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神事から見世物へ変わりゆく日本の祭

祭といえばにぎやかな行事という印象がありますが、元々は神と対峙する厳粛な儀式でした。「まつる」の語源は「まつらう(まつろう)」であり、「お側にいる」という意味がある、と柳田國男は書いています(『日本の祭』)。超自然的な力を持つ神霊を迎えてお仕えすること、それが祭の本来の意味であったと柳田は説いたのです。

人間が災厄から逃れ、つつがなく暮らしていくためには、神の力を頼らなければならない。とはいえ、神は制御不能で計り知れない力を持つ存在ですから、丁重に扱わないと危険です。そこで、人々は供物や歌舞を捧げて神をもてなし、慰撫しようと考えました。
また、祭の前夜には皆でおこもりをし、精進潔斎して身を清めるのが常でした。元々の祭は、現代とはまったく異なる、緊張感にあふれた儀式だったのです。

では、何が日本の祭を変えたのか。それは「見物と称する群れの発生」であった、と柳田は指摘します。信仰をする人々が儀式を行っていると、外から見物に来る人々が現れた。すると、儀式は見物を意識したものに変わり、神輿の巡幸は見世物としての性格を強めていきました。山や鉾、山車、だんじりなども元々は神を依りつかせるための装置でしたが、華やかな飾りやお囃子がつけられ、一種のエンタテインメントとして発展します。人々が浮かれ楽しむにぎやかな祭が、江戸時代には全国に広まっていくのです。

柳田國男『日本の祭』(角川ソフィア文庫)。日本民俗学の創始者である柳田が全国に伝わる神事や祭礼を通して、祭の原初の姿とその後の変化を解説している。

江戸時代の神田祭は「山車の祭」だった

例えば、京都の祇園祭は、疫病神をなだめて洛外に追いやるための祭だったといわれています。祇園祭の山鉾も、元々は神を依りつかせるための装置だったと考えられていますが、時代が下るにつれて、「見物客をいかに驚かせるか」が競われ、派手に壮大になっていきます。

東京の神田祭も、今は神輿※1の宮入で有名ですが、江戸時代は山車※2が祭の主役でした。明治になり電線が張り巡らされ、山車が通行できなくなったために、現在のような神輿中心の祭になったのです。

このように、祭は時代とともにその姿を変えてきました。機会があれば祭を見物として楽しむだけでなく、祭の運営にも参加してみてください。祭への理解もいっそう深まり、まったく違った祭の姿が見えてくると思います。

※ 1  遷宮や祭礼の際に、神体が神殿に渡る際に乗る乗り物のこと
※ 2 後に祭礼の山や鉾、屋台などの総称として用いられるようになるが、「山車」の語はもとは江戸の方言と考えられる

この記事を担当したのは・・・
文芸学部文化史学科 俵木 悟 教授

この記事は『sful成城だより』vol.18 から転載しています。
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