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アンデルセン「絵の無い絵本」からできたお話

昨日の記事(一応小説と思っている)はひどいものでした。

自分でゼロから書いたのは最初のところだけです。他は他の記事のアレンジのみです。なぜそうしてみたのかと言いますと、アンデルセンの「絵の無い絵本」を読んで考えていたせいです。

この「絵の無い絵本」は昔、むかしのその昔に読んでいました。小学生の頃です。その当時はどこの家にも子供向けの世界文学全集のような本が買ってあったのです。私の親はそう高学歴ではなかったので子供にはできるだけ不自由の無いようにと考えていました。

社会の構造がだんだんとサラリーマン主体になってきて高学歴が有利な時代が訪れました。そうなりますと、働けば働くほどお金は入りますが、どうしても手に入らないのは高学歴ステータスです。つまり我が両親にはそうしたコンプレックスが芽生えたのでしょう。その思いは子に向かいました。

早い話が、それにつけ込まれて高い全集本なんかを買わされていたわけです。ちゃんと考えれば全集に収録されるような一般的なお話は学校でも町のでも図書館に行けばいくらでもあるわけですけれども。もったいない。

そして、もう1つもったいないが重なります。子供は、そんな本が家にあってもほとんど読まないのです。私もほとんど読みませんでした。ただ1つ、この「絵の無い絵本」を除いては。

私は全集の中の「絵の無い絵本」だけを時々読んでいました。でも、読んでいると必ず眠くなってしまって、最初から最後まで読めた記憶がありません。それなのなぜか時々取り出して読みました。眠ってしまって相当に長い長いお話かとつい最近まで思っていましたが、とても短くて驚きました。


「絵の無い絵本」は、おかしな書き方をされているお話です。

月が画家に見てきた事を語るだけです。そのお話を画家が絵にすれば良い絵が描けるよという事ですが。お話は月の語りしかありません。月は、当たり前ですけれど、上から見ているだけで下にいる登場人物には何の影響も与えません。究極の3人称視点です。

そして、語るのは月ですから、(ここが素晴らしく面白い) 時間と空間が自由自在です。ある登場人物の子供の頃を言った次の瞬間に大人になってからが出てきます。あっちの場所とこっちの場所も瞬間移動のように語られます。

自由度が恐ろしく高いのです。月の主体性はその時間と場所を選ぶだけに発揮されています。ですから、月自身にはストーリーは作れません。誰かが喜ぶ場面もありますが、無駄に死んでいく事もあります。ハッピーエンドに持ち込む事ができませんから見ているだけです。

こうした自由度が小説に欲しいと思うわけです。見て、語って、構成して、そこに喜びや悲しみがある、それだけです。こんなアイデア、普通にしていては思い付く事は、少なくとも私にはできません。


昨日の「ナイチンゲール・・・」では最初のところを1人称にしてしまいましたが、あそこも何らかの方法でコラージュのようにしたい気がします。課題です。

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