄の言葉が浮かんだ。そうだ。祟りなんてない。この令和の時代に。

(……いや、何かあったとしてもきっと大丈夫)

 すぐそばで兄が眠っている。だから陽葵は一人ではない。

普段は頼りなくとも、何かがあれば、なんだかんだで必ず助けてくれる兄なのだ。


 ――昔から陽葵は、女子には嫌われるタイプだった。どの程度のレベルかというと、同年代の女子だけでなくクラス担任の女性教師にも嫌われるレベルである。

 小学校に入学するぐらいの頃に母を亡くし、それ以降男所帯で育ったからか、男子と過ごす方が気楽だったこともあって、思春期を迎える頃には特にそれが顕著になった。男子ばかりと仲良くする女子、あるいはきゃぴきゃびとしていて男子に可愛いと言われる女子は女子に嫌われる傾向にあるものだが、最悪なことに陽葵は前者でも後者でもあった。きゃぴきゃぴとはしていなかったが――陽葵は可愛かった。

ひどかったのは小四の頃。クラスのボス格がずっと前から好きだったのだと公言している男子が、陽葵を好きだと言い始めたことから、いじめが始まった。

無視はされるわ悪口は言われる私物を壊されるわ、散々だった記憶がある。しばらくの間はいちいち相手をしてやる気も起きずに放置していたのだが、私物を壊された辺りで―――本来陽葵は大人しくいじめられるような性格はしていない――さすがに皆の面前でボス女子をひっぱたいてやったが。

――陽葵にとって最悪だったのはその後だった。

ひっぱたかれた女子は泣き出して、「あんたが全部悪いんでしょ! あんたが全部盗ってくから!」と言った。「気持ち悪いんだよ、あんた。自覚ないの? みんなだって、言わないだけでそう思ってるよ!」

意味不明な被害者面だった。転ばされかけたり、上履きの中に画鋲を入れられたことを想えば、一発の平手くらい可愛いものだと陽葵は思っていたし、実際に口にも出した。「ていうかみんなって何。誰と誰と誰のこと?」

「みんなはみんなよ」と彼女は言った。

 ――そして実際に、「みんなはみんな」だった。

陽葵の味方をする女子は誰もいなかった。クラスの中で最も真面目だと言われていた代表委員の女子も、ボス格の女子が陽葵を嫌う気持ちはわかる、というようなことを言った。

皆、反撃した陽葵を責めるように見た。女性教師でさえ、困ったように、「喧嘩両成敗ね。どっちも悪いってことで、終わりにしよう?」と言った。

(どっちも悪い? わたしがしたことと、あいつがしたことが同じレベルだってこと?)

みんなが、みんな。

たった一人の陽葵を複数の女子でいじめる行為が正しいと思っているようだった。

正当性のある行為なのだと。仕方がないことなのだと。

(何、それ。気持ち悪いのは、あんたたちでしょ)

 ――年を重ねるごとに、人が自分を遠巻きにしていくことに陽葵は気付いていた。

陽葵の父でさえ、最近は陽葵の顔を真っすぐ見ない。ボス女子の好きな男子とやらも、一言もしゃべったことがなかった。……一言もしゃべったこともない男子のせいで陽葵は、学校で独りになることを強いられたのだ。

 いじめの主犯格は謝りにも来ず、父はそれを「仕方ない」と受け入れているようだった。

「陽葵。お前は、特別だから。しょうがないんだよ。人は弱い生き物だから」

「しょうが、ない……」

 そうなのだろうか。間違っているのは自分で、クラスの「みんな」は普通なのか。この理不尽は受け入れるべきものなのだろうか。陽葵が「特別」だから――。

「――は? 特別って何。いじめはだめだろ、さすがに」

が、忠は違った。

いじめられた妹を持つ「普通」の兄らしく、父の主張を蹴飛ばした。

「父さんが行かないなら俺が先生に文句言ってくるわ。物壊されるのはさすがにむかつく」

 やや面倒臭そうにしながらも、兄はさっさと担任に電話を入れ、例の女子の親を家まで謝りに来させた。見事な手際でいじめの件を終わらせた。

 結局、クラス内の微妙な空気は修復せず、陽葵は少しずつ学校に行かなくなった。友人、と呼べる者がいないわけではないが――むしろ無駄に数はいるのだ――いざという時には助けてくれるような友人もいないので、今はほとんど保健室登校だった。

 まあ、それでもなんとかなっている。陽葵には兄がいる。父曰く、特別であるという自分を、まったくもって特別視しない兄がいる。

 ――だからきっとこれから何かがあっても、大丈夫なのだ。兄さえいれば自分は一人ではないから。

そう自分に言い聞かせるようにして、陽葵は目を閉じた。



「わたしのスマホから返信来た?」

「来てない。既読スルーのまんま」

 翌日。食べ終わった朝ご飯を片付けながら陽葵は忠にそう聞いたが、忠は首を振った。なんだ、と陽葵は肩を落とす。割と緊急性のある内容のメッセージだというのに、シカトされてしまったらしい。

「電話してみようか。昨日は遅かったからやめたけどさ」

「でも、昨日のお兄のメッセージも無視されてるしなあ。あの内容で無視する人間が、電話になんか出てくれるかな」

「まあ、それもそうだな。顔認証がいかれてロックが開いたんなら、不正利用し放題だし」

 もしも悪人が拾ってたらまずいな、と忠が呟く。

 陽葵は小学生のため、機能がある程度制限されているスマホを使っている。とはいえ残念ながら、加入しているフィルタリングサービスは、親のスマホからロックをかけることができる仕様ではないので、完全に情報漏洩を防ぐことは難しい。

「とりあえずスマホ落としたことは父さんに報告しておいたから。スマホに入ってる電子マネーアプリはサービス停止にしといてくれるってさ」

「げ、それって元に戻す手続きがめんどくさいやつじゃない? お父さんに怒られる……」

「まずスマホを落としたお前が悪いだろ。帰ったら謝れよ」

 呆れたように忠が言った。スマホを少しでも手放したら落ち着かないスマホネイディブの気持ちをもう少し慮ってよ、と、言う代わりに陽葵は忠の背中をはたいた。

 

 現場検証は終わったのか、昨晩と比べると屋敷の敷地内にいる刑事の姿は少ない。ほとんどが引き上げたのだろう。ただし、話を聞きに来ている刑事はもちろんいる。今朝も、家のお手伝いさんらの話に頷きを返しつつメモを取っているのをところどころで見かけた。

 忠と陽葵は賢一の部屋のもとに赴き、昨日の蔵の鍵を貸してくれるように頼みに行った。――すると賢一は、ちょうどは話を聞きに来たらしい昨日の刑事のうち若い刑事と話をしているところだった。

「ああ、鍵ね。わかったよ、少し待っていなさい」刑事との話を中断し、賢一は陽葵と忠に昨日の鍵を取ってきてくれた。「はい、これだろう」

「ありがとうございます。あの、すみません賢一さん。刑事さんの事情聴取を邪魔してしまって」

「構わないよ……と私が言うのも少し違うのだろうね。とはいえ、今日も蔵に行くのか、二人とも。何か気になるものでもあったかな? 広々としているが古びたものばかりで、何日も見に行くようなところではないだろうと思うんだが」

「あー、それが。実は、昨日は結局蔵には行けていないんです」忠が苦笑いをしながら、後頭部をかく。「蔵に行く直前に、陽葵がスマホを落としてしまってですね。屋敷に呼び戻されるまでずっと探してたんですよ」

「ああ、スマホをなくした話は幸也も言っていたかな。こう色々と忙しくなければ一緒に探すこともできたんだが……」 

「大丈夫です! 今はみんないろいろ忙しいみたいだし……それじゃ、わたしたちもう行きます。またね、賢一おじさま」

「山道気をつけるんだよ」

 陽葵は兄の手を引き、水瀬刑事に会釈しながら部屋を出る。

 

 昨日と同じ整えられた山道を二人で歩いていく。鍵は忠が持っていた。

「……ほんと、こんなところから落ちといてよく壊れなかったよな」

 昨日、陽葵がスマホを落としたところまで差し掛かった時、忠が呟いた。「データ壊れるどころか、スマホ本体も大ダメージだと思ってた」

「……」

 それは正直、陽葵とてわかっていた。昨日はごねてみせたが、さすがにスマホが無事だと本気で思ってはいなかった。

しかし、現に、スマホは誰かの手に渡り、一文字だけとはいえラインを送ってきている。不思議なことに。

 二人して黙々と歩いていけば、蔵には意外とすぐに到着した。屋敷から二、三十分程度は歩いたので、蔵はちょうど山の中腹辺りに位置するのだろう。

「どうしてこんな位置に作ったんだろうね」

「ん――? 何を」

 蔵の上戸につけられた、古そうだが頑丈そうな打掛錠に鍵を突っ込みながら忠が応える。だから蔵の話、と陽葵は短く言った。

「蔵なら敷地に作ればよかったと思わない? あれくらい広いんだから、蔵を置くスペースもあったはずだよね」

「まあ、それは……。景観を損ねるとか? かなり大きいしな、この蔵」

 自分で言って、景観を損ねる蔵ってなんだ、と思ったのか、忠がすぐに「ないか」と言いながら観音開きになっている上戸を開け、中の網戸を開けた。上戸の掛子は四段の本三重、相当しっかりと作られた蔵である。

 蔵の中は特に掃除をしていないのか、かなり埃臭かった。戸を開けて風が入るだけで細かい塵が舞うので、二人して手で払いながら中に入る。屋根と蔵の間には外気を取り込むような隙間は空いているのだが、埃が溜まるのはどうしようもない。

 咳き込みながら中を見渡せば、忠が、「うわ」と驚きの声を上げた。

「天井たっか。しかも広くないか。普通こんなもんなのか? 土蔵って」

「さあ。初めて見たから比較対象がないよ」

 しかし、賢一のがらくたの物置きと化している、という話は間違ってはいなかったらしい。

 蔵の中には背の高い木棚が所狭しと並んでおり、棚板には古そうな壺や食器などが無造作に置いてある。骨董品というより、単にいらなくなったものを適当に並べているだけのようだ。

「あ、見てお兄、梯子! 二階があるよ」

「上るなよー」古そうな棚を眺めていた忠が、陽葵の方を見ずに言う。「梯子って木だろ。腐ってるかもしれないから危ないぞ」

「え、ごめん」

「なんだよ」

「もう上まで来ちゃった……」

 おい、という忠の呆れたような声が一階から届く。

 ――陽葵が梯子を上って辿り着いた二階は、一階ほどは広くはなかったが、壁面に棚が設置されていた。一階とは違い、棚の中はほとんど空で、いくつか高価そうな桐の箱が置かれている。

 ほぼ紐をかけられているが、中身を見ることはできそうだ。片っ端から紐を解いて中を確認していく。

「何があったんだよー?」

「うーん。絵とか、掛け軸とか? あ、なんか昔の本とかもある。和綴じっていうの? 古そうな本。あとは何か、古い写真みたいなものもあるよ。古そうな本に挟まれてた。これ、古いのにカラーだ、すごい。写真は持ち帰ってもいいかなあ……ねー、お兄も来なよ」

「お前はまだ軽いからいいかもしれないけど、俺が上ったら今度こそ梯子壊れるかもだろ。降りて来いって」

「まだ軽いって何。これから重くなるって言いたいわけ?」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、陽葵は抱えられるだけの箱を持って梯子を降りていく。奥にある、ひときわ厳重に紐が掛けられている桐箱も小脇に抱えて持った。

箱を見るなり忠は怯えたような顔つきになり、高そう……と呟く。「頼むからさあ、そんな雑に持ってくるなよ、お前……どうすんだ、弁償とか言われたら」

「大丈夫だよ落としたりしないから。これがなんかよくわからない掛け軸、これが、和綴じの本。あと奥にしまわれてた高そうな箱も持ってきた」

「なあ、本当にそんなの勝手に触って大丈夫なのか……?」

 なおもこわごわとした様子の兄に、陽葵はふんと鼻を鳴らした。

「勝手に触って大丈夫じゃないものがあるところに、わたしたちみたいな子どもをやるわけないじゃん。入って遊んでいいよって賢一おじさまが言うんだから、好きにして大丈夫だよ」

「その理屈はどうなんだよ」

忠は呆れている様子だったが、陽葵は無視して和綴じの本のページをめくる。

昔の文字だった。読めないと呟くと、横から忠が覗き込んでくる。

「くずし字だな。日記か?」

「お兄、くずし字ってあれでしょ、楷書体と違って続けて書くから、字がぐしゃって崩れてるやつ。高校で習うの? 読める?」

「まさか。大学レベルだろ、普通。……くずし字解読サイトがあるけど、こういうのってどこまで信じていいか微妙だしな」

 まあとりあえず読めないものは放っておいて次いこう、と忠は桐箱を指さした。意外とノリノリじゃん、と思いつつ、陽葵は箱の紐を解いていく。

「……あれ? 絵だ」

「絵?」

「うん。西洋画……っぽい、日本画? 日本画っぽい西洋画? わかんないけど、人物像だよ。若い女の人の絵。全体的に茶色っぽいけど色が褪せちゃったのかな」

「桐箱に保管されてたのにこんなにセピア色なことあるか? もとからこういう色なんじゃないのか」

「ふーん?」 

 まあそれはいい、と陽葵は桐の箱に入った絵を全て取り出した。――A4サイズよりもやや大きい縦長の絵が全部で三枚。タッチは図工の教科書で見た日本の美人画よりも西洋の肖像画に近いが、西洋画ほど精巧ではない。

「これ、素手で触っていいのか? どうすんだ価値のある絵だったら。でも教科書とかでは見たことないし、見覚えのあるタッチでもないし。サインらしきものも特にないな……」 

「後ろ向いてるものもあるけど、たぶん全部同じ女の人の絵だね。同じ女の人を、いろんな角度から描いてるみたい」

 バストアップの構図で正面を向いている女性。同じくバストアップの構図の横顔の女性。ほとんど後ろ姿で、こちらを振り返っている女性。これは腰から上を描いている。

 ――ただ、どの絵にも、背景はほとんど描かれていない。三枚とも、女性の周りは薄い茶色で塗り潰してあるのだ。

「誰の作品なんだろう?」

「さあ、サインがないからな。……でもこんなに丁寧にしまってあるんだから、もしかしたら当時はそこそこ有名だった画家が描いたか、それか京嶌の当主が描いたのかもな」

「あー、ご当主様が。だから大切に保管してたってこと? じゃあこの人は京嶌家当主の奥さんとか?」

「かもな? でも、それにしてはなんか……笑っていないよな」

「……確かに」

笑っていない、というよりもむしろ、悲しげな眼差しをしているとも言える。どこか不幸そうに見える憂い顔なのだ。視線もどこを見ているのかわからない。

 それが、なんとも言えない不気味さを醸し出している――。

「なんか、嫌な感じがする絵だね」

「だな。なんでかはわからないけど」

 何となくしまって元に戻すか、という空気になり、桐箱に入った絵は元通り桐箱に納める。そしてまた二階に上がり、棚に戻してきた。

 陽葵が一階に戻ってくると、忠は奥の壁に並べてある棚を眺めていた。

 いや、正確には棚ではないようだ。飴色の、多くの引き出しがついた重厚な印象の大きな和簞笥――それがいくつか、隙間なく並べられている。

「なんか古そうなタンスだね、お兄」

「手入れされてないみたいだからところどころ朽ちてるけど、これも高そうだな。引き出しが多いけど、帳場箪笥だったのかな? ここの彫刻とか、立派でビビる」

 けどこの箪笥、何にも入ってないんだよな、と忠は言う。

「普通こういう箪笥って大切なもの保管しておくものだと思うんだよ。なのに引き出しは空。二階に高価そうなものがいっぱいあるなら、これに入れればいいのに……」

「……ん? でもお兄、右隣のタンスにはいろいろ入ってるよ。瀬戸物の茶碗とか、高そうな茶器とか。気になるものは特にないけど」

 陽葵がそう言えば、えっ、という顔をした忠が酔ってきて、「……ホントだな」と漏らす。

「じゃあこれだけ空なの? なんでだろうね?」

 確認してみれば、例の箪笥の左隣の箪笥にも色々なものが入っていた。こちらも、特に気になるものは入っていなかったが――。

「……ちょっと待て。陽葵、その、空の箪笥の端っこ……」

「ん?」

「見えにくく隠してあるけど、蝶番がないか?」

「蝶番……? あ」

 忠が指さすところを、陽葵も覗き込んで見る。

 それは確かに蝶番に見えた。箪笥と同じ色に塗ってあり、気が付きにくいように加工されているが、間違いない。

 つまりこの箪笥は――隠し扉なのだ。

 箪笥自体が、開き戸として開く仕様になっているのだろう。

「……そうか」得心した、という声で忠が呟く。「だから、引き出しから物をほとんど出して軽くしてあったのか。動かすことを前提にしてるから」

「どうする、お兄。開けてみる?」

 榛摺村から楊梅町にかけて、紛うことなく地元筆頭の名家である京嶌家の蔵に――隠し扉。わざわざ扉を箪笥に偽装しているということは、そこに隠したいものがあるということだろう。

 隠し扉の先にあるのは、誰にも知られぬ道か、あるいは見られてはならない何かをしまう隠し部屋か。

 ――京嶌家の秘密が隠されているかもしれない。世間に知られてはいけないような秘密が。

 陽葵がじっと横の兄を見つめていると、忠は、

「まあ。……ここまで来たんだし、開けるしかないだろ」

「だよね!」

 陽葵と忠は空の箪笥をそれぞれ抱えるように持ち、せえの、とタイミングを合わせて押してみた。――開かない。

 せえの、と、今度は引いてみる。

 蝶番が古いのか嫌な音を立てたが、今度は重い感触とともに隠し扉が開いた。やった、と陽葵は思わず拳を握ろうとして、

「……あれ?」

 拍子抜けした。

 ――隠し扉が開いた先は、隠し扉でも道でもなく、ただの壁だったからだ。

 なんだ、と陽葵は落胆する。

ただの、特になんの意味もないからくりだったということか――。

「いや、嘘だろ。そんなことあるか? なんの意味があって箪笥をからくり扉にしたんだよ、これ……。かなり凝った仕掛だと思うんだけど。この蝶番の色とかさ」

「さあ……? お兄の言うこともわかるけど、実際に隠し扉の向こう、壁じゃん」

 誰かが趣味で作ったものの、使いどころがないから蔵の奥まったところに放置されているということなのだろうか。

 長らく箪笥があったからか、箪笥の裏の壁はやや他の箇所と比べて色が違う。こうやって、手で触れた時の感触も――感触も?

「まあ確かに箪笥の前には埃が溜まってたし……長い時間動かされてなかったんだろうな。京嶌家の誰かがこれを作って満足して、置いたまま忘れ去られていた可能性もあるか――」

「お兄」

「……なに」

 話を遮られた忠がややむっとした顔になったのを無視し、陽葵は忠の手を掴んだ。そして壁の近くまでその手を持ってゆき、「ここ触って」とその手のひらを壁に押し付ける。

「ちょ、なんなのマジで……」

「この箪笥の裏の壁と、こっちの裏の壁さ、なんか触った感じ感触が違くない?」

「は? ……、確かに」

 京嶌家の蔵内部の壁は漆喰壁だ。手触りは滑らかで――掃除していないので埃塗れだが――触っていても気になるような引っかかりはない。

 だが、例の箪笥の裏だけは、妙に凹凸があった。

素人が雑に塗り固めたような――そんな手触りなのだ。

「……埋めて、塗り固めたのか?」

「え?」 

「ほら、たとえば、もともとここには隠し扉から行ける部屋か道、とにかく何らかの空間があったとするだろ。この蔵は山を背にしてるから、背中の外壁は見えないし、洞窟に通じててもおかしくない。

けどある時、埋め立てることにした。その理由は――」


「どうしても、見られたくないものがあったから……?」


 ――それも、入口そのものが隠し扉だというのに、さらに念を入れて埋め立て、漆喰で塗り固めてしまうほどの何かが。

「え……これ、ホントに?」

 声が自然と震えた。「ホントに、ここにヤバいものがあったってこと? お母さんの住んでた家に?」

「俺に聞かれても……。でも明らかに使うために軽くした隠し扉があって、その後ろの壁にも異変があるんだぞ。おかしいだろ」

 その通りだった。陽葵は何か言おうとして、何も言えずに口を閉ざした。

 考えすぎかもしれない。ミステリードラマの見すぎで、旧家の蔵なのだから何か怪しい秘密があるかも、と思っただけかもしれない。

……だが、怪しいものも見つかっている。

 桐の箱に入っていた三枚の肖像画。色褪せた白黒写真のような色合いの、人物画。

描かれた女性を見た時に感じた、なんとも言えない不気味さが蘇る。

(怪しまれずに蔵に入って、そんな作業が出来るとしたら、代々蔵の管理をしてる京嶌家の人間しかいない)

 本当に埋め立てられたのだとしたら、いつ、誰がそれをやったのだろう。

ここにあったら古い資料を読むことができれば、隠し扉の向こうに何があったのか、知ることができるのだろうか――。

 と、陽葵がそんなことを考えた、まさにその時だった。――ぴろん、とスマホのメッセージ着信音が聞こえた。

(あれ、今の音って……)

 鳴ったのは当然忠のスマホだったが、陽葵の記憶の限りでは忠の着信音は「ぴろん」という音とは違うものになっていたはず。

 そんな陽葵の疑問に気がついたのか否か、忠が「昨日変えておいたんだよ」とスマホを操作しながら言う。「陽葵からのラインの着信音だけな」

「えっ、じゃあスマホ拾ってくれた人から返信きたの? なんて言ってる? どこに住んでる人だって? お兄、確か居場所聞いてたよね? スマホ生きてるって?」

「ちょっと待てって、いっぺんにしゃべるなよ。今見るから、」

 すると。

ラインのアプリを起動した忠が、なぜか言葉の途中で固まった。そして僅かに目を見開いたまま眉を顰め、スマホの画面を凝視し始める。

「? ちょっとお兄、どうしたの…………、え?」

 横からスマホの画面を覗きこめば――陽葵にも兄が固まった理由がわかった。

そして、兄がどこか険しい表情をしている理由についても同様に理解した。


『たすけてくださいひろふみにいさまにつついてゆきこねえさまもころされてしまいましたこのいたがしんにかかさまのくたすつたきせきならはとうかわたしたちをまもつてくたさいましおたのみもうします』


「なんなの、これ……」

 ラインに送られてきたのは、そんな、見るからに異様な文章だったのだ。


 

 ひらがなのみで、改行も句読点も全くない。それどころか、濁点すらまともについていない文章。不気味だし、何より読みにくいにも程がある、と陽葵は文面を見るなり顔を顰めた。

「これ、なに? いたずら? 意味わかんないんだけど」

「さあ」

 忠も不可解そうに首を捻っている。……知らない人間のスマホから謎のメッセージを送り、知らない人間を怖がらせて悦に入る。そういうつもりで送ってきたものなのだろうか。

だがそれにしては、凄味や恐怖感が足りないメッセージである。『ひろふみ』と『ゆきこ』が殺されてしまったから、書き手は『つきこ』が次の被害者になることを恐れている。

―ただそれだけの内容なので、不気味ではあるが特に恐ろしくはない。

「気味悪。わたしのスマホ、やっぱりろくやなやつに拾われなかったんだね」

「そうだな。いやでも、一つ気になるところがあるだろ。ほらここ」


『かかさまのくたすつたきせきならはとうかわたしたちをまもつてくたさいまし』


「……、『カカサマ』ってあるね」

「な? これって、おばあちゃんの言ってたアレの事じゃないか?」

「そう、かもしれないけど……」

 どういうことなのだろう。

『カカサマ』については京嶌家の誰も知らなかったはずだ。それなのに、陽葵のスマホを拾った得体の知れない誰かは、どうやって『カカサマ』とやらのことを知ったのだろう。

 陽葵は、読みにくいメッセージを丁寧に読んでいくことにした。

最後の文章を漢字とひらがなを混ざった文に変換するのであれば、恐らくこうだろう――『この板が真にカカサマのくだすった奇跡ならば、どうか私たちを守ってください。お頼み申します』。

 ……やはり、意味がわからない。

「なんなの? そもそもカカサマって祟るんじゃないの? 奇跡ってことは神様なの?」

 それから、板とはなんのことだろう。

(まさか、スマホのこと? まさかねぇ)

 この令和の時代、どんな老人でもスマホを板などと呼ぶ者はそういまい。陽葵のスマホを拾った人物はどういう生活をしているのだろう。不気味さを煽るための演出だろうか。

「とにかく電話を掛けてみよう。いたずらなら悪質だろ」

 すぐさまライン通話のボタンを押した忠が、スマホを耳に当てる。……が、すぐに眉をしかめて呟いた。「切られた」

「ええっ? さすがに秒過ぎない? 一秒も経ってないじゃん」

「待てって、もう一回掛けてみる……。うわっ、ダメだ。また切られた」

「はあ? なんなの? どういうことなの?」

「俺に当たるなよ。コール音が鳴り始めるかどうか、ってレベルの速さで切られてるんだから」

 さすがに腹立たしげな忠が、電話がダメならと、今度はメッセージで文句を言う。

『申し訳ありませんが、意味がわかりません。申し訳ないですが、あなたはどなたなのかを教えていただけませんか? 妹のスマホを拾ってくださったのはありがたいのですが、それを悪戯に使われては困ります』

『直接会うのがまずそうなのであれば、お手数ですが、交番に届けてもらえませんか?』

 すぐに既読がついた。……が、待っても返事が来ない。

「……あ! お兄、名乗ってないからまずいのかも」

「確かに。……やばいな、なんも考えずにメッセージ送ったけど、父さんに相談してからの方がよかったか?」

「でもさ、今さら相談したら、拾ってくれた人がいるんなら、なんで最初からそうと言わなかったんだって怒られそうじゃない? 相談するべきだっただろって」

 忠が苦い顔をして、それもそうかと頷く。二人揃って父親に長々と説教されるのはあまり歓迎したくない。 

 とにかく名乗るだけ名乗ろうと、忠が慌てて次のメッセージを打ち込む。

『すみません。名乗り忘れていました。小野忠といいます。そのスマホの持ち主は妹で、小野陽葵です。京嶌家の縁者で、今は一時的に屋敷に身を寄せています』

「……これでいいか? あんまり書くのもまずいよな。個人情報だし……」

「こういうこと経験したことないから、何すればいいのかよくわかんないよ」

「ったくもう、お前がスマホを落とさなければこんな面倒なことには……」

 疲れたように言われてムッとするも、忠の言葉は正論だ。唇を尖らせながらも、陽葵は「ごめん」と言う。

 ――と、その時また、ぴろんという音。十分ほど待って、ようやく返事が来たらしい。

『かかさまてはないのてすかおのさまというかたはそんしあけませんなにかとおまちかえてはないてすか』

「……何言ってんだ、この人」忠が呆れた声で言う。「そりゃ小野なんて知らないだろ。今名乗ったんだから」

 そして続けて返信する。

『かかさまとやらではありません。間違いでもありません。そもそも、あなたはどなたなんですか? 名前を聞かせてもらってもいいですか?』

 これに対しての返事は、そこそこ早く返ってきた。

 

『わたしはきようしまはなこともうします』


 思いがけない名前に、陽葵と忠は揃って首を捻る。

「……京嶌? はなこ……なんて人、家にいた?」

「聞いたことないな」

 こちらは京嶌家にいるというのに、なぜすぐに嘘とわかる嘘をつくのだろう。ますます意味がわからない。忠が首を傾げたまま、素早い指さばきで返事を送信する。

『京嶌家にはなこという人がいるとは聞いたことがありません。あなたこそ、何かの間違いではないですか?』

『わたしはきようしまけとうしゆわたるのめいにあたりますおのというしんせきのいえはそんしあけません』

『当主ですか? わたるさんとはどなたのことですか。京嶌家の当主はまだ決まってませんよね。女当主をしていた祖母の月子が倒れたばかりなんですから。町の方ならご存知ですよね? 失礼ですが、少し不謹慎だと思います』

 それから、と文面にて忠が続けた。

『もしよければ、句読点や漢字を使っていただけませんか? 句読点は「ら」の下のキーを押せば出てくるし、漢字もキーボードの上に変換候補が出てくると思います。文字に濁点をつける時は、文字を打った後に「ま」の下のキーを押します。小文字にする時も同じ操作です』

 今度は返事に間が空いた。

 ……そもそも、打つのが遅いのはともかく、なんで句読点すら使えないのだろう、と陽葵は思う。

 スマホを使ったことがない人はいるだろうが、ガラケーすら触ったことがない人は、よほど年配の方でないとそうそういないだろう。キーボードはガラケーの仕様とそう変わらないのだから、記号を使うのも変換も、そうそう難しくないはずだ。

 ――しばらくして、返信があった。

 しかし、段違いに読みやすくなった文には、なんとこんなことが書いてあった。

 

『小野様のおっしゃる月子というのは、よもや京嶌月子のことでしょうか。それは、同姓同名のかたではないかぎり、おかしいと思います。

 京嶌月子は私、華子の従姉で、まだ中学二年生です。昭和○×年生まれですから十五才です。孫がいるはずありません。』 


 思わず、陽葵は忠を見た。

 忠も、目を見開いたまま陽葵に視線を返してくる。

 ――昭和○×年。それは確かに、毒で倒れた祖母月子の誕生年であったからだ。



▼昭和××年九月二十日 榛摺村


 調べ終わったとのことで、警察の方が弘文兄様の亡骸をすぐに返してくださったので、通夜は異例ではあるが本日お昼に執り行われることなったらしい。

――ということを早朝、わたしは小梅さんに叩き起されて知った。

 急遽決まったことで、弘文兄様の親しいお友達が駆けつけて来ることはできないという。けれども、親戚一同はその場に集っているので、さっさと葬儀をまとめて済ませてしまおうというお話らしい。

なにせ、――殺人事件だ。

 それも、背中を刺されて死んでいるという、センセーショナルな。 


 小梅さんとともに急ぎで通夜振る舞いの準備をしていると、どかどかと――実家に足音を立てているわけではない――厨房に月子姉様がいらした。「華、いる?」

「あ、はい。ここに……」

 私は驚いた。月子姉様が厨房に入られることは、ほとんどないからだ。小梅さんや他の女衆もぎょっとしたように月子姉様を見ている。

 そもそも京嶌家の娘が厨房で料理をするのは、花嫁修業をする時のみだ。それもお料理の先生をお呼びして二人で作業をするもので、こういった慌ただしい場には雪子姉様も月子姉様もお顔を出したことはないはずだった。それゆえの、当惑。

「なあに、あなた、また厨房の雑用をしているの。京嶌の女だというのに、手が荒れてしまうわよ」

 月子姉様が自然な仕草で私の手を取る。水仕事で汚れた私の手と違い、繊手とも言うべき、爪の磨かれたしなやかな白く細い手だった。

 その違いを羞じ、失礼だと知りつつ、私はつい手を引っ込めてしまった。「でも、私はお手伝いをしなくてはいけないので……」

 それを聞き、ふん、と月子姉様が鼻を鳴らす。そして厨房で慌ただしく働きつつ、己をちらちらと見ている女中たちに何を思ったのか――彼女は、ひと言「いいわ」と言った。

「じゃあ、私も手伝う。人手が多い方がいいでしょう」

「えっ」

 私も眼を見開いたが、これに何より慌てたのは小梅さんだった。「――月子お嬢様、京嶌家のお嬢さんが台所仕事をなさる必要はございませんよ。それはわたくしどもの仕事です」

 しかし、月子姉様は冷ややかなお声で応える。

「あなたがこき使っている娘も京嶌家のお嬢さんなのよ。歴とした京嶌恭子の娘。もしかしてご存知でないの?」

「それは……」

「華が働いているのなら私が駄目という理屈は通らないわよね。さ、何をすればいいのか教えてくださる?」

 小梅さんが唖然と月子姉様を見つめている。私もそれに倣う。

 月子姉様は、お口では教えを乞いたいとは言いつつも、女中たちからの指図をよしとしてはいないのか、さっさと自ら襷をかけると、厨房を横切って作業に取り掛かる。勝手はわかっている、というご様子だった。

 月子姉様は気高いだけでなく、強い方だ。きつい物言いをする小梅さんに、あんなにはっきりと言葉を返せるだなんて。それとも、小梅さんが厳しいのは私に対してだけなのだろうか――。

 けれども、月子姉様と私で皆の態度が変わるのは仕方ないことだ。

 なぜなら月子姉様は常に完璧だ。京嶌家の姫に相応しい気品と凛とした強さをお持ちで、何者にも怯えたりはしない。そういうお方なのだ。 

 

「――臭い物には蓋をしようというわけね」

「え?」

 二人で出来上がった本膳を座敷まで運ぶ途中、不意に、ぽつりと月子姉様がそう呟いた。

 出し抜けなお言葉に面食らっていると、「弘文兄様がお亡くなりになった件よ」と美貌の従姉は続ける。

「遺産をめぐって京嶌家の人間が殺されたなど、恥そのものだもの。周りの目もあるから葬儀は一通りやるけれど、さっさと終わらせてろくに人も呼べないというわけよ」

「い、遺産ですか? でも、弘文兄様は京嶌の財産を……」

「そうね、与えられてないわ。弘文兄様を遺産相続問題で殺す者はいない。でも世間はちがう。京嶌家の長老が死に、すぐに京嶌家の亡き長男の子が殺されたとなれば、世間は家の財産を巡って人殺しがあったと思うのよ」

 月子姉様が吐き捨てるように言う。

「だから、ろくに人も呼ばず、告別式も済ませることになるのだわ。本当に、この家は世間体ばかりで厭になる。……いいえ、それだけじゃないわ。この家は、」

 ――この家はおかしいのよ、と。

 月子姉様は立ち止まったまま、低くそうおっしゃった。

私は何も言えずに、月子姉様の後ろ姿を見詰めた。緑なす黒髪が、揺れる。

「おとなになってしまっては、意固地になる。そうかんたんに考え変えることはできなくなるわ。だから、現実を直視するにはいまがチャンスなのよ」

 私も彼女の横に立ち止まると、月子姉様は凝と私を視た。

底光りを帯びた眼で、まるで期待を込めるように――。

 と、その時だった。

私と姉様が横並びに立った廊下の向こう側から、莫迦にしたような笑いを含んだ声がした。

「おお、月子。手伝いか。珍しいな」

「あら」声の方角へ視線を遣り、興味のなさそうなお声で、月子姉様が言う。「博巳伯父様に、賢二郎さんじゃない」

(本当だわ)

 博巳伯父様と賢二郎さん。珍しい組み合わせだ。

「こんにちは、月子さん、華子さん」

「こ、こんにちは」

 賢二郎さんに声を掛けていられ、私はあわてて頭を下げた。

 彼は、博巳伯父様の煙草のための灰皿を、代わりに持って差し上げているようだった。

私は気の使える優しい方だと思ったけれども、月子姉様はそうは思わなかったらしい。賢二郎さんが伯父様の灰皿を持っているのを見ると不愉快そうなお顔になって、「人に持たせて。そんな灰皿(もの)、ご自分でお持ちになったら」と博巳伯父様に冷たく言い放つ。

鋭いお声だったが、博巳伯父様も一切ひるむ様子は見せない。

「荷物になるじゃないか。それに傍系の賢二郎は分家、つまり家臣も同然だ。このくらいは当然だろう。なあ、賢二郎」

「ええ、はい」

 どこか困ったような顔で、賢二郎さんが頷き、後ろ頭を掻く。月子姉様は依然として不機嫌そうなお顔でそれを見ていたが、やがて面倒臭そうに溜息をついた。

「……まあ、なんでもいいけれど。そこ、どいてくださる?」

 通行の邪魔だわ、とはっきり告げる月子姉様のお声はまた一段と冷ややかなものだったが、博巳伯父様はにやにやとした笑みを浮かべたまま、怯むご様子はなかった。ふかした煙草の煙が膳の上を漂い、思わず顔を顰めた。

「華子はまだしもお前までが使用人の真似事なんぞしていたら、兄貴が泣くぜ」

「この程度、女中仕事とは言えないでしょう。膳を運ぶだけなのよ。それに、如何して華はよくて私は駄目なのかしら。華も京嶌忠臣の孫娘には変わりないのよ」

「そりゃァお前、」

 ずい――と、伯父様が私にお顔を近づける。無精髭の生えた、しかし目鼻立ちがすっと整っているその顔に揃う、くろぐろとした瞳が私を見詰めている。

「――呪われてるからだろ」

「のろわれて……」

 そうさ、と博巳伯父様が嘲笑う。

「華子だけじゃない、雪子も、弘文もそうさ。月子、お前や兄貴、俺とは違って、死んだ奴らは全員呪われていたんだ。だから弘文たちは死んだんだよ。そしていずれは華子も……かあいそうになあ」

「呪いですって? こんな時に、意味不明なことをおっしゃらないで」

「俺は真面目だぜ。この村は呪われている。祟りで人がたくさん死んでるのさ」

 だから皆カカ様を拝むんだろ。伯父様が嘲笑ったまま、呪いのように言葉を繋げる。

カカ様は心のせまァい神様だからな、拝まないと俺たち京嶌が犯した過去の所業を赦してくれないのよ。少しでも怠ると死ぬのさ。なァ華子、お前もそう思うだろ――。

 伯父様の指が私の顔に伸びる。

 その手が頬に触れようとしたその瞬間、「やめなさい!」と月子姉様が声を張った。

「――華に、気安く触れないで」

「おお怖い怖い。華子、お前の従姉さんは恐ろしいねェ。退散退散」

 ハッハ! と短く高く笑い声を立てると、愉快げな足取りで伯父様が座敷に戻ってゆく。そしてその後を慌てたように賢二郎さんが追う。

 月子姉様は伯父様が席にお戻りになってもなお恨めしそうに、怒りをはらんだ眼で彼の去った方向を見詰めていた。


 *


 その後賢二郎さんも加わって通夜振る舞いの準備をしたため、準備は想像よりも早く終わり、親族一同が揃うと、間もなく喪主の挨拶となった。

 ――ところが伯母様のお姿が、この奥座敷にない。

 どういうことかと思っていると、挨拶に出てこられたのは雪子姉様だった。ただでさえ雪のように白い膚がひどく青ざめて――雪子姉様がたいそう美しいのも相俟って、まるでお人形のようだ。

「この度は、皆様、お力添えをありがとうございました。お陰様で、滞りなく、通夜を終えることができました。……、体調を崩しております母裕子に代わりまして、心より御礼申し上げます――」

(おかわいそうだわ……)

 雪子姉様の挨拶はたどたどしく、目も虚ろで、彼女こそ今にも倒れてしまいそうだった。それは挨拶を終え、参列者――使用人以外は弔問客はほとんどいないが――が食事を楽しみ始めてからも変わらない。

 無理もない。私でさえ、弘文兄様の死はひどく堪えた。

 弘文兄様は、何故殺されなければならなかったのだろう。弘文兄様を殺しても、殺した人間の遺産の取り分など増えやしないのに。何故――。

「雪子姉様!」

 重苦しさがやや解けてきて、和気藹々とし出したその場の空気を、切り裂くような悲鳴がした。

 ――そう、事態にいち早く気がついたのは月子姉様だった。

 月子姉様の悲鳴のような叫び声に、皆、一瞬遅れて雪子姉様を見たのだ。

「ぐ、がっ」

 立ち上がった雪子姉様は胸を押さえていた。かと思いきや喉を掻きむしった。呻き、背を反らし、見開いた眼から涙が零れている。

「姉様っ」本膳を蹴倒し、月子姉様が雪子姉様に駆け寄る。「気を確かになさって!」

「ぐ、ふ――」

 ぶう、と、音がした。

 何の音なのかを理解する前に、生ぬるい何かが頬にかかった。指で拭えば、指の腹が赤く濡れた。

 ――鉄錆の臭いがする。

 気がつけば雪子姉様は、血を噴き出して倒れていた。蘇幕に鮮血が飛び散り、雪子姉様を支えていた月子姉様のお顔は真っ赤に染っている。

「姉様、雪子姉様! 誰か医者を! お父様、医者を呼んで!」

「あ、ああ……」

 雪子姉様の口元も、赤く染っている。桜色の唇が毒々しいほど赤くなり、まるで合わない口紅を塗ったかのようだった。真っ青な顔に、真っ赤な唇――。

「ほらな。だから言っただろう」

 小さな声だったが、確かに聞こえた。

 ゆるゆると顔を上げると、御猪口に口をつけたままの博巳伯父様が、あの、莫迦にしたような笑みを浮かべて雪子姉様を見詰めていた。あの、くろぐろしい闇色の瞳で。

 ――呪われてるからだろ。

 そう嘲った、伯父様の声が蘇った。

(どうして……?)

なぜ、弘文兄様が、雪子姉様が、私が呪われなければならないの。

私も、兄様たちも、仕来り通りカカ様に毎日祈りを捧げているのに。そうしていたら、祟りから守ってくださるのではなかったの。

 私は、いま目の前にある光景が、到底、現実とは思えなかった。

 まるで夢幻の中に囚われたような心地だった。


 *


 ――雪子姉様はお医者様が到着される前に、息を引き取られた。苦しみ悶え抜いたその死に顔は穏やかとは言えず、目を閉じさせてなお彼女のいまわの苦痛が伝わる表情だった。

弘文兄様の死からずっと伏せっておいでで、誰とも言葉を交わさない裕子伯母様には、雪子姉様の死はしばらく伝えないでいよう、ということになったらしい。これ以上絶望させることはめておきましょう、と兵衛先生がおっしゃったという。

どうせ、こんな状況では、通夜も告別式も、ゆっくりできるはずがない。皆が頷き、裕子伯母様に関してはそっとしておくことになった。

 ――また、もはや誰の目にも明らかなことではあったけれども、雪子姉様の命を奪ったのは、やはり毒だったという。

 そして、どうやら毒は雪子姉様のお膳の椀に盛られていたらしい。

 雪子姉様の膳を運んだのは手伝いをしていた賢二郎さんで、警察に真っ先に疑われたのも彼だった。

「確かに僕が雪子さんのところへお膳を運びました。ですが毒など盛っていません」

「だが、あなたには毒を盛る機会があった」

 彼を聴取する刑事さんは言う。「そして毒の入った椀を載せた膳をどこに運ぶことになるかも予想がついたはずだ。僧侶の座る上座から順番に膳が運ばれるはずですからな。雪子さんは今朝から顔色が悪く体調が思わしくなさそうだったとのことなので、無理にお酌をして回ることもなかったのでしょう? それならお酌と挨拶で食事もろくにできないということはない、と予想がつく」

「それは……でも! 毒を盛ったのは僕とは限らないでしょう。もともと椀に毒が塗ってあったのかもしれないじゃあないですか」

「確かに……」私も控えめに口を挟んだ。「お吸い物を椀によそったのは私ですし、椀を洗ったのは女中さんです」

 あの時の厨房は忙しかった。そう他の人に注意を払っていられなかった。そういう意味なら、誰にも気が付かれずに毒を盛ることは、厨房にいる者皆に機会があった。

「そうですよ! そもそも僕は毒の手に入れ方など知りません。僕が毒物のようなものを調達しに行っていないことは、調べてもらえればわかるはずです」

「それに――」

 月子姉様が、視線を落としたまま口を開いた。血を浴びたお顔はすっかり綺麗になっていたが、いちばん近くで雪子姉様の死を目の当たりにしたからか、その瞳はひどく虚ろである。

「そもそもこの事件は、雪子姉様を狙ってのものなの?」

「……なんだって?」

「刑事さん」月子姉様のお声は、不気味な程に冷静そのものだった。「この家の者に、京嶌弘文と京嶌雪子を殺して得をする人間なんてどこにもいないのよ。少なくとも遺産相続に関してはね」

「……それは、そうらしいとお聞きしましたが」

「だから、そう、たまたま、だったのではありませんか」

 気の違った殺人鬼の標的になったのが、たまたま、京嶌弘文だった。

 殺人鬼の放った毒椀は、誰を殺しても構わなかった。それにたまたま中ったのが、京嶌雪子だった――。

「莫迦な……。京嶌月子さん、あなたはご自分の、この家にそのような狂った殺人犯が潜んでいると思っているのですか?」

「判りません。私だって――」

 月子姉様はそれ以上言わなかった。言えなかったのかもしれない。

 刑事さんでさえ、青ざめたまま何も言えていなかった。


 *

 

「弘文兄様……雪子姉様……」

 押し入れの前に座り込み、私はぼんやりとカカ様を見上げていた。御絵の中のカカ様は、世を憂う眼差しでそこに佇んでおられる。

 カカ様は、私たちの身に訪れた不幸をご存知なのだろうか。十八才を目前にして亡くなった弘文兄様と、十六才で亡くなった雪子姉様の無念を。苦痛を。

「どうして、こんなことに……」

 弘文兄様も、雪子姉様も、殺される理由などない。お二人とも人格者で、お綺麗で、優秀なご兄妹だった。

 優秀だったからこそ、恨みを買ったのだろうか。逆恨みで殺された? 十六才と、十七才が?

 それとも本当に、月子姉様の仰る通り、無差別に殺されてしまったのか。まるで、神が理不尽に怒るように。

(そういえば、博巳伯父様は、呪われているから死ぬのだとおっしゃっていた)

 榛摺村に伝わる祟りについては、知っている。カカ様への信仰の根幹になる話だからだ。

 言い伝えの概要は以下の通りである。

 明治大正、あるいはそれより前の江戸の時代かは定かではないけれども、はるか昔から、京嶌家の一族は庄屋として村を守っていた。

 その土地には女神がおわしたらしい。女神は女神らしく不思議な力を持っており、未来を見たり、人の心を読んだり、遠くの者と話すことができたという。

 しかしある日、京嶌家の当主が、その地の女神を怒らせてしまった。その時は軽く考えていた当主だったが、だからこそ女神は京嶌家をすぐさま祟り、そのせいで京嶌家の半分以上が命を落とすことになってしまった。……祟りとしか思えないほど、ばたばたと短期間で亡くなられていったそうだ。

 そして――その女神が、御絵に描かれたカカ様なのだという。

 ――以降、当主は女神ことカカ様の絵を描いて飾るようにさせていたそうだ。絵師に描かせたとびきりの絵、それら十枚を御絵とし、皆に拝ませた。そうしたところ、ぱたりと祟りは消え、人死にが出るものも終わった。

 カカ様はこのようにおっしゃったそうだ。

「このまま皆が私を拝み、崇めるのであれば、この度のことを赦し、同時にこの家の長久は私が保証する。その代わり、この絵を尊重し、崇めなければ、私を尊ぶ心が足りないとして、十八になるまでに命を奪う」 

 そこから、カカ様は真の意味で榛摺村の――京嶌家の女神となった。家を祟った恐ろしい女神でもあり、守護神でもある――畏ろしくも尊い存在に。

(でもお二人の死が祟りなら、変だわ。お二人はカカ様を敬っておられたもの) 

 ではなぜ? どうして弘文兄様たちは殺されてしまったのだろう。

 ふたつの殺人は人の手によるものか、祟りの所為なのか――。

「……そうだわ」

 私は押し入れを開ける。カカ様の足許には、昨夜、少し弄ったまま放っておいてしまった板のような機械が変わらずに置いてある。

「助けてほしいと、直接言ってみればいいのだわ。折角、カカ様の奇跡がこの手にあるんですもの……」

 やり方は覚えている。一回手順を識ってしまえば、前と同じ吹き出しの画面に行き着くことは難しくなかった。

 私は祈るような気持ちで、助けてください、とキイボードで打ち込んでゆく。この板がカカ様の奇跡によってもたらされたものなら、きっと私たちを導いてくださるはずだ。

 返事はすぐに来た。

「……え」

 ところが、それは私の思ったような内容ではなかった。

 内容は要約すると「意味がわからない」で、悪戯はやめてほしいとまで言われてしまった。

 心外だった。あれは懇願であり、祈りであり、断じて悪戯などではない。

 弘文兄様と雪子姉様の死は確かに起こったことで、おそらく村の者ならもう皆知っているだろう。このお返事をくださるのが、カカ様の奇跡にかかわるお方ならば尚更だ。――だのに意味不明というのはおかしいじゃないか。

 さらに次の瞬間、続けて現れた吹き出しに、私はさらに首を捻ることになった。

『すみません。名乗り忘れていました。小野忠といいます。そのスマホの持ち主は妹で、小野陽葵です。京嶌家の縁者で、今は一時的に屋敷に身を寄せています』

 小野忠。そして小野陽葵。見たことがない名前だった。しかし重要なのはそこではない。

 なにせ小野忠は京嶌家の縁者を名乗っている。

(どういうことなの?)

 この板の向こう側にいるのは、カカ様の御使い――ではないのか?

 では、いったい何者なのだろう。これがカカ様の奇跡でないなら、どうしてこの板にしか見えない不思議な機械で、やり取りが成立しているのだろう。

(そもそも、小野なんて知らないわ。京嶌の縁者なら私も知っているはずだし、そもそもうちに身を寄せている者なんて)

 しかも文通相手は――短い手紙で文通していると言うべきだろう、不可思議なことに――亘伯父様のことさえ知らないという。私の返信から、ほんの数秒で返ってきた文の『わたるさんとはどなたのことですか?』というところまで読んで、すっかり気疲れしてしまった。

 京嶌家の屋敷、つまりここにいるというのに、当主を知らない? まさか、このひとが言っているのはうちとは違う京嶌家のことなのかしら――。

 まったく、話が噛み合わない。

(それにこの方、こんなに打ちにくいキイボードで、どうして整然とした文章を、すぐに打ち出せるのかしら。やり取りができているということは、同じ機械を持っているということよね?)

 もしや都会では、この板はもはや当然のように使われているものなのだろうか。

 ふう、と息を吐き出しながら、なんとか続きを読み進めて、

「え……」

 私は、これまでで最も大きな驚きに打ちのめされることになった。

 

『女当主をしていた祖母の月子が倒れてしまったばかりなんですから』


 祖母の――月子? 京嶌家、女当主の、月子?

 確かに月子姉様は亘伯父様の唯一の娘だ。月子姉様が婿を取ることになるだろう。であれば亘伯父様の跡を継ぐのは実質、月子姉様ということになるのかもしれない。

しかし、それはあくまで将来の話であって、いまのことではありえない。京嶌月子は、私の従姉でまだ十五才なのだ。子供どころか孫だなんているはずがないのだ。

 文面で教えられた方法で、漢字と、句読点をつけながら文章を作ってゆく。震える手で、文字を打ち込んでゆく。三角のボタンを押して、文を送り出した。

 ――やがて、次なる返事が届いた。

『昭和○×年生まれで十五歳? おかしいですよ。今は、令和‪×年ですよ』

 心の臓が強く跳ねて痛い。うまく言葉にできない昂揚と恐怖が、全身を取り巻いている。

『令和とはなんでしょうか。聞いたことのない年号です。』

『そんなわけないでしょ。本当にあなたは昭和時代の人だって言うんですか?』

『本当もなにも、今年は昭和××年です。』

『じゃあ、証拠を見せてください。そのスマホが、川に落ちたら、時を超えて昭和に飛んだって言うんですか? 信じられませんよそんなの』

『スマホというのはやはり、この機械のことなのですか。証拠を見せろとおっしゃいますが、どうすればいいのですか。』

『新聞の写真を撮ればいいでしょ』

『この機械で写真を撮れるのですか?』

 そう聞くと、ややあってから文通相手――忠さんと呼ぶことにする――は、おざなりだったがスマホ、での写真の撮り方と、それをこの、ライン? という通信場所に送信する方法を教えてくださった。一度元の、四角が並んだ画面に戻り、カメラの絵がある四角を押せば写真を撮れるらしい。

 私は「少しお待ちください」と書いて、部屋を出る。今日の夕刊は、亘伯父様が持っているはずだ。大方の警察の方々は一度警察署に戻ったものの、まだ屋敷に残る刑事さんたちがいるのを横目に、亘伯父様を探す。

「あ、あの、亘伯父様……」

「うん? ああ、華子か」

 伯父様はお部屋で、お茶を飲んでおられた。

 亘伯父様の部屋は当主のお部屋のため、ふつうの部屋よりもやや広い。戸の近くにある棚の上に、刀剣好きな伯父様が手に入れてきたという刀が飾られてある。

(真紀伯母様は、いらっしゃらない)

 失礼だとは思いつつ、少しほっとしてしまう。真紀伯母様がおられたら、伯父様と口を利くと睨まれてしまうかもしれないと思っていたからだ。

「あの、今日の夕刊をお持ちではありませんか。すぐにお返ししますので」

「ああ、構わないよ。読みたいのか?」

「は、はい。少し、気になる記事がその、ありまして……」

「そうかそうか」

 亘伯父様は鷹揚に頷くと、そばに畳んで置かれていた新聞を取ると、渡してくださった。ありがとうございますと頭を下げると、亘伯父様は満足そうに笑った。

「華子、お前は淑やかでよい子だね。うちの月子と来たら器量はいいのに口を開けば文句、口ごたえばかりで困る。気が強すぎるのはいけないよ。婿が来てくれなくなってしまう」

「そんな。月子姉様は、お強くて綺麗で、恰好いいところが魅力ではありませんか」

「華子は優しいなあ」

 よい子だ、と伯父様が重ねて言う。

「きっと――」彼はゆっくりと目を細め、「いい女になる」笑う。

「恐れ入ります」

 微笑むと、私は頭を下げた。そしてそのまま踵を返すと、夕刊を持って部屋に戻る。

 伯父様の視線を背中に感じたけれども、それ以上は、特に何かを言ってくることはなかった。

「よし、これでいいわ……」 

 部屋に戻ると、早速何度か試して、うまく撮れたと思う一枚を早速ラインにお送りした。

 ――写真だなんて、初めて撮った。

写したのは、大見出しの下の日付だ。この機械ならば素人でも簡単に写真が撮れるのだ。しかも、とても綺麗に撮れる。

 自然と頬に血の気がのぼった。

(すごいわ……)

 既読、の二文字は写真のそばにすぐに現れたが、返信はしばらく来なかった。

どきどきしながら待っていると、やがて、『本当なんですね』という文字が画面に現れる。

『新聞紙は古くないし、その畳の縁の家紋はうちのものです。合成じゃたぶん作れないし、あなたが僕らみたいな子どもに対して嘘をつく理由もない。あなたの言うことを信じます』

『……なので、しばらく待ってもらえませんか。僕たちも家にある新聞を送ります。そうしたら、今、僕たちが目の当たりにしている現象について、確信を得ることができるはずです』

 はい、わかりました、と送ると、『よろしくお願いします』と吹き出しで話す、かわいらしい猫の絵が現れた。すごい。こんなものもあるのか。

 和んでいると、三十分くらい経ったところで、写真が届いた。新聞の写真だった。端に映っているだけの、新聞の写真が鮮明で驚く。

 写真が小さかったので、なんとか大きくして見ることができないかと触れてみると、ぱっと画面全体に大写しになった。

 日付は――『202×年(令和×年)9月20日 』。

「にせん、にじゅう……」

 声が震えた。――それは今から七十年近い未来の日付だった。

 なんということだ。

これは、この機械は、本当に未来からやって来たものだったのだ。世界にたった一つの、時を超えてやってきた――。

(すごい。……すごいわ)

 まるでSF小説の主人公――SF小説なんて、ろくに読んだことはないけれど――になったかのようだった。

 他ならぬ私が。京嶌家の一員と、皆に認められていない私が。

(これこそ、やはり、カカ様の思し召し! 榛摺村の女神による奇跡なのだわ)

 このスマホがあれば、きっと何かをなせるはず。未来の知識があれば――たとえば無力な自分でも、弘文兄様や雪子姉様を殺した犯人を捕まえることができるのではないか。

 優しいお祖父さまが亡くなり、弘文兄様と雪子姉様が亡くなり、もはや私の味方をしてくださるのは月子姉様だけになってしまった。月子姉様も、いつまで私の面倒を見てくださるかわからない。

 けれど、家の役に立てさえすれば。そうすればきっと皆、喜んでくれる。きっと――。

『華子さんは、祖母の従妹なんですね。すみません、僕ら親戚に疎くて。数日前、祖母にも初めて会ったんです』

『いいえ。七十年近く先であれば、私はもうとっくにどこかへ嫁がされているでしょうし、忠さんたちが知らなくたってしかたがありません。』

『そういえば、電話をかけたんですが、気が付きませんでしたか?』

『いいえ、気がつきませんでした。スマホでは電話もできるのですか。不思議な仕組みですね。』

『通話記録が残るはずですが、ラインの画面にそれらしいものは表示されてませんか?』

『ごめんなさい。特にないように思えます。』

『そうですか……不思議だな。でもまあ、スマホがタイムスリップする以上に変なことはないか』

 文通と違って短い文章のやりとりは、まるで会話のようで楽しい。気取った文章を書かなくてもよいので、慣れていくにしたがって、キイを打つのも速くなってくる。

『忠さんと陽葵さんはおいくつなんですか?』

『僕が十七、陽葵が十二です』

『忠さんは私よりも年上でいらしたんですね。昨日亡くなった弘文兄様も、十七才でした。』

 そして雪子姉様は十六才――。

それを思い出すと、苦しくなった。まだやりたいことがたくさんおありだっただろうに。

『その、弘文さんという方とゆきこさんという方が亡くなったと言っていましたけど、本当なんですか?』

 やや間があってから、新しい返事が届く。私は勇んで『本当です。』と送った。

『昨晩、従兄の弘文兄様が亡くなりました。背中を刺されて、血を失いすぎて死んでしまったのです。そして、今日のお昼、雪子姉様が亡くなりました。毒を盛られたのです。』

『従兄姉が立て続けに亡くなったんですか? それは、お悔やみ申し上げます』

『恐れ入ります』

『それでも、同年代が殺されたなんて話は、尚更心が痛いですね。犯人の目星は着いているんですか?』

『いいえ。動機を含めて、警察の方は皆目見当もつかないとのことです。』

 一件目、確実に犯行が不可能であったのは私、月子姉様、裕子伯母様の三人のみだ。非力な雪子姉様にも難しかったはずだと刑事さんはおっしゃっている。しかし、死亡推定時刻の午後八時半から三十分、ずっと誰かといた人は、三人のほかに誰もいない。住み込みの使用人たちも含めてだ。

 二件目、これは厨房にいた者か、膳を運んだ者が犯人だ。つまり私、月子姉様、小梅さんたち女中の皆、賢二郎さんである。私と月子姉様は一件目に殺害が不可能とされているので除外しても、かなりの数が容疑者になってしまう。さらに、無差別な人殺しだったのであれば、あらかじめ椀に毒を塗っておけばいいので、誰でも犯行は可能ということになる。

 それを忠さんに簡単に説明してから、続ける。

『私は、無差別殺人なのではないかと思うのです。だって本当に、お二人に殺される理由なんてなかったんですもの。』

『確かに聞いていると、弘文さんたちには殺される理由がなさそうですね。まあでも、知らないうちに恨みを買っている可能性もありますから……。というか、無差別だったら怖すぎませんか?』

『恐ろしいです。祖父の三男が博巳伯父様というのですが、博巳伯父様は、呪われているからだとおっしゃいました。』

『呪い? ですか?』

『京嶌の家にはカカ様の言い伝えがあるでしょう? そのことだと思います。実際に、祟りに遭って、十八までに死んでしまったという例がいままでにたくさんあると死んだ母から聞きました。私と、それから弘文兄様と雪子姉様は呪われており、そのうち華子も、と仰ったのです。

 ですから私、もしかしたら、お二人が亡くなったのは祟りのせいなのかもしれないと思うのです。お二人のカカ様を尊ぶ心が足りなかったから、不信心を咎められてしまって、祟られたのではないかと。だって、あまりにも不可解な殺人ではありませんか。』

 そこまで書くと、これまですぐに返ってきていた返事が滞ってしまった。

 どうかしたのだろうか、と思って待っていると。

しばらくして『あの、ずっと気になっていたんですけど』という一言だけが画面に現れた。

 

『やっぱり、華子さんはカカサマが何かを知ってるんですか?』

 

「……えっ」

 驚き、思わず声を漏らしてしまう。

 どういう意味かしら、と目を見開いたまま画面を見詰めた。

カカ様が何かを知っているか、だって? 知っているに決まっている。なにせ、カカ様はこの村の神様なのだから――。

『もちろんです。むしろ、忠さんたちは、ご存知ないのですか?』

 訊きながらも、そんなはずがない、と心の中で呟いた。彼らも京嶌家の縁者なら、たとえ家を離れていたとしても、カカ様の言い伝えは伝え聞いているはずだからだ。

 ――けれども。

 なんと忠さんは『知らないです』という返事を寄越してきた。

『僕らは祖母の見舞いにこの家を訪れたんですけど、祖母に会ったら言われたんですよ。「カカサマに祟られてしまうからすぐに帰りなさい」みたいなことを。カカサマは祟り神か何かなんですか?』

「……」

文面を見て呆然とした。彼の文章は、まったくカカ様に親しみのない者のそれだった。

「本当にご存知ないのだわ」

 信じられなかった。七十年も経てば、カカ様の言い伝えも風化してしまうものなのだろうか。

しかしこの言い伝えは、いまから数えても百年は前のもののはず。だというのに今でもまだ、京嶌の者は皆カカ様の御力を信じているのだから、七十年しか経っていないのであれば――。

 そこで、ふと――月子姉様のお顔が浮かぶ。

ばかばかしいと、御絵を拝む習慣を鼻で笑った姉様が。

(ちがう。皆、ではない)

月子姉様は、カカ様を、村に伝承されてきた言い伝えを信じておられない。

(雪子姉様も弘文兄様も死んでしまったのに、カカ様を嘲笑した月子姉様は……なんともない。何も起きていない)

 博巳伯父様のお言葉が正しく、この家が呪われているから兄様たちが亡くなったのであれば、やはり祟りのせいということになる。それなのに月子姉様が無事なのは、彼女が総領姫だからだろうか? カカ様も、京嶌家の跡継ぎの娘がいなくなっては困るから、彼女を祟っていない――?

 そんなことを考えながらも、私はカカ様について、慣れてきたキイボードを駆使して、なるべく丁寧に説明をしていく。

 おおかた話すべきことは話すことができたと思っていると、忠さんはまた一言『なるほど』と応えた。『うーん、やっぱり初耳です。僕も陽葵も、聞いたことがありません』

(そんな……)

 御母堂が若くして家を出られたというから、そのせいだろうか、と考える。

――カカ様はこの土地に根付いているという。京嶌の子でも、遠く離れれば、カカ様を知らずとも、祟られないのやもしれない。

『その言い伝えって、代々口伝で残されているものなんですか?』

『はい。蔵には代々の当主の日記が残されていますので、それを読めば言い伝えの一部を知ることができるやもしれませんが、言い伝えのすべては口で伝えられます。蔵はまだありますか?』

『あります。華子さんたちの時とは多分中身も違うとは思いますが……』

 それは確かに。七十年もあれば、何度も整理と掃除をしているだろう。はるか昔の雑記など、当主の日記と気づかずに捨ててしまっていることもありうる。

『まあなんにせよ』

 忠さんが言う。

『弘文さんと雪子さんが亡くなったのは、祟りとか呪いとかのせいではないと思いますよ』

「え……?」

 突然の言葉に目を丸くした。すぐさま、返事を送信する。『どういうことですか?』

『だって祟りのせいなのだとしたら、まずは祖母の月子が殺されるはずでしょう。祖母はその、カカ様への祈りを疎かにするどころか、バカにしてたんですよね? 祟りなら伝統を守っている雪子さんや弘文さんじゃなくて祖母が真っ先に殺されたはずです』

『それは、確かにそうやもしれませんが。』

『ですよね? だから人の手による殺人で間違いないですよ』

 忠さんが、我が意を得たりというように身を乗り出す姿が、脳裏に浮かんだ。

『あと、二件目の雪子さんの件も、無差別ではない気がします。無差別に人を殺して、偶然それが亡くなったばかりの弘文さんの妹だった、というのは出来すぎじゃないですか? 兄妹が連続で殺されてしまったことには、きっと何か理由があるんですよ。遺産相続以外の理由が』

「……確かに、そうだわ」

 目から鱗が落ちる思いで、呟いた。

 可能性がないわけではなくても、無差別殺人ともなれば、余計にそんなことをした理由がわからない。それに、京嶌家にそんな気の違った殺人鬼がいたのなら、もっと早くに惨劇を起こしているだろう。

『これはミステリドラマ(そちらでは探偵ドラマっていうんですかね? 詳しくなくてすみません)が好きな陽葵の意見なんですが、時間や手段で犯人を絞れないなら、動機から考えるとわかりやすいそうです』

(動機から……二人を殺す、動機……)

 何かあるのだろうか。あの優しい兄様たちに、殺されても仕方のないような事情が――。

 すると、先程までとは少し違う、元気な文章がぽんと送られてきた。

『陽葵です! わたしも兄も、祖母の家族が殺されているなら、無関係ではないと思ってます。だから、犯人が誰なのか、一緒に考えませんか? 必ず、動機につながる何かを見つけて、犯人を捕まえてやりましょう! 

わたしもたまに兄のスマホ借りてお話ししますね! 華子さんわたしの二個上ですよね? 話し方が大人っぽくてすごいと思います! よろしくね!』

 私は文面の中に踊る感嘆符に、思わず笑みを零した。……陽葵さん。元気な子だわ。

「……ふふ……」

 彼らはきっと仲がいい兄妹なのだろう。

彼らの母君はわたしの母と同じように村を出ていき、その先で結婚して死んだ。月子姉様の娘だという彼らの母君は、そして彼らは、楽しく豊かに暮らせているのだろうか。

『わかりました。忠さん、陽葵さん、これからよろしくお願いいたします。私、きっとお二人を殺した犯人を見つけてみせます』

『はい! あっ、わたしたち、そろそろお夕飯なので落ちますね!』

『忠です。落ちるというのは一度席を離れるということです。また何かあったら連絡してください』

『はい。また。』

 返事を送り、教えられた手順通りにスマホの電源を落とした。

 電話に、写真を取る機能に、文通の機能。聞けばもっと便利な機能があるそうだけれども、昭和のいまではそのほとんどが使えないらしい。本来ならば、専用の電波がなければラインもできないらしいのだが、どうしていまラインを使えているのかは忠や陽葵にもわからないという。

(でも……いいの。未来と通信をしてしまっただけで、信じられない出来事だもの)

 ――こんな、特別なこと。他の誰も経験したことがないに違いない。

 ただ、だからこそ誰にも言えない。言ったところで精神を病んでいるのではと心配されるだけだからだ。

 ここから、わたしは、わたしにしかできないことをやるのだ。

やっていくのだ――。

 

 *


 翌日の早朝。私はいつものように小梅さんたちを手伝って朝食を準備していたが、そのお手伝いの内容はいつもに比べてはるかに楽だった。――理由はかんたんだ。昨日と同様、月子姉様が「手伝うわ」とおっしゃってともにいてくださるから、私に大変な仕事を頼む使用人が減ったのである。

屋敷に措いてもらっている身分なので文句は言えないが、正直に心うちを述べてしまうと、毎日台所仕事や家事を手伝うのは大変だ。小梅さんをはじめとして、学校の宿題をやっていても構わず雑用を任せられるのが使用人のあいだでは普通のことになっていた様子だったので、月子姉様が間に入って下さってからは変化が劇的だった。

(……でも、頼ってばかりではいられないわ)

 きっと、必要とされる存在になる。月子姉様に、助けてもらうばかりではなくて。

 

朝食はいつものように揃って摂る。けれども、息子と娘を一気に失い、裕子伯母様が臥せってしまってからは、家の中にぽっかりと埋められない穴が空いてしまったようだった。

居間にいるのは、真紀伯母様、月子姉様、博巳伯父様、そして私。

兵衛先生は警察の方の対応をほとんど一手に引き受けているらしく、お仕事もあって昨日から京嶌家を――事件が解決するまでは、しばらく本邸に寝泊まりすることになっているのだ――留守にしている。先生のお手伝いをしている賢二郎さんも、昨晩から御父上の補佐をするため昨晩は屋敷に戻らなかったようだ。

「あの、月子姉様。亘伯父様は……どうされたのですか」

「あら。そういえばお父様、見かけないわね」

 まるでいま気が付いたというように、月子姉様が目を瞬かせ、そして眉を顰める。「厭だわ、朝寝坊だなんて。寝穢い殿方って嫌い。放っておけばいいわよお父様なんて」

「月子姉様ったら……」

 興味のないことにはとことん興味のない月子姉様らしい反応だ。私は苦笑すると、「私が起こしてまいりましょうか」と提案した。女三人と博巳伯父様の食卓は、なんとなく気まずくて息が詰まってしまうし、それがいいだろうと思ってのことだった。亘伯父様は場を和ませるのがお上手なのである。

「そうね。華がいいなら行ってきてもらっても……」

「――やめなさい」

 しかし、月子姉様の言葉を遮り、冷ややかな声音で真紀伯母様が吐き捨てた。「お邪魔をすることになるわよ。今頃あのひと、若い女中と朝寝を愉しんでいるんだから」

「えっ……」

「お母様!? 食事の場でなんてことをおっしゃるの」

 私が驚愕に言葉を詰まらせるのと同時、月子姉様が素っ頓狂な声を上げた。唇と肩がぶるぶると震え、頬だけでなく耳までまっ赤になっている。

 姉様とは対照的に、面白そうなお顔をしているのは博巳伯父様だ。「へえ」と笑って、朝だというのにお酒を煽る。

「兄貴も意外とやることやってるのか。あんたが平気な顔をしているのは意外だが」

「ええ、別にどうでも構いませんわ。もうとっくに夫婦の情などありはしませんもの」

「お母様!」

「おだまり、月子。わたくしが女を伽に出したのです。あのひと顔はいいでしょう。鼻筋が通っていて二枚目俳優のようですからね、女も喜んで抱かれにいきましたわ」

「ハ!」

 心底愉快そうに、博巳伯父様は天を仰いだ。「そりゃあいい。兄貴も真面目な堅物ってだけじゃあなかったんだな」

「そんなこと、あなただってとうにご存知でしょうに」

 そう冷笑し、真紀伯母様は、フと私を見る。――その、怒りを通り越して憎悪を孕んだ眼つきに、思わず息を呑んだ。

 ……どうして皆そんな眼で、けがらわしいものを見る眼で、私を見るのだろう。

「この家の男ときたら、何奴も此奴も屑ばかり」

「ひどい言い草だな義姉さんよ」

ク、と喉の奥で笑った博巳伯父様に、真紀伯母様が「自覚がおありでしょう」と冷然と言い放つ。

「本当に、ひどい家。……嫁いでくるのではなかった」

(そんな……)

 わたしが眉を下げた、まさに瞬間――がたん、という音がした。

 それは月子姉様が膳を倒してまで立ち上がった音だった。

怒りに震えながら、いますぐに誰かを怒鳴りつけたいと思いつつも、誰に対して怒鳴るべきかわからない。そんな表情で、彼女は拳を強く握り込んでいた。

「……いいわ。それなら私が行ってくる。堂々と不倫をなさっているらしいお父様の腹を蹴飛ばして起こしてきてやろうじゃないの」

「おやめ月子。お前は本当に、そういうところの聞き分けがないこと」

「そうだぞお嬢さん。妾の一人や二人。百年も前の京嶌の当主は何人も女を囲っていたと聞くし、一夜の伽くらい可愛いものだろう。男の甲斐性ってやつさ」

「――冗談ではないわ!」

 叫び、月子姉様が早足で居間を出て行く。着物の裾を見事にさばき、ほとんど走るように廊下を駆けて行ってしまう。私は慌てて立ち上がった。

「月子姉様、待って!」

 伯母様は止めようとはなさらず、伯父様は楽しんでいる。それなら、月子姉様が伯父様のいまのお姿を見て、怒りをさらに募らせてしまったとき、宥められるのは私だけだ。

 月子姉様の背を負う。彼女は真っすぐに伯父様のお部屋に向かっている。

 やがて姉様は伯父様の部屋に辿りついたらしく、「お父様っ」という叫び声とともに、襖を開け放つ音が響いた。私はもう一度「姉様っ」と叫ぶと、なんとかその背に追いついた。

「き、着物のまま走っては、転んでしまいます、月子姉様。……姉様?」

「……うそよ……」

「姉様? どうなさっ――ヒッ」

 立ち尽くしていた姉様が、不意にその場に膝から崩れ落ち――姉様のすぐうしろに立っていた私の視界に、その光景が飛び込んできた。

 布団の中には、案の定と言うべきか、裸の男女がいた。一方は亘伯父様で、もう一方が若い女中だ。私も厨房で見たことがある。まだ二十歳にならない、きれいなひとだった。

 ――二人は布団の中で、死んでいた。

 うつ伏せの伯父様は、背中からおびただしい量の血を流してぴくりとも動かない。

そして隣の女は、喉に日本刀が突き立てられており、目を見開いたまま絶命していた。

 二人分の血が混じって、敷布団どころか畳までが血に濡れてしまっているのが、ひどく惨たらしく――冒涜的な光景だった。

「い――いやあぁッ! お父様ァッ!」

叫び、月子姉様は半狂乱で血の海に沈む伯父様に駆け寄っていく。

「つ、月子姉様、」

「ああああああァァァ」

 そしてそのまま、姉様は伯父様の亡骸に縋りついて泣きはじめた。

 気丈な月子姉様が、このようにむせび泣くのを、私は初めて見た。あの、誰よりも強く気高い月子姉様が、こんなふうに身も世もなく泣くだなんて、到底信じられなかった。

 幼子のようにただ泣いている月子姉様の、頬を伝う涙を見て、私は。

(……、)

私は――。


 月子姉様を、宥めようと思ってついてきたというのに。

 ――私は結局、騒ぎを聞きつけた皆がここに辿り着くまで、茫然自失としたまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。





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