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夜泣きを治す話【漢方医放浪記】

「とにかく、寝てくれないんです。」

 そう言った彼女の表情は疲弊と悲観の色をしていました。

 1歳2ヶ月になる息子さんは新生児期から「カンの強い子」と言われ、すこしの刺激でも覚醒しやすく、寝付きには時間がかかり、夜泣きも激しかったそうです。それが1年2ヶ月続き、彼女は慢性的な睡眠不足のために、せっかく復職した仕事も辞めざるを得なくなったと聞きました。

 近所の小児科に相談したら「成長と共に治る」と言われてそれっきり。漢方を使う小児科に行き着いて色々試してもらったけれど全く効果はみられず、夜間の癲癇てんかん発作ではないかと疑われて小児神経の専門病院で脳波測定を含めた精密検査を受けたものの、何の診断にも至らず「性格かもしれません」とか「児童精神科の受診を検討されてみては」などと言われてしまったそうです。

「友人から、ここに来れば何かできることがあるかもしれない、と教えてもらって、それで。」

 住所をみますと、少なくとも1時間以上かかる距離です。彼女は相当に追い詰められた気配を纏い、ひとつ間違えば親子で飛び降りでもしそうな危うい空気を感じました。私は小児科専門医ではありません。しかし一人の医者ですから、目の前に患者さんがいれば出来ることをするのが道理です。

 子を見ますと、機嫌良さそうに抱っこされています。よく笑い、よく動きます。しかし眉間には静脈が発達して薄く透けて見えるほか、頬の紅潮が目立ちました。これは古来、疳の虫がある、と言われた顔貌です。あやしながら脈をみると、浮・滑・促。腹を触れると非常にくすぐったがります。肝の陽気が過剰な所見です。一見すると抑肝散よくかんさん柴胡加竜骨牡蛎湯さいこかりゅうこつぼれいとうなどの柴胡剤を考えたくなる印象ですが、どうにも違和感があります。柴胡剤の腹証にしては下腹部が弱く腹直筋の緊張が目立ちますし、顔や手足の火照る感じが気になります。

 確認すると、すでにそれらの漢方薬を含めて5種類以上の処方を試して全て無効だったそうです。母子同服の考え方に則って、お母さんも一緒に漢方薬を飲んだそうですが、これまたさっぱり効かなかったということが判明しました。

 母子同服とは、小児領域の漢方治療において、母親も同時に治療することを示す言葉です。ここで必ずしも同じ処方名である必要はなくて、子が患うときには母親も体調を崩すものだ、という理念に基づいてそれぞれ治療をすると効果が相乗されるものだ、という考え方です。

 彼女のほうも診察しましょう。

 脈は沈、数、微、弦、渋。今にも途絶えそうな脈です。特に脾虚が著しく、相当の消耗があることがわかりました。腹をみますと、すんごい臍上悸があって、胸脇苦満も著しい。臍の左側には圧痛の塊がありました。これまた後世派ごせいはの医師が診たら抑肝散か柴胡加竜骨牡蛎湯あたりを処方しそうな様相です。しかしそれらでは、脈の所見が合いません。

 後世派ごせいはとは、唐・宗以降の書籍を重視する流派で、それ以前の古典『傷寒論しょうかんろん』や『金匱要略《きんきようりゃく》』を重視する古方派こほうはとしばしば対比されます。私は古方派を源流にしますが、師匠がブッ飛んでいるので師匠流を名乗ろうと思っています。

 
 さて、処方が定まり、母子それぞれに2種類ずつの漢方薬を処方しました。それから「寝つきが悪い時にはココをさすってあげるといいですよ」と、足の陽明胃経を伝えました。

 1週間後。

 彼女は晴れやかな表情で外来を訪れました。

 驚くべきことに、内服を始めた2日目から寝つきがスムーズになって、それまで2〜3時間かかっていた寝かしつけが1時間以内に、昨日は15分で寝たと言って喜んでいます。夜泣きも激減し、朝までに1回か2回、それも比較的すみやかに再入眠するようになったと。彼女の体調を伺うと、子ども以上に劇的に効いて、あらゆる不調が改善してきたそうです。

 治療の方向性は良かろうと、同じ薬を続けながら調整の方法を伝えました。

 これなら希望がもてる、と彼女は心底嬉しそうにお辞儀をして、坊やはニコニコ笑いながらバイバイとタッチをしていきました。



 後医は名医といいますから、慢心してはいけません。特に今回のように攻める治療をするときには、細心の注意を払う必要があります。それでもその親子を助けられたことに安堵しながら、私は嘗て夜泣きの激しかった息子のことを思い出しました。



 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の夜が穏やかな眠りの時間でありますように。



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