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第3回 東宝撮影所よもやま話

 前号で話に出た東宝撮影所。今では東宝スタジオと名を変え、レンタル・スタジオとして稼働していますが、そもそも前身のP.C.L.も、映画製作会社にトーキー(発声映画)の撮影と録音技術を提供し、ステージも丸ごと貸し出すという〝貸しスタジオ〟のような会社でした。

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 映画製作や興行などには決して関わらない、という健全な(?)〝社是〟を持っていた当社が、〝水商売〟である映画作りに手を染めるようになったのは、顧客の日活(日本活動寫眞株式会社)が突然、契約破棄を申し出てきたことによります。別の録音システムに鞍替えした日活は、結局、戦時統制により製作部門が新興会社の大映(大日本映画製作株式会社)に移管されてしまいますが、当P.C.L.はピー・シー・エル映画製作所と名を変え、やがて東京宝塚の資本も加えて、製作・配給・興行のすべてを担う会社・東宝に発展していきます。現在、スタジオ入り口に小林一三の銅像が鎮座しているのはそのためですが、真の初代社長は植村泰二ですので、念のため。
 戦時は軍部と結託し、戦意高揚映画を量産した東宝ですが、これにより最新の機材やフィルムを備えることができたのは紛れもない事実。円谷英二による特殊技術が、のちの『ゴジラ』に結実するのもご存じのとおりです。初代ゴジラの着ぐるみが最初のP.C.L.施設(現在のコモレビ成城)で作られ、リヤカーで撮影所に運ばれていたことも知る人ぞ知る話。重役の増谷麟邸に、のちにソニーを創立する井深大(当時はP.C.L.勤務)が下宿していたことも、もの凄い因縁と言わざるを得ません。ついでに言えば、植村邸はP.C.L.と道を挟んだ隣地にあった増谷邸の南に位置し、のちにこの邸宅には詩人の西條八十が住み、ここで亡くなっています。

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 戦後は、植村泰二、森岩雄、円谷英二などが公職追放の憂き目に遭い、労働争議の嵐に見舞われた東宝。鎮圧のため、米軍の戦車までもがやってきた話はよく知られています。東宝までは現在のバイパス道ではなく、今もある旧道(サミット前の坂道)を通って、渋谷から東横電鉄のバスが来ていたそうですが、スタッフの多くは祖師ヶ谷大蔵駅から通っており、現在のウルトラマン商店街は、東宝通りと呼ばれていました。黒澤映画の音楽家・早坂文雄の家もこの通りのすぐ傍(砧六丁目27)にあり、隣地にはのちに有馬稲子や成瀬己喜男、結髪の中尾さかゑが居を構えます。大林宣彦監督が学生時代に住んだ新樹荘もこの通りの横手にありました。戦中、黒澤明が下宿していた堀川弘通の実家も祖師谷(現在の一丁目10)にあり、黒澤がこの通りを歩いて撮影所に通っていたことは自伝『蝦蟇の油』にも書かれています。
 東宝争議で辞めていった者たちが作ったのが新東宝という会社です。ここは、戦時中は映画科学研究所という名の第2撮影所で、『ハワイ・マレー沖海戦』の真珠湾のセットはここに作られました(フィルムもここに埋められたので、完全な形で残った)。丘の上方にあったことから「上(うえ)の撮影所」と呼ばれ、新東宝が倒産すると国際放映(現在の東京メディアシティ)と日大商学部になります。ちなみに、現在のオークラランドは東宝の第3撮影所(のちに新東宝第2撮影所)でした。
 さて、撮影所北端にあった住宅展示場は、今やマンションに変貌中。当所はP.C.L.以来のオープンセット用地で、『酔いどれ天使』の闇市やどぶ池もここに作られました。その後、〝東宝銀座〟と呼ばれたパーマネント銀座セットや特撮用の大プールが設置されるなど、東宝にとっては由緒ある場所と言えるでしょう。『天国と地獄』では銀座が伊勢佐木町となり、プールではモスラやキングコングが南洋に帰るシーンのほか、ミッドウェイ海戦シーンなども撮影。現在、くろがねやとなっている東宝ボウルの辺りには、『七人の侍』の豪農の家と野武士の山塞が作られたほか、段差のある地形を巧く利用して『どん底』の長屋も建てられています。

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※『砧』810号(2020年10月発行)より転載

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。