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革命神話について

 日本は保守的な国であるというステレオタイプがある。住んでいる身としてはそれほどには感じられず、どこの国にも右翼はいるものだとも思うが、それでも「日本では極右的な言説が根強くメインストリームに残り続けている」と指摘されれば否定しきれない気もする。これは一体なぜなのだろう。
 この疑問に辻褄の合う回答を与えるためには、現代の日本が誕生した歴史的な経緯を振り返ってみればよいのではないかと思う。

 われわれは現代に生きている。現代という言葉を狭義に捉えればまさにこの今年が現代であり、20年前は現代ではないということになるが、しかしこれをもっと広義に、いわゆるModern World、つまり《伝統の世界》と対比される《近代世界》と捉えてみればどうだろう。この世に存在するあらゆる国々は、昔はそれぞれの《伝統の世界》の中にあったのだが、ある大きな出来事を期に《近代世界》に突入したということが言えると思う。大きな出来事とはすなわち、革命である。つまりあらゆる国は、何かしらの《革命》を経て近代に突入したのであり、現代の世界とは《革命された世界》のことでもあるのだ。
 これは全く当たり前のようだが、重要である。なぜなら、「その国がどんな革命を経て現代に突入したか」を知ることが、その国の世界観や歴史観を理解することに繋がってくるからだ。例えば、フランスが経験した革命は当然ながら、フランス革命である。今の人々が「右翼」とか「左翼」と言うのも、もとを辿ればフランス革命の時に王党派が議会の右側に、共和派が左側にいたからだというのは有名な話である。しかしながらこれを、その少し前に起きたアメリカ革命、つまりアメリカの独立戦争と比べてみたらどうだろう。アメリカの独立戦争は知っての通り、イギリスの国王ジョージ3世とアメリカの革命家ジョージ・ワシントンの間に戦われた戦争である。ではこの二人のうち、右翼的だったのはどちらだろうか。言うまでもなく、ジョージ3世である。そもそも王党派どころか国王本人なのだから。ということはアメリカでは国の永遠の英雄であり、右翼にとってのアイドルであるジョージ・ワシントンも、もとの大英帝国側の視点から見てみれば、王の権威に逆らう左翼革命家だったのである。しかしながら当然、アメリカ国内でジョージ・ワシントンが左翼的な存在に見られることは全く無い。それどころか、アメリカ史観の影響力が強まった結果、イギリス人でさえそのことを忘れてしまっているように見える。アメリカ国内において右翼と左翼の齟齬が明白になったのは独立から90年ほど経った後の南北戦争であり、要は北軍が左翼で南軍が右翼ということになっているのである。
 このようにフランス革命とアメリカ革命には微妙な視点の違いがあるのだが、その一方で重要な共通点もある。それはどちらにおいても左翼が勝ったということである。フランスにおいては革命の後にナポレオンという特異な存在が現れたが、そのナポレオンもナポレオン民法典を通して革命の影響を全欧、ひいては全世界に広げたのだから、結局、最終的に勝利したのは左翼と言ってもよいだろう。どの国の歴史においても〝革命の成功〟は〝左翼の勝利〟とほぼ同義であり、この現代の世界というのは「王様を打ち倒した左翼が作った世界」と言っても過言ではないように思われてくる。
 しかし、そんな中にも例外はある。それは明治維新である。

 革命とは基本的に、内戦である。アメリカの独立戦争も上記の通り、もとは大英帝国内の内戦だった。では日本の明治維新はどうかと言えば、それに伴った内戦は戊辰戦争であり、明治天皇を担ぐ薩長同盟と徳川慶喜を担ぐ幕府軍の間で戦われたものである。ここで薩長同盟が勝利したことによって明治政府の権威が確立され、新しい日本の夜明けが齎された。
 では、この薩長同盟は左翼だったのだろうか。革命に対抗して既存の秩序を守ろうとしたのは幕府軍の方なのだから、保守派の右翼だったのは幕府軍ということになる。しかしだからと言って、天皇を担ぎ上げて王政復古を目指した薩長同盟を果たして左翼と呼べるものだろうか。無論、そんなはずはない。ということはかれらは右翼でも左翼でもなく、極右だったのである。ここ日本においては世界的にも珍しく、「右翼と左翼が戦って左翼が勝った」のではなく、「右翼と極右が戦って極右が勝った」ことによって革命が起きたのだ。
 厳密に言えば、明治政府は啓蒙思想を取り入れて日本を近代化したのだから、それは純粋の極右というよりも極右と左翼の連合だったと言うべきだろう。また維新の成功には松陰のみならず、福澤諭吉や西周などの啓蒙思想家も多大な貢献をしたということは疑いようがない。しかし知識階級だけではなく民衆全体にまで視点を広げて、「なぜ日本はあんなに国民一丸となって近代化に取り組めたのだろう」と考えてみたらどうだろう。その辺の農民や職人がみんなロックだのルソーだの福澤だのを熟読して、「そうか、これからは市民一人ひとりが自分たちで権利を守ってゆく時代なんだ。よし、おれもこれからは一市民として自分の権利のために政治参加してゆこう」と自主的に近代化に参画するようになった、とはいかにも考えにくいことである。現実的に考えれば、それは啓蒙思想や産業革命を巡る諸々の議論に導かれたというよりも、やはり明治天皇が国民全体に向かって「よし、近代化するぞ」と宣言したことによって、一般庶民もみんな「何だかよくわからないけど、天皇陛下がやるって仰ってるんだからとりあえずやろう」と迷いなく動くことができた、という方が実情に近かったのではないだろうか。政府の内側では啓蒙思想の理念が様々に議論されていたとしても、一般庶民の耳に聞こえていたのは「よし、近代化するぞ」という天皇のお告げであり、「とにかく西洋の大国に負けないように、日本ももっと強い国にならなくちゃいかん」という単純化された愛国右翼的な掛け声の方だったのではないかということだ。
 また、この「よし、近代化するぞ」という天皇の宣言、要するに五カ条の御誓文のことなのだが、この御誓文の歴史的な意義について考えるのも面白いことである。というのも、この誓文には「先進的な理念と前時代的な伝統とが不思議な形で融合している」という現代の日本文化の特徴がすでに強く表れているからである。誓文の内容を見れば、もちろん、それは「民主的な議論を大切にし、自由に知識を求め、因習に捉われず合理的にものを考え...…」というような、いわゆる啓蒙思想的な理念を打ち出すものである。まさに近代化の夜明けを告げるに相応しい内容と言ってよいだろう。しかしここで日本が異常なのは、この宣言が天神地祇への誓約という形で発布されているということなのだ。このことの異常さは海外ではおろか、日本国内でもあまり注目されていないような気がするが、重要なことである。というのも、啓蒙思想はそもそもヴォルテールやディドロなど反教会の自由主義者たちが中心となって起こした運動であり、近代民主主義というものも西洋の歴史の上では政教分離の原則とセットで出てきたようなものなのだ。ところがここ日本では、政教分離どころか、神道の主祭司たる天皇が自ら多神教の神々に誓約する、という祭政一致を起点として近代化の幕が開けられているのである。「左翼が王を倒す」のではなく「極右が王政復古する」という形で革命が起きたのと同じように、ここでも「自由主義者たちが教会を打ち倒す」のではなく「大祭司が古代の神々に誓約する」というこれ以上ないくらい反近代的な形で近代化が始まるという大きな矛盾が生じているのだ。

 このようなことを踏まえた上で改めてこの《革命された世界》を見回してみると、われわれが普段当たり前の真理と思って信じるでもなく信じている多くの理念や原則が、実はほとんどすべて革命によって確立されたものだということに今一度気づかされるだろう。「歴史は勝者によって書かれる」という使い古された成句があるが、われわれがいま暮らしているこの世界の常識は《革命を起こした側の人々》によって書かれたのである。だから「なぜ日本はいまだに極右で前近代なのか」と問うことは、「なぜアメリカはいまだに民主主義なのか」とか「なぜ中国はいまだに共産主義なのか」と問うのと同じようなことなのだ。つまり、もし現代の日本が〝変な国〟なのだとすれば、それは現代の日本が〝変な革命〟から始まったことによるのである。
 あるいは、革命を取り巻く歴史はもはや、それぞれの国にとっての神話として機能していると言っても過言では無いかもしれない。革命を起こした人々——アメリカにおける建国の父たち、日本における西郷隆盛や坂本龍馬など——に対して民衆が寄せる敬慕の念も、古代の人々が神話の英雄たちに寄せたものとほぼ同質と言ってよいだろう。革命によって作られた歴史観が神話としてそれぞれの国を覆っているために、それぞれの国の民衆はその神話の世界観に閉じ込められているのである。だから、アメリカ人にとっていつも悪いのは〝エリートたち〟であり、すべての問題を解決できるのは〝本当の民主主義〟であるということになる。日本の右翼は今でも〝尊王攘夷〟さえすれば栄光への道が開かれると信じているし、日本の左翼は「世界の常識に合わせなければますます遅れてしまう」といまだに焦り続けている。国の経済政策がいくら共産主義からずれようが中国人は毛沢東の肖像を拝み続けるし、フランス人はどこを目指して走っても「自由、平等、友愛」の理念から逃れることが出来ない。これらのことはすべて、それぞれの国の革命神話に由来しているのである。

 この何十年もずっと、「時代は物凄い速さで変化している」とか「今こそ時代の変わり目だ」などという煽り文句が色んな場所で繰り返されてきた。しかし大騒ぎが一通り終わった後にあたりを見回してみたら、実は大した変化など何もなく、いつもと同じ右翼と左翼の膠着状態が続いているだけだったのではないだろうか。これはなぜかと言うと、左翼が勝っても右翼が勝っても、結局根底にある革命神話が傷一つなく残り続けるからなのだ。
 右翼が左翼に勝てば世界が良くなるとか、左翼が右翼に勝てば社会問題が解決するというのは幻想である。もしも今後、本当にこの世界に大きな変化が訪れるとすれば、それはある種の天才か思想家によって、根底にある革命神話そのものの見直しがされる時であろう。現代の民衆はまだ右翼対左翼のゲームに夢中になっているが、それはもちろん、「そのゲームをすっかり中止にして、別のもっと面白いゲームを新たに始める」という選択肢が存在することに気が付いていないからなのだ。
 その大きな変化の時がいつになるかを予言することはできないが、それが早く訪れることを願いつつ、私も〝次の世界〟のことを考えてゆきたいと思っている。