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大林宣彦監督インタビュー 成城と映画と平和について(第3回)

幼少時の映画との出会い。8ミリフィルムに託した思い。ご自分を「敗戦少年世代」という大林監督が、少数派であり続けようとしたのはなぜか。静かな語り口ながらも、監督ならではの平和に対する戦いを感じられるお話を聞かせていただきました。
※成城学園100周年記念サイトの企画「100人メッセージ」の取材で、2016年3月に伺ったお話を基にまとめています。

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映画製作をおもちゃで学ぶ

我が家に映画の機械があって。医者の旧家ですから港に船が着くと、不思議な荷物、積み荷があると持ってくるんですよ。石段上ってうちまで。「しぇんしぇー、しぇんしぇー」つってね。「こんなもんがありゃんしたけど、何でしょうか?」と。「わしにも分からんから蔵へ置いとけ」って、蔵の中にそういうのがいっぱい積み重ねてあって。その中で僕が見つけたのが活動写真機というね。「クワツダウダイシヤシンキ」と書いてありましたけど、何のことか分かりませんよ。見ると蒸気機関車が入ってる。煙突があって、お釜があって、レールがあって、カタカタカタカタ走るでしょ? 横にある缶を開けると石炭の匂いがして。これがフィルムなんだけど。当時の可燃性のフィルムは石炭の匂いなんですな。見ると絵が書いてあって枠線が引いてある。
 
で、10コマずつ切って短冊にしといて、それを釜に入れて、庭に持ってって、こう立てると。太陽の光が煙突から入ってお釜ん中のフィルムが燃えると、カタカタカタカタ、シュッシュッポッポッていって遊ぶの。
でもどうも蒸気機関車にしてはちょっと様子が変だな? というので、それが入ってた箱に仕様書が書いてあったから見ると、お釜に電気を入れて、レールに走らせて、電気をつけると煙突から光が出て絵が写るんだと、いうことが分かって。

そうすると映ります。カタカタを回すと絵が動くわけね。それがちょうど汽車の窓のサイズ。「あ、これは汽車の旅を味わうのか」と。そんなことでフィルムは全部切ってるし、切ったフィルムを戻さなきゃなんないから、横に穴が開いてるでしょ、 母親に糸でかかってもらうんですね。ところがメチャメチャに切ったものをメチャメチャにつなぐから話がメチャメチャ。
今度は自分で、この絵の後にこの絵を持ってきたら、こんな感じになるぞって。それで編集を学ぶわけです。
 
その内、フィルムを持って遊ぶわけですね。『スターウォーズ』のあの剣みたいにね。男の子ですから、わきに差して、エイエイといって遊んでいて。お風呂でそんなことして遊んでると、フィルムの絵がとけちゃうんです。「おお、しめた。素通しのフィルムができた」っていうんで、今度はそれに自分で絵描くと、自分の描いた絵が動き出す。

さらにそのフィルムは父親が持ってるライカ判のフィルムと同じだから「そうか、あれで撮影したら映画撮れるんだ」。ライカ判のハーフサイズがフィルムなんですよ。
それでキャメラで1コマずつ撮影して、町の写真屋さん持ってって「これは写真じゃなくて活動写真だから切っちゃいかんよ」って言われてね、72コマでしたね。72コマっていうと普通の映画でも3秒の絵が撮れるんです、僕らのこれだと10秒ぐらいの映画になるんです。

ところがネガだから黒と白が逆なんですよ。それでメイクアップが分かるわけね。チョークで頭真っ白にして、顔真っ黒に塗って、チョークで眉描いて、そうすると反転して、つまり普通の顔になると。そうやって映画を全部、子ども部屋で僕覚えちゃったの。

8ミリで平和の時代の映画を作る

それは35ミリのフィルムだったんですよ、れっきとした。で、父親の8ミリをもらって「こんなおもちゃじゃしょうがないな」と思いつつも、35ミリのフィルムはどっか戦争の匂いがこびりついてるから、このおもちゃのような8ミリで平和の時代の映画を作るのが僕らの映画だろうと。
 
僕らは1960年代の青年ですよ。だから例えば寺山が俳人であるけれども芝居をやるみたいに、何でもやったんです。あいつは映画も作ったし。当時やり出した人間が生き残ってるやつは、今もその道のリーダーですわね。写真家にしろ、芝居にしろ、イラストレーターにしろ。横尾忠則なんかもすごい人だったし。

当時の僕らは今まで誰もやらなかったことをやる、誰かがやったことをやったら戦争につながると。戦争につながらないためには、日本人が過去にやらなかったことをやらなきゃいかん。
しかも、やる以上は人手が足りないから、みんな違うことをやろうよと。

だから8ミリも3人になったんです。僕と京都にいた高林陽一と今ニューヨークにいる飯村隆彦と3人ですけども。おんなじことはやらないのね。高林陽一は3分間のフィルムを1カットで撮ると。1カットって撮れないから、撮りながらゼンマイ巻いてね。飯村隆彦は汚いものばっかり撮ると。ゴミの中に美しさを発見してやろうと。これも、つまり戦争に対するアンチテーゼですよね。つまりそれまでの価値観をひっくり返す。汚いものは美しい。

あとの2人がそうやるんなら、僕はじゃあコマ撮りでやろうかと。カチャ、カチャとしか撮らないというね。つまり映画は連続して撮るから映画になるんだけど、それを1コマしか撮らないというのも、一つのアンチテーゼになるだろう。だからアンチテーゼであること、それから誰もやらないことをやること。それをやれることが自由であると。そしてその自由こそが平和の時代をつくると。そういう考え方ですよね。

デモ隊に「安保賛成、岸万歳」

その僕らの若者の考え方にフィットしたのが成城学園という。「成城学園の学生が安保に行ったら、もう日本は終わり」だと言われたぐらい、成城はノンポリだったんです。無関心じゃないの。これは安保世代にはなかなか通じないんだけど。僕らは安保世代のひと世代上なんですよ。それができるんなら戦争やめられてただろうと。戦争中に戦争やめられなかった連中が、敗戦後になって天皇陛下を「天ちゃん」と言って、安保を始めたわけですよ。ようやく自由になったから。不自由な内にやるのが闘争だろうと。自由になってやるのは何事だ、ってのが僕らにはあって。

安保騒動になった時、僕は渋谷のレストランにいました。当時学生がいつも行ってた安いレストラン。3階にいたのかな? 下をデモが通るんです。「安保反対、岸倒せ」と。するともうみんな立ち上がって「安保反対、岸倒せ」。
これ戦争と同じじゃないかと。ものの是非じゃなくて。みんながそうやる姿ってのは、僕たちは戦争中に見てるわけです。どっかおかしいぞと。戦争に行って殺された僕たちの愛すべきおじちゃんや兄ちゃんたちのような、少数者の側に僕たちは立たなきゃいけないんじゃないか、ということがあったので、あえてそこで「安保賛成、岸万歳」ってやってたわけね。
みんなに袋だたきにあいましたよ。でもそん時、僕たたかれながら「これが平和を作るんだ」と思ってましたがね。

アメリカの民主主義にも疑問

民主主義が多数決というのを持ち込んで、アメリカの民主主義多数決こそが平和を作るんだと。ドイツや日本は独裁者がいて独裁政治ができたんだという論理が、当時流行ってた時代だけれども。

そのアメリカの民主主義を最初に告発したのがチャップリンですよね。チャップリンが戦争に行って、100人1000人殺した人間はヒーローになるけど、自分の女房子どもを食わすために、1人2人の人間を殺した人間は犯罪者になると。「正義とは数が決めるものなのか」彼はその映画を作ったがためにアメリカをほっぽり出されてスイスに行っちゃうわけですけどね。
 
だから僕たちはアメリカ主導のそういう民主主義にも疑問を持っていて。つまり何が正しいのか、価値基準全くないんですよ。
一番信じられないのが日本の大人。「敵を倒せ」っていう映画ばっかり作って。敗戦が起きた途端に「みんな殺されるんなら」と僕ら子どもでも覚悟して、母親と短刀を前に置いて一晩過ごして「夜が明けたら、母親は僕を殺して自分も死ぬんだな」と思っていたのに、チョコレートにチューインガムのアメリカ兵が来た。

当時のGHQの占領政策なんです。アメリカ人が日本人の教育に映画を使ってしようという。『風と共に去りぬ』もできてたんだけど、これ日本の独立まで上映されたわけじゃないのね。なぜかというと奴隷制度が出るでしょ、アメリカという国に奴隷制度があることを精神年齢12歳の日本人に教えちゃいけんということで上映されなかった。

西部劇もちらほら上映されましたが「悪漢」は出てこない西部劇。アメリカは正義の国で悪漢はいませんと。時に間違ったやつがいても反省していい人になりますという、こんな映画。あとは明るく楽しいミュージカル。それからヒューマニズムたっぷりの映画。僕たちは見て「ああ、アメリカという国はなんと素晴らしい国か。こんな国と戦争した日本がバカだった」と。僕らの世代のアメリカ映画感はみんなそうですよ。GHQの申し子ね。見事に占領政策の、僕たちは申し子になっちゃった。
 
それはそれでいいとしても、大人たちが全部アメリカびいきになっちゃってね。日本に落ちた原爆を発電に変えるとか。戦争でも残っていた日本のまだ美しい山河をスクラップアンドビルドで壊しちゃうとか。高度成長期、バブル、日本人が日本人の手でもの壊しだして。

つまり僕らが世に出た頃は、つまり成城学園にいた頃は、日本の大人たちが今度は敗戦後にも残っていた日本のいいものを壊し始めたんですよ。これだけは許せないぞと。

敗戦少年世代の戦い

僕たちは、僕たちを「敗戦少年世代」と呼んでるんですがね。昭和10年から15年ぐらいがそうです。昭和10年といえば寺山修司がそうですがね。僕は13年。15年といやミッキー・カーチス。ミッキー・カーチスが『おれと戦争と音楽と』という自伝を出して「ミッキー、お前も戦争か」ったら、「俺から戦争を取っ払ったら俺がいなくなるもんね」って。

僕はだから町おこしならぬ「町守り」映画を作ろうと。古いしわだらけの町をこそ美しい、といってね。だから僕は尾道で15本映画を作りましたが、尾道では僕はもうアホ監督。「あんなきたねえ尾道を写しやがって」という。「尾道にはビルだってあるし、車だって走ってるのに、大林の映画は壊れた家と自転車しか写してない」、それが僕の評価だったし。そういうことの中で僕たちは生きてきてたんですよね。
 
そういう僕たちを育んでくれた時代にちょうど成城大学があった。
だからほんとにそこで我慢して、我慢して、苦労して、苦労して。トイレの屋根の上に1日中いるやつとかね。学校入ったからにゃ4年で卒業、就職した方がいいとみんなが思ってる時代に、あえて授業も受けないでピアノ弾いて。何の役にも立たない8ミリの機械で撮ってみるとかね。そういうことで何か平和を守る。

成城という学校がいかにね、自由だったか。「成城が安保にいったらもう日本は終わるよ」と言われたぐらいノンポリだったのは、単に政治に関心がないわけでも何でもなくて。つまりここはあえて少数者の側に立とうという思想ですよ。だから安保の是非を問うわけじゃない。多数と少数者の間の戦いに僕たちはいたわけね。
 
あのね、僕たちの世代って「正義」ってものを信じて無いんです。まず基本は。なぜなら僕たちは日本の正義を信じていたの。一方にアメリカ鬼畜米英の正義があったわけ。正義と正義が戦争して、結局勝った方の正義が正しくなる。これが戦争なんですよ。だから戦争は「狂気」なの。その狂気に対抗するには、正義じゃない「正気」なんだ。

正気の目で見ると、安保も狂気なの。その狂気は何かというと多数がわけも分からず集まって騒いでると。その部分はやっぱり正さなきゃいかん。そのためには試しにみんなが「安保反対、岸反対」と言うところに、でかい声で「安保は賛成、岸万歳」と言ったらどうなるか? 試してやろうじゃないかってのがね、どうせ戦争で一遍死んでるから怖くもなんともないし。あそこで殺されるのもここで殺されるのもおんなじだ。こっちの方がまだ殺されがいがあるか、みたいなことですから。
 
そういう気運の学生たちが成城学園には集まっていたと思わないと、今から思っても理解できない。
僕はシャー君と話したことはなかったし、トイレの上にいる彼を遠望するだけだったけど。彼の中にはきっとそういう同じ思いがあって「俺がトイレの屋根にいる限り、日本の平和は保てるぞ」と、そういう信念がきっとあったに違いない。先生方もそれを察知して。

だって成城ってドイツなんだから。アルト・ハイデルベルヒ。
つまり僕らが信じたドイツ文化がアメリカ文化にどんどんなっていくわけですよ。どうも成城学園ってところはドイツ文化を守ってたってところがあるね。
その時代の成城学園の混沌が、ああいうねじくれたような妙な自由な学生も受け入れて、妙に平衡感覚があって。当時僕らそういう学生と過ごした先生方も「あの当時の成城が一番面白かったな」と言われる。

だから成城こそは本当の意味での「正気の平和」を作り得る学校ですよ。
日本の敗戦後は、どうも文明とそれに伴う経済政策だけで復興してきて、文化が失われちゃった。そういう流れの中で、僕たちは文化だけを守っていこうということで生きてきた。その出発点のまさに文化の里が、成城学園の学び舎であったというね。

プロフィール
大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)
1938年1月9日生まれ。広島県尾道市出身。大学在学中より自主製作映画を手掛け、CMディレクターを経て、1977年『HOUSE』で商業映画監督デビュー。80年代に『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』の“尾道三部作”で人気を博し、斬新な映像技術を駆使して“映像の魔術師”と呼ばれる世界観を描出した。『異人たちとの夏』(1988)で毎日映画コンクール監督賞、『北京的西瓜』(1989)で山路ふみ子監督賞、『ふたり』(1991)でアメリカ・ファンタスティックサターン賞、『青春デンデケデケデケ』(1992)で平成4年度文化庁優秀映画作品賞、『SADA』でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞、『理由』(2004)で日本映画批評家大賞・監督賞、藤本賞奨励賞を受賞。著書多数。2004年に紫綬褒章、2009年に旭日小綬章を受章。2016年に肺がんで余命半年と宣告されるも『海辺の映画館 キネマの玉手箱』を製作。同作が新型コロナウィルスの影響で公開延期となるなか、2020年4月10日に肺がんのため逝去。82歳没。なお、同作は2020年7月に全国公開された。

「大林宣彦監督インタビュー」は今回で終了です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

文=sful取材チーム 写真=本多康司
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