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有るものを無いとして成立する美への違和感(小説ネタ)

 昨日の続きです。下書きの「バスの中で」の位置付けをどうするか、1日考えました。と言っても今日は衆議院選挙の在外投票に行っていたので電車に乗って動きながら考えていて、実のところ何も書いてはいません。ですから、以下は頭の中で考えただけのものです。

 昨日の記事

 バスの中で(下書き)の記事 ※18禁ですので不快に感じられる方はクリックしないでください。

 主人公の女性にこんな意味の事を言わせようかと考えました。相手の男への告白です。「私、自分のあそこの形、醜いと感じているの。」(言い回しは別に考えます。) つまり、自分自身の女性器の形についてです。まずは、この女性は成長過程のいつかの段階で自分のそこを見て、その形が美しくないように感じます。

 その事はその後、誰かが解決してくれる機会はありませんでした。学校等ではその機能について、生理的な仕組みについて教えてはもらいますが、形の問題には触れられません。その点については答え合わせは無いのです。

 そして、ある時に気付きます。雑誌に載る女性の写真等、女性を使って表現される芸術作品は、仮に女性器が無かったとしても成立するものだという事に。女性を題材にした美の表現の中に女性器は必要ありません。そこは完全に隠された状態での美が求められ、そして表現されています。

 そうなると、自分の心の中で燻っているあの形の問題は宙吊りになったまま残ってしまいます。身体の他の部分とは違っているし、隠されていて、醜いのです。そこは身体が裂けていて内臓が見えてしまっているように思えます。

 さて、そこで、例えばインドの古代の彫刻を見ますと、女性器は身体の他の部分とは区別されておらず、有るものがそのまま有るものとして表現され、成立しています。対して現代の美の中にそれはありません。故に、現代に生きている女性主人公は引き裂かれていた事を認識します。

 つまり、有るものを無いとして成立している美や生活に人は違和感を感じているのですが、現在の環境が正常であると認識してしまっている為に気付けないのです。


 実際の文章はこの後考えます。今日はここまで。

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