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民研歳時記<第6回>柳田國男のはなし 前編

 昭和32年12月14日(~3月29日)は、柳田國男が、自伝連載「故郷七十年」のための口述記録を開始した日です。

 「故郷七十年」は、神戸新聞の朝刊で昭和33年1月9日から9月14日まで200回にわたって連載され、昭和34年11月に、のじぎく文庫より『故郷七十年』が出版されました。
 その後、昭和39年9月に出版された『定本柳田國男集』別巻三に収められる際、未発表の「故郷七十年拾遺」が追加され、柳田の人生や人となりを知ることのできる書物となっています。
 今回は、遅まきながら民俗学の創始者柳田國男について、ご紹介したいと思います。

はじめに

 とはいっても、柳田について書かれた文章は山ほどあり、本民俗学研究所のホームページでも、簡単に紹介を掲載しています(https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagita/intro/)。
 ですので、今回は、柳田の人生の中で指標となるテーマを取り上げることで、柳田について調べる際の足がかりとなるようにご紹介いたします。皆さんの興味がある分野と結びつけることができれば幸いです。

 なお、今回お話しする各テーマの中に興味のあるものがあったら、さらに詳しいことを知るためには、勉誠出版から発行されている『柳田國男事典』をひも解いていただけると、項目ごとにもっと詳しく調べることができます。また、参考文献などもまとめられているので、そこからさらに深く学習することができます。

幼少期

 柳田は、養子に入る前の元の名前を松岡國男といい、明治8年7月31日、現在の兵庫県福崎町に位置する辻川村に生れます。
 明治20年、12歳の時に故郷を離れ、兄の松岡鼎(かなえ)の住む茨城県の布川(現利根町)へと移り、明治26年には、布川から利根川の対岸にあたる布佐(現我孫子市)へ引越しました。
 その縁で、現在、福崎町や利根町には、柳田國男の記念館や記念公苑が設置されています。

 幼少期の柳田は、感性の鋭い子どもだったようで、様々な事件や不思議な出来事を記憶しており、それらの経験が、後の文学や民俗学の下地になっていることを自身も述べています。神隠しに遭いそうになった話や狐の話、晴れた昼の空に星を見て意識を失いかけた話など、『遠野物語』にもつながるような出来事が、「故郷七十年」で語られています。
 また、体が弱く、どちらかというと外で元気に走り回るという子どもではなかったようです。読書に浸り、辻川でも布川でも、膨大な数の書籍を読んでいます。このような逸話は、自身によって「故郷七十年」の中で述べられています。

青年期・文学時代

 青年期の柳田は、和歌に親しんだり詩を書いたりする文学青年として活動しており、親友であった田山花袋をはじめ、国木田独歩や島崎藤村など、文学者らと親しく交友しています。
 柳田は、兄井上通泰の勧めで桂園派の和歌の集まりに出席するようになりますが、松浦萩坪の門下となり、そこで田山花袋と出逢います。
 この時期の交友には、田山花袋の小説のモデルとされたり、柳田が愛知県の伊良湖岬で波間に打ち付けられた椰子の実を見て、それを島崎藤村に語ったところから、「椰子の実」の歌がつくられたといった、有名な逸話があります。

 しかし、二十歳の時に両親を相次いで亡くし、将来について深く考えるようになります。翌年、兄の世話で東京帝国大学法科大学政治学科に進学すると、経済学者の松崎蔵之助に師事し、農政学を学びはじめます。
 大学卒業後はそのまま農政の道へ就職し、その後民俗学の道へと進むことになりますが、抒情詩人としても知られた柳田は、青年時代を捧げた文学の世界とは決別することになります。

官僚時代

 柳田は、明治33年7月10日に東京帝国大学を卒業すると、農商務省に就職し農務局に勤務します。農業政策や産業組合に関心を向けるとともに、東京帝国大学大学院にも籍を置き学問も続けました。
 明治35年には、農商務省から内閣法制局の参事官に異動となりますが、農政への関心は失わず、その後も、農政・産業組合関係の講演や大学での講義なども行っています。

 柳田は、明治34年5月に信州飯田藩士の家柄の柳田直平と養子縁組を行ない、松岡國男から柳田國男となります。この縁で、現在は、飯田市美術博物館に柳田の自宅が移築され、柳田國男記念伊那民俗学研究所が設置されています。
 また3年後の明治37年、柳田は直平の四女孝と結婚します。

 官僚時代の柳田は、講演や視察のため、出張で全国各地を回っています。時には3か月にもわたる期間家を空けることもありました。
 (柳田は、これらの旅先から、家族に宛てて多くの絵はがきを送っています。その絵はがきを展示した特別展が、現在民俗学研究所で開催中です。「民俗学研究所特別展「柳田國男からの絵はがき」」12月22日まで)
 全国を旅してまわった柳田は、国の政策を全国一律に押し付けてもなかなかうまくいかないのは、地域それぞれの事情によることを強く感じます。地域の成り立ちや実情を知ることこそが、そこに住む人々の幸福につながると考え、興味を郷土研究(地域研究)へと移していきました。
 明治42・43年には、地域の人々の生き方を反映した、民俗学黎明(レイメイ:始まり)の書といわれる『後狩詞記』『遠野物語』などを出版しました。

朝日新聞記者時代

 明治の終わり頃になると、柳田は新渡戸稲造らと「郷土会」を創って郷土のことを本格的に研究しはじめます。
 また、『郷土研究』という雑誌を創刊し、自ら編集や執筆を行ないました。この『郷土研究』誌には、南方熊楠や、折口信夫、金田一京助といった、柳田の学問を支えた人々が集まっています。

 研究の進展の反面、上司である徳川家達との不和から、職場での立場が難しくなり、大正8年12月には貴族院書記官長という要職を辞して、退官することになります。
 退官後、朝日新聞社に記者にならないかと誘われ、大正9年7月に客員記者となります。「最初の三年間は内地と外地とを旅行させてもらいたい」という条件を受け入れられての入社でした。

 その後すぐ柳田は、東北旅行に出発します。遠野で佐々木喜善に会い、青森、秋田、山形をめぐって帰宅します。旅先から、紀行文「豆手帖から」を朝日新聞に連載しながらの二か月ほどの旅でした。
 10月からは、また中部地方を中心とした旅に出て「秋風帖」を連載します。そして、12月からは、「海南小記」の旅として知られる九州、沖縄の旅へと出るのでした。
 この旅で柳田は、伊良湖岬で椰子の実を見て以来思い描いていた、南方からの潮の流れに沿った人と文化の移動という壮大なスケールの文化史論に取り組み始めます。南島(沖縄)研究については次回お話したいと思います。

国際連盟委任統治委員と海外周遊

 「海南小記」の旅の途中、柳田に、国際連盟の委員として、本部のあるジュネーブに行ってくれないかという打診が来ます。「仕事」で海外に行くのは本意ではなかったため、柳田は渋りますが、新渡戸稲造が国際連盟の事務総長をしていたことなどもあり引き受けることになりました。
 大正10年5月9日に、船で日本を出発すると、アメリカ経由でジュネーブに向かいます。一年目に一度日本に帰り家族で年を越しますが、二年目はヨーロッパに留まり大正12年の秋まで海外で過ごします。
 海外では、仕事の合間にヨーロッパ各地を見て回り、様々な海外の知識を吸収したのでした。
 柳田の船旅は、一度目の帰りはインド洋経由で、二度目の行きはアジア経由、帰りはアメリカ経由と、航路を違えています。柳田は、外出にあたって、意図的に行きと帰りで異なった道を選んでいたといいます。より多くのものを見たいという知識欲のなせるわざでした。

 大正12年9月5日、柳田はロンドンで関東大震災の報を聞きます。
ジュネーブから慌てて帰国した柳田は、日本の「ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持ちになり、早速こちらから運動をおこして、本筋の学問のために起つという決心をした」と述べ、本格的に民俗学研究へと向かうのでした。


 長くなりそうですので、今回はこの辺りでいったん終えたいと思います。
 次回は、日本人のルーツを探る「南島研究」(沖縄研究)をはじめとした柳田の様々な研究テーマを紹介したいと思います。


参考になる文献

・「故郷七十年」
  『故郷七十年』のじぎく文庫 昭和34年
  『定本柳田國男集』別巻3 筑摩書房 昭和39年
  『柳田國男全集』21巻 筑摩書房 平成9年
 『神戸新聞』掲載のものと「のじぎく文庫」版、『定本柳田國男集』版、その他のもので、それぞれ収録内容に差異があります。そのあたりの詳細については、『柳田國男全集』21巻の「解題」をご参照ください。
・『柳田國男事典』勉誠出版 平成10年

<後編につづく>


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