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学校劇にかける教員たちの情熱の歴史

成城学園初等学校の特徴的な行事に「劇の会」があります。いわゆる学校劇の上演です。2014年に発行した『sful』Vol. 4で「劇の会」を特集したとき、取材チームはその本格的な取り組みに驚いたのを今でも覚えています。例えば、7月11月3月と年度内に3回開催されること、劇の上演に適した講堂があること、担任だけではなく音楽や美術、舞踊を専門とする教員たちが協力しながら劇を完成させていくこと――など。こうした環境で劇に取り組めるからでしょう、演技に打ち込む子どもたちの一生懸命な姿も印象的でした。
なぜ成城学園でここまで学校劇が発展したのか、その歴史をご紹介します。

学校劇研究会第1回発表(1932)。劇「クリスマスおめでとう」(『成城学園70年の歩み』)

学校劇は成城学園初等学校が発祥といわれています。劇は総合芸術、つまり音楽、美術、身体表現のすべてが必要であり、それらをバランスよく集合させることで完成します。
成城の学校劇の発展には、多くの立役者の存在がありました。2代目の成城小学校校長・小原國芳は、子どもの言葉で子どもの生活に密着した劇、できれば子ども自身の創作になるものを、という理念を説いていました。それを実現したのが、教諭の斎田喬です。美術を専門としていた斎田は多くの脚本を著し後進を育成、児童劇の始祖といわれています。

 1917(大正6)年に成城小学校が創設されて4年後、1921(大正10)年に第1回成城学校劇発表会が行われました。場所は当時、成城小学校が校舎を利用していた成城中学校の雨天体操場です。体操場に舞台を組み立て、ゴザを敷き、天井の梁から緞帳をたらし、舞台の奥にはふすま風のついたてを立てて背景としました。むろん照明はなく簡素な仕上げですが、この舞台で6つの劇が上演され、そのうち5つは創作劇だということから、新たな学校劇を創ろうとする斎田や教員たちの意気込みが伝わってきます。

 その後も成城学園の劇は発展を続けます。1953(昭和28)年5月に、第1回「劇と舞踊の会」が開催されました。1981(昭和56)年10月には初等学校に講堂が完成し、舞台での表現の幅が広がり、ますます活動が盛んになります。

学校劇における演技のリアリズム

斎田喬作「すずめのお医者」仁寿講堂にて(『成城学園六十年』)

斎田が指導した一人に俳優・森雅之がいます。本名は有島行光、小説家の有島武郎を父に持ち、溝口健二監督作『雨月物語』や黒澤明監督作『羅生門』、成瀬巳喜男監督作『浮雲』など多くの名作に出演したことで知られています。
小学4年の時、成城小学校に編入した森は、斎田の指導を受けることになります。「すずめのお医者」という劇で、森は雀のお医者役を当てられました。この役はどちらかと言えばわき役で、森も「のんびりかまえていた」そうです。
この時のエピソードを斎田自身の文章でご紹介します。森が主役の子雀に両手で水をすくって飲ませる場面でのやりとりです。

そのころ学校は学校劇でもりあがっていました。それで私の作品の「すずめのお医者」のときなんか、有島(編集部注:森雅之)にも役がついたんです。そいで有島がチュウ三郎とかいうのになって、水を持ってきて、チュウ三郎が倒れたチュウ吉に水を飲ませる。そのときに手に水を入れて持ってきて飲ますのに、手が開いてしまっているんですよね。そのときにぼくは「有島、手」と言ったんですよ。そうしたら開いた手をハッと合わせて水がいっぱい入っているようにして飲ませて、しかも手を振ってズボンで手をふくような演技をやったわけなんですよ。それが彼の演技のリアリズムの最初だった。成城学校劇のリアリズムの実例と思うんです。

(『成城・悪童物語―牛込時代―』成城学園沢柳研究会)
(注:明らかな間違いなどは編集部で修正)

一言、「手」と指摘した斎田と、それに対して予想以上の演技で応えた森。このエピソードはもちろん指導者が斎田で、相手が当時から演技の才能がある森だったこともありますが、人々の想いや行動に至るまでの感情の流れ、物語の面白さを学校劇を通じて学んでいく中で、こうした化学変化がいつの時代でも見られていたのではないでしょうか。
本番に向けて練習を積み重ねていく中で、子どもたちは先生や仲間たちとの信頼を強くし、思い思いの表現を模索しながら成長していきます。

2022年11月に開催された「劇の会」の模様はこちら

参考文献
「成城・学校劇六十年」北島春信 (成城学校初等学校発行)
「成城・悪童物語―牛込時代―」 (成城学園沢柳研究会)

文=sful取材チーム 写真=成城学園
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