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民研歳時記<第7回>柳田國男のはなし 後編

 大正10年1月5日は、柳田國男が、「海南小記」の旅で、初めて沖縄の地を踏んだ日です。

 この旅は、島崎藤村とのエピソードで有名な、伊良湖岬で波間に打ち寄せる椰子の実を見た明治31年から、柳田最晩年の昭和36年に刊行された『海上の道』へ至るまで、柳田が一貫して持ち続けた、海流によって南方から海を渡ってきたという日本人の起源論を大きく展開させることになる旅でした。

 「柳田國男のはなし」後編となる今回は、南島研究をはじめとする柳田の研究テーマや学術活動について紹介していきたいと思います。

「柳田國男のはなし」前編はこちら

民間伝承の学、その研究方法

 まず、柳田の学術活動についてお話しして、その後に代表的な研究テーマについて簡単に紹介していきます。
 「民研歳時記」で何度か紹介しているように、柳田の学問の中心となるのは「伝承」という概念です(<第1回>民俗学の話はじめます 参照)。
 様々な土地で、この伝承をすくい取って記録し、比較するのが柳田の学問「民間伝承の学」です。
 その方法には、実際にその地域を訪れて、見たり土地の人に聞いたりしたことを記録するという方法(①)と、土地の人自身に、自分たちの生活のことを書きとめてもらうという方法(②)があります。
 「民間伝承の学」は、柳田が一から創り上げたものですので、理論にしても方法にしても、手探りで様々なことを試しながら形を作っていきました。 
 いろいろな学問の専門家が一緒に村に訪れ、数日間をかけて村のことを調べるという共同調査を試みたこともあります。「民研歳時記」<第2回>にも紹介した、新渡戸稲造らと行なった神奈川県津久井郡の「内郷村調査」は、日本で初めてといわれる合同村落調査です。

 ①の方法を整えるために柳田の行なったのが、「採集手帖」というものを利用した共同調査でした。
 これは、昭和9年から取り組んだ「山村調査」「海村調査」と呼ばれる共同調査で、全国各地の山村、海村を、数十名の研究者で一斉に調査し、村々を比較するというものでした。
 その調査に用いられたのが「採集手帖」です。
 この手帖は、見開きの片方のページに一つの質問事項が印刷されており、反対のページは白紙になっています。質問はちょうど100項目あり、村々でこの質問について聞き、白紙のページに書き込むようにできています。
 これを一項目ずつ切り分けて、今度は項目ごとに全国の地域を並べてみて、それぞれの地域の比較を試みたのです。

 この採集手帖は、毎年、内容が加筆修正されました。ここで整えられた100項目が、地域調査で「調べるべきこと」の基本とされたのでした。

民俗学界の組織化

 共同研究のためには、もっともっと多くの人間に参加してもらうことが重要でした。とくに地方の研究者、②の方法を実践してくれる人を育てることが、柳田の学問では重要視されています。
 インターネットもない時代のことですので、柳田は、出版活動という形で、日本全国の情報交換とネットワークづくりを行いました。
 『郷土研究』や『民族』『民間伝承』などの雑誌を刊行して、その中で、全国の研究者から情報を寄せてもらえるようなコーナーを作り、紙面で交流ができるように工夫しました。

 紙面上での交流にとどまらず、良い研究者がいると、柳田は手紙を出して、直接やり取りをしています。
 地域の埋もれた研究成果や研究者を発掘するために、柳田の行なったのが、叢書の出版事業です。良い研究者に目をつけると、研究成果を本にして出版しないかと勧めました。「甲寅叢書(こういんそうしょ)」や「炉辺叢書(ろへんそうしょ)」というシリーズ本を作り、日本各地の研究者の研究成果を世に送り出しました。
 出版費用を柳田が自分で負担することもあったほどの、熱の入れようでした。

 このような活動を通じて、地方の研究者も育ち始めます。
 そして、昭和10年、柳田の還暦祝いに、日本全国各都道府県から研究者を集め、約一週間にわたって行われたのが「日本民俗学講習会」です。
 この会の席上で、現在の「日本民俗学会」の前身となる「民間伝承の会」が発足し、全国の研究者が会員となりました。
 「日本民俗学講習会」の出席者は、自身の住む地域に帰ると、地域の中心となって学術組織をつくって活動するようになります。日本各地に地方民俗学会ができ、民俗学の学界が形成されていくことになりました。

「柳田國男の学問」

 このような形で民俗学は整えられてきました。
 蛇足ですが、「民研歳時記」では、柳田の作った学問のことを「民俗学」とは書かず「柳田國男の学問」「民間伝承の学」等と回りくどい書き方をしています。少し複雑な話になりますが、柳田は自身の学問を「民俗学」と呼ぶ事には少し距離をとっていました。
 折口信夫ら若手研究者たちが「民間伝承の会」の名称をより学術団体らしい「日本民俗学会」に改称したいと申し出た際には、「民間伝承の会を自分がどんな思いで育ててきたか、君なんかに僕の気持ちが分かってたまるか」と声を荒げたといいます。(鎌田久子「蓑笠—さゝやかな昔」『民俗的世界の探究—かみ・ほとけ・むら—』慶友社 平成8年)
 柳田が生涯をかけて進めてきた「民間伝承の学」は、まだ発展途上であり、一つの学問体系としての「民俗学」の形がまだしっかり固まっていないということが大きな理由でしたが、自分の育てた学問が、手を離れて独り歩きしていくことに、一抹の寂しさを感じていたのかもしれません。
 柳田自身の書いたものの中でも、「民俗学」「民族学」の指す内容は、書いているもの、書いた時期によって一定していません。柳田の中でのある程度の定義はありつつも、日本の「民俗学」がどのような形になるのか、これからの学問だと思っていたのではないでしょうか。
 とはいえ、現代の私たちは、「民俗学」という学問を専門としていますので、柳田の行なっていた学問を特に「民間伝承の学」といった書き方をしています。

妖怪の研究

 閑話休題しまして、柳田の研究テーマについて紹介していきます。
 まず、民俗学を良くも悪くも印象付けているのが、妖怪の研究だと思います。
 柳田自身、妖怪話のような不思議な話には幼少期から興味があり、『遠野物語』を執筆する以前にも、田山花袋と一緒に、不思議な話を掲載した文献を集めた『近世奇談全集』という書物を編んでいます。
 昭和31年に発行された『妖怪談義』は、柳田の妖怪研究の集大成であり、誰ぞ彼(たそがれ)時に行き合う正体不明の他人に妖怪を見る心情や、土地に付く妖怪と人に付く幽霊といった分析、水木しげるなどにも利用されている「妖怪名彙」など、興味深い論考が多数収められていて、柳田國男の入門書としても取り組みやすい一冊です。

 柳田の妖怪研究の真意は、収録論文「妖怪談義」の一章に書かれている下記の文章に明らかです。
 「無いにも有るにもそんな事は実はもう問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困って居るだけである。」
 妖怪が存在するとか偽物だとかいう議論をするのが目的ではなく、妖怪がもしかしたらいるかもしれないと少しでも思ってしまう、我々日本人の心意を解明したいというのが柳田の目的です。
 なかなか馬鹿に出来ないのが、21世紀の現代、UFOや怪奇現象、都市伝説、陰謀論など、いまだに娯楽として人気を博しています。娯楽だけならばまだしも、それらを頭から妄信して、生活を変えたり、事件を起こす人さえもいます。
 そういった考え方の背景となる、人間の性質に迫ろうとしたのが、柳田の妖怪研究です。

昔話・伝説の研究

「民研歳時記」<第5回>でもお話ししましたが、柳田の「話」の研究は妖怪話に限りません。昔話や伝説もその対象でした。
 柳田は、昔話や伝説などの話が、話される土地や時代を超えて、一定の形式をもつことに注目しました。遠く離れた二つの土地で、なぜ似たような話が語られているのか、一つの話が伝わったのだとすれば、その伝承経路が存在するはずです。また、全く関係ない地域にある二つの話が、同じような形式を持っているとすれば、人類に共通する何らかの要素が影響している可能性も出てきます。
 このような話の分析は、グリム兄弟のグリム童話で有名なドイツなどでも古くから研究されており、柳田もそういった研究成果を読んでいます。
 また、民俗学に特徴的なものとして、一つの話が色々な地域に伝わるにあたって、様々なバリエーションが生まれ話に差異が出てきますが、この差異をもとに土地の生活を考えることもありました。海を舞台とした昔話が、海の無い地域では、海の代わりに滝壺などを舞台とするように、昔話は話す人や聞く人の好みに合わせて姿かたちが変わっていきます。
 これらの差異を生み出す要因は何なのかといったことを明らかにすることも、口承文芸研究で行われてきましたが、娯楽の画一化が進んだ現代では、こういった研究はなかなか難しいかもしれません。

民俗語彙の研究

 柳田は、「話」とは別に「ことば」そのものにも注目しました。方言といった方が分かりやすいかもしれませんが、各地の人々の話す「民俗語彙」を集め、辞書や索引を作るのにも力を入れています。
 『柳田國男全集』などには収録されていないので、あまり知られていないかもしれませんが、柳田は、『山村語彙』や『婚姻習俗語彙』『服装習俗語彙』『分類児童語彙』といったように、テーマごとにことばを集めて分類し、解説をした本を数多く出版しています。
 これらは、柳田が日本中の研究者と共同で民間伝承の学を行なうためのツールの一つでした。
 地域の調査をするにあたって、都会から出かけて行った研究者は、土地の人に聞き書きを行ないますが、質問のための指標となるのが「ことば」です。たとえば、

 「通り神に会ったということはありませんか。ユキアイ、カミアイ等といって神や悪霊にあって病気をしたということは聞きませんか。」

 という質問をして、

「人の行き倒れて死んだところにダリがつくといっている。ダリとはヒダルガミのことである。」

 という答えが返ってきたとすると、このユキアイ、カミアイ、ダリ、ヒダルガミといったものが民俗語彙です。こういう言葉を多く知識として知っていれば、土地の人との話もスムーズに進められるし、他の地域の同じようなことばや事象と結びつけて理解することができます。

子どもと教育

 柳田の語彙集の中には『分類児童語彙』というものもありますが、これは子どもの遊びなどをその呼び名である語彙をもとに、数多く分類して掲載したものです。手に取ってみていただくと分かりますが、さながら遊びの事典といった本になっています。
 柳田は、子どもは大人のまねをするものであると考えていました。子どもの遊びには、大人が行なっている行為や生活が色濃く反映されているとして、大人がもう行わなくなってしまった、かつての遊びや宗教儀礼などが、子どもの遊びの中に残っている可能性を考え、遊びの研究などもしています。
 たとえば、柳田は、真ん中に一人が座ってその周りを皆がかこってぐるぐる回る「かごめかごめ」などは、もとは真ん中の宗教者が神の託宣を述べる形の宗教儀礼だったのではないかと論じています。

 地域社会の中での子どもの役割もまた重要で、お祭りなどでは、子どもは神さまの役目を果たすことが多々あります。
 子供は、大人よりも神様に近い存在として、村落社会で大切にされており、柳田もそこに注目したのでした。
 また、柳田は、児童教育にも熱心でした。子ども向けの読み物を出版するだけでなく、自身の教育に対する考えをもとに、国語と社会科の教科書作成もしています。このうち国語教科書は昭和25年度から東京書籍で発行され、10年以上用いられることになりました。
 また、社会科では成城学園の社会科教員と毎週の社会科研究会を行なって開発されています。

民間信仰、日本人のアイデンティティ

 さて、話題を少し変えまして、民俗学から連想されるいま一つのイメージには、ふるさとや郷土愛、日本人の源流といったものがあるように思います。
 柳田の学問は本来、古き良き日本といったようなことばよりは、「何故に農民は貧なりや」(『郷土生活の研究法』定本柳田國男集25巻)という目の前の問題に対処するための学問でした。
 柳田が力を入れたのは、失われていく生活や生き方に目を向けたものであり、上記のようなイメージが付いていくことになったのもうなずけます。
 けれども、柳田は、失われるものをなにもかも良いものと考えたわけではありません。今の自分たちの生活に繋がっている過去がどのようなものであったのかをしっかり記録にとどめ、失敗や不幸があれば、その反省材料とすることが大切だと考えていたのです。
 民俗学が「内省の学問」といわれるゆえんです。

 日本人の宗教観念や精神性といったものも、民俗学に興味をもった方に好まれる話題かもしれません。
 柳田の信仰・宗教研究は、宗教の教義などの研究ではなく、一般の人々が、宗教をどのように受入れ、また、宗教とどのように向き合って生活しているのかというものでした。また、様々な宗教を受容する根底にある日本人の考え方や心の持ち方、日本人の信仰心の底流にあるものが何なのかということにも興味を抱いていました。
 柳田の信仰論で最も人々に影響を与えたのは、第二次世界大戦末期に書かれた『先祖の話』かと思います。家の永続を中心に据え、ご先祖様を祀ることで「祖霊」として家を守ってくれるという祖霊信仰論は、「氏神信仰」とともに、柳田の信仰論の中核となっています。
 この『先祖の話』は、戦争によって、今までの家族の形が大きく崩れることを余儀なくされた日本と、兵士として出征し若くして亡くなっていった人々の霊を慰めるため書かれたという背景を持っています。

 また戦後柳田は、敗戦と連合国の統治の影響によって揺さぶられた日本人の、アイデンティティの拠り所を見出すため、「新国学談」と呼ばれる三部作『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』なども作成しました。
 柳田のこのような執筆活動から、民俗学に上記のようなイメージが付くのも仕方のないことかもしれませんね。

日本人の源流・南島研究

 自分が死んだら、小高い丘の上からみんなの生活の進んでいく様子を眺めていたいと言っていた柳田の遺言は、たった二つでした。一つは、蔵書の一切を成城大学に遺贈するので、研究者へ公開して欲しいということ。もう一つは、沖縄の研究を続けて欲しいというものでした。
 はじめに述べたように、柳田は沖縄(南島)を日本人の源流をたどるために最も重視していました。
 離島や交通の不便な土地は他の地域からの新しい文化の影響を受けにくく、より古い時代の生活が残されているのではないかと期待した柳田は、南島こそが、「民俗学」の最も力を入れるべきフィールドだと考えていたのです。
 南島においても研究者の発掘に努め、伊波普猷をはじめとする様々な南島研究者と交友しました。
 しかし、第二次世界大戦において、沖縄は、完膚なきまでに破壊し尽くされ、歴史の痕跡も大部分が失われてしまいます。
 文化人としての柳田は、少しでも沖縄の力になるために、沖縄の文化振興に惜しみない力を寄せ、沖縄復興と、歴史の発掘・保存に尽力しました。

 最後の著作となった『海上の道』では、日本人の先祖が、島から島へ移住してきたという壮大な仮説の提唱を試みます。この人々が、稲を携えて、日本列島までたどり着くという黒潮の道を想像しました。
 また、日本人の他界観の源流を南島の人々に見出し、「根の国」やニライカナイといった、南島の他界観を詳しく論じています。
 そして、自分が死んだ後も、民間伝承の学・民俗学が発展することを祈り、沖縄研究の進展を遺言としたのでした。

 柳田の蔵書「柳田文庫」に収められた沖縄関係書籍には、特別に「南島文献」という名前が付けています。それほどに、柳田は沖縄・南島研究に期待をしていました。
 現在の民俗学では、沖縄・南島研究はあまり活発に行われておりませんが、研究され尽くしたというわけでもありません。
 今後の民俗学の道に進む皆さんが、沖縄・南島研究に取り組み、「民俗学といえば南島研究」とイメージされる日が来ることを期待したいと思います。

 だいぶ長くなってしまいましたが、柳田の研究は今回取り上げられなかったものも数多く、まだまだ多岐にわたりますし、それぞれのテーマについても、ほとんどかじった程度にも紹介できていないので、言葉足らずや誤解を招くことにもなってしまっているかもしれません。それぞれのテーマの全容については、また改めて紹介する機会が持てたらと思います。
 興味のあるテーマについては、是非、全集や、『柳田國男事典』などで勉強してみて下さい。

参考になる文献

・『定本柳田國男集』 筑摩書房 昭和37年-46年
・『柳田國男全集』 筑摩書房 平成9年-刊行中
・『柳田國男事典』勉誠出版 平成10年

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