マツリは神とのコミュニケーション
近くの神社の祭りに、観光地の盛大な祭りに老若男女がどっと繰り出します。外国の方から見ると熱心な宗教者に映ります。
しかし、当の私たちは宗教上の参加などとはさらさら考えていません。
初詣がそうです、七五三もそうです。
私たちにとっては、年中行事であったり、人生儀礼であるとするものです。それは宗教心から出たものではなく、日本人の信仰心のようなものです。
確かに、日本の祭りの祭るとは「神霊を慰める儀式を行うこと」です。
例大祭の神事、お神楽の舞をはじめとして、宵宮のお芝居もカラオケ大会も神さんへの感謝の印、楽しんでもらうためのものでした。
そこには日本人の人並みはずれた信仰心があります。その心が、神に神楽や舞を捧げたのです。
それは「人」の「神」への感謝、コミュニケーション手段です。
それに、村芝居が加わり、カラオケ大会が加わって、神と人とのやり取りの神事に、「人」と「人」とのコミュニケーションの場を加えていったのです。
それが、今では皆さんの思う祭り、自分達を楽しませるフェスティバルになりました。
では神とは何か、何を感謝したのでしょうか。
私達日本人は、私達を取り巻く「再生」の環境を「神」として信仰したのです。
日常で目のあたりにする四季の変化、春に種を蒔いて秋に収穫する。水が欲しい時に恵みの雨、日照が欲しい時に輝く日の光。人の力ではいかんともしがたい自然の力に、畏れの感情を抱いたのでした。
それが神への畏敬の念であり、願わくばという神とのコミュニケーションを望む信仰心として我々が培ってきたものです。
エコロジー、リサイクル。私達の社会が取り組もうとしている言葉ですが、日本の神々の総称でもあるのです。全国の神社に鎮まる神々は皆再生の神です。お社に見る華麗な彫刻も、この再生をになう神々を支える者達の働きを表したものです。
日本列島は、背の部分が山また山です。
そこに降る雨は地下に浸み森に蓄えられ、尽きることのない速い流れとなって海に注ぎます。万川流れ入る四方は海。水蒸気は再び雲となり山に雨を降り注ぎます。雨が欲しい時に雷鳴がとどろきます。稲妻は龍のごとく見えたでしょう。
「神事」に欠かせない水。社の彫刻に欠かせない龍の姿。完全無欠な再生の姿をそこに見たのでしょう。
遠くの山々は神住む所として、信仰の対象になりました。その山から、大木を頂いて来てお社を造り、御柱を建て、再生の象徴としたのです。それゆえ、日本人はカミを祀りこそすれ、神社を宗教に仕立てる必要はなかったのです。
山や森を維持しなければ、我々は飲み水に事欠きます。海の幸も怪しくなってきます。再生の心を失った人々は作物への関心が失せ、グルメやデパ地下、食の達人が増えている間に、食物自給率の底が見え始めました。
町や村から、マツリが廃れ、消えていって、観光地のマツリが季節の旅行と化したのと時を同じくしてはいないでしょうか。
やがて、マツリをする人、作物を造る人は更に少なくなり、観る人、食べる人ばかりになり、カミを必要としない世の中になるのでしょうか。既に、カミを意識しない、カミを必要としない人生を送っているのかも知れません。
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