消えちゃえ☆他力本願
日常診療で接する人にも色々居りますが、治療が上手くいく人とそうでない人の間には隔絶された特徴の違いを感じます。統計学的な処理をしたわけではありませんが、十余年の診療経験からかなり確からしい性質にみえます。
それは、主体性の有無です。
自分で病を治そうと動く能動的な人か、医師や病院任せで治してもらおうとする受動的な人かという差異です。前者の治療はうまくいき、後者の治療には難渋します。
主体性と自分勝手は全く別次元の問題です。むしろ主体性の無い人ほど自分勝手であるように私には感ぜられます。いわゆる「文句ばっかり言って自分では何もしないタイプ」であって、そういう人の病の根は非常に深いところにあります。
印象的だった二人の患者さんの話をしましょう。
どちらも強い痛みを伴う、類似した状態の同名の難病でした。
A氏は重症でしたが、一年半ほどの治療の結果、治癒に至りました。診察日の度に「私は次に何を頑張ればいいでしょうか。元気になりたいんです。」と仰っていた姿が、とても印象的でした。
B氏は治療期間中に処方薬の自己中断が目立ち、食事や生活習慣が疾患に与える影響を説明しても改善せず、自分で調べたらしい見当違いな診断の見立てを振りかざして「治してくださいお願いします」と深々と頭を下げるのでした。当然、そんなことでは難病が治癒に向かうはずもなく、きっと何かに気付くまで、苦しみ続けるのだろうと思います。
B氏の根底には他力本願があったように感じます。それは慣習的な意味ではなくて、本来の意味での他力本願の姿勢です。絶対他力ともいうべきB氏の在り方からは、まるで念仏を唱え続けるような無意味な情熱を感じました。主体性の希薄さと自分勝手な様相は、ちょうど悪人正機のような不快感を覚えます。末法とはよく言ったもので、正法も像法も通り過ぎて教えも行いも消え去った末法の世であることを虚しく思います。いいえ、何も特定の宗教や宗派を礼讃する意図は全くありません。私はただ、哲学者シッダールタの学問としての仏教が、形を変えて宗教と化して利用されているのをみると悲しい気持ちになるのです。
自分の人生です。
いかなる理由があろうとも、他力本願でいいわけがない。何かに頼るべきときがあったとしても、絶対他力などという妄言に依存したら未来も過去もありません。どこまでも能動的に、自分が選ぶのだという意思こそが覚悟となって道を切り拓くのだと、私は考えます。
仏教は死後の救済を求める宗教ではありません。
生きる術を研究する実践的な哲学であったはずです。
拙文にお付き合い頂き誠にありがとうございました。混迷する社会の中では、様々な悪意が蠢きます。どうか貴方の人生は、貴方自身が切り拓き、創り出すものでありますように。
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