Ready or Not? 第1話 

<あらすじ>母親が倒れたとの連絡で15年ぶりに帰省した未央は、車窓から見えた鎮守の森の風景に酷く胸騒ぎを感じた。かつての同級生で、未央の兄と結婚し、嫁いできた蘭に森についての話を聞くが、彼女は多くを語らなかった。偶さかの邂逅により明らかになる、幼き子供たちが遭遇した忘れられた悲劇。そして、所在不明の兄と双子の子ども。鎮守の森でいったい何が起こったのか? 真相が明らかになるとき、深淵の扉が開かれ、「やって来る」。

     *

 「もういいかい?」
 まぁだだよ、とアキくんの返事が木霊した。鬼は目を瞑って、子が逃げ隠れるのを待たなければならない。森仙堂の洞穴の前に広がる空き地で、その頃の僕らはいつも夕方、日が暮れるまでたっぷりと遊んでいた。森仙堂というのは洞穴の横に据えられていた小さな祠で、何が祀られているのかは知らなかったが、学校が終わると「森仙堂集合な」と呼びかけあって、その場に集っていた。
 堂守がいるほど大きな祠ではなかったが、自治会の大人たちは代わる代わる清掃をしたり、祭を行ったり、祠とその周りに常に手を入れていた。祠そのものについては何も謂れがなかったようだが、大人たちから、そこで遊ぶときは気をつけるように、とひとつだけ、強く念を押されていたことがあった。
 それは、絶対に洞穴に声を投げかけてはいけない、ということ。とはいえ、皆、親からもそうやって言い聞かせられて育ってきていたので、なぜそうしてはいけないのか、という理由はともかく、誰も洞穴に向かって叫ぶということはなかった。
「もういいかい?」
 しばらく間を空けて、もう一度聞いてみた。
「……まぁだ……ょ」
 なんだか、ずいぶん遠くから声が聞こえる。ハシモもやんちゃんもかなり遠くに隠れてるんだろう。そう思って、もう少し我慢することにした。鬼が辛抱強くないと隠れん坊はつまらない。自分が隠れる番だったら、納得いくまで隠れさせてくれ、と思うものだ。もう少しだけ我慢しよう。そう思って、僕はもう一度ぎゅっと目を瞑った。
     
     *

 一五年ぶりに帰郷したのは、母親が倒れた、と連絡があったからだった。東京で広報会社のPRとして働いていた未央は、翌日のスケジュールを調整してもらい、特急に飛び乗った。ちょうど自分が関わっている案件に一区切りついたところでもあった。新幹線で行くほどの距離でもない、というより、新幹線が停車する駅からは離れた、実際の距離以上にそこまで行くのに時間のかかる町が彼女の故郷だった。
 特急を降りて、地方線に乗り換え、しばらく揺られる。田園風景やところどころに点在する森を眺めていると、それなりに感慨深いものがあった。代り映えのない風景が続く中に自分が過ごした幼い時間が浮かび上がってくる。

「あっ、鎮守の森」

 立ち並ぶ樹々が一瞬開けた。そしてその奥に小さなお堂が顔を出した。森仙堂だった。
 なぜだか胸が急に苦しくなった。なぜだろう。彼女にはその理由がわからなかった。鬱蒼とした森に飲み込まれ、すぐに姿が見えなくなった森仙堂が脳裏に焼き付いて離れなかった。記憶の断片を手繰り寄せようと頑張ってみたが、不意に降りる駅に到着した。
 実家に戻ってみると、母親である道子もすでに病院から戻っていた。
「なんだ、元気なんじゃん」
「みんなが心配しすぎなんだっぺ。オラがフラっと倒れただけで、ろぐでもねぇ」
「でも、良かったよ。心配して帰ってきたけどさ。問題ないなら、わたしもすぐに戻る。調整お願いしてきたけど、向こうでわたしがやらなきゃならないこともたくさんあるし」
「そぉかぁ……。未央がいなくなっちまうんじゃあ、さみしいなぁ。そいだら、もっかい倒れっか」
「ちょっと、お義母さん、やめてください! 縁起でもない」
 未央の兄の嫁が止めた。
「蘭さんはちくともやさしぐねぇから……」
 そういって道子は泣く真似をした。しかし、彼女が言うよりもずっと蘭はよくできた嫁であり、夫、つまり未央の父親が亡くなって以降、兄と二人で道子を支えてきたのだった。支えると一言でいっても家業である農家の仕事を手伝いながら子育てを続け、またこれからはそこに道子の介護も加わってくることが予想され、蘭としても内心は穏やかなものではなかったはずだ。しかし、そんなことおくびにも出さず、彼女は道子の身の回りの世話をしていた。
「お義母さん、お着換えここに置いておきますからね」
「わかったぁよ。もう、蘭さんはすーぐに人のこと病人扱いしてからに」
「病人でしょう。実際。入院までしてたんだから」
「そこから出てきたら病人じゃないんですぅ」
 そういって悪態をつく道子を見ていると、蘭に甘えているということが未央にはよくわかった。自分と道子の間にはなかった関係。どちらからともなく、望まなくなってしまった関係。でも、そのおかげで、彼女は東京に出ることができ、自由に暮らすことができていた。

 道子を置いて部屋を出て居間に向かうと、蘭も追いかけてきた。蘭は小学校から中学校へと共に過ごした同級生だった。
「お義母さん、ああ言ってるけど、本当は大変だったのよ」
「うん。実際の病状はどうなの」
 未央の問いかけに、一度廊下を見てから、蘭は答えた。廊下の奥には道子の部屋がある。
「がんよ。末期のがん。畑で倒れちゃって、病院に担ぎ込まれて調べて初めてわかったの。お医者さんが言うには、かなりつらかったはずだって。相当に我慢してたんじゃないかって」
「……そんな……」
 未央に心構えができていなかったわけではなかった。しかし、気丈な様子を見せられたこともあり、案外と元気なのではないかと思えた矢先だったので、ショックは大きかった。
「だから、未央ちゃんにここにいて欲しいっていうのは、本心だと思う」
 もちろん、わたしもいてくれたらって思ってるわ、と言ってから蘭は「お茶でも淹れようか」と台所に向かった。

 蘭とは、それほど仲が良いわけではなかった。といっても、お互いに嫌いあってたわけではない。嫌いあうというほど近しい関係ではなかった。高校進学の際に別れた蘭は、高校を卒業すると、役場に勤めてそこで未央の兄、浩と知り合った。
 ふと、改装された台所のカウンターバーに目をやると、この家には不釣り合いなブランド物のバッグが無造作に置かれていた。道子の趣味ではない。かといって、家に嫁いできた蘭が購入できるような品物でもない。浩から蘭へのプレゼントなのだろうか。日頃頑張っている妻に贈り物をする……一緒に過ごしてきた幼少期を振り返ると、浩がそんな気が利いた人間になったとは思えなかった。高級な品がぞんざいに扱われている様子が未央にはとても気にかかった。
 その話は胸にしまって、昔ながらの薬缶を火にかける蘭に尋ねた。
「そういえば、鎮守の森の前の広場って、まだあったんだね。電車から見えたんだ。ちょっと懐かしいなって」
「……」
「ん? どうしたの?」
「やだ、未央。忘れちゃったの?」
「何が?」
「あのこと」
「何のこと?」
 蘭はこちらに背を向け、首を落としてじっと火を見つめているようだった。ガスの火が薬缶の底にあたってパチパチと立てる小さな音だけが響いていた。
「ふぅ……。まさか、忘れてるとはね。わたしは、ずっと覚えてた。忘れようと思っても忘れられない」

 蘭の言葉を聞いたとき、なぜだか未央は急に怖くなった。何か思い出してはいけない出来事の扉をいま開けようとしているのではないか……と。恐怖を振り払うように未央は話題を変えた。
「そ、そういえば、兄さんどうしてるの? 子どもたちは? 双子ちゃんだったよね。全然姪っ子にも甥っ子にも会ってないから、私のことなんて、それこそ忘れちゃってるでしょう」

「浩さんは出張なの。あの兼業している現場が立て込んでいて当分帰ってこれないって。いやになっちゃうわよね、まったく。こんな状態なのに、本当に頼りにならないわ。でも、外で頑張ってくれてるから、結局は助かってるんだけど。ほら、いろいろとお金もかかるでしょう。あの人がしっかり働いてくれるおかげで、なんとかこっちも踏ん張れてるっていうか。いまは農閑期だからここで稼いでもらわないと。子どもたちは一度私の実家に帰しているのよ。お義母さんのことがあるから、いつ何があるかわからないし、夜中に突然病院に行って戻れないこともあると思って。危ないじゃない子どもだけで一軒家に置いておくのは。先日も近くで押し入られる事件があったし。報道になってたでしょう?」

 蘭は早口でまくし立てた。まるで準備していたかのような台詞回しが未央には少し気になった。彼女は沸いた薬缶を火からおろし、テーブルまで持ってきて急須に湯を注いだ。それから、未央の顔に浮かんだ少し怪訝そうな表情を察してか、さらに続けた。
「私の実家、そう、知ってのとおり両親はもういないんだけど、叔母が戻ってきていて。母さんの妹ね。親戚付き合いはそれほどなかったから、未央も知らなかったかもしれないけど、彼女が面倒みてくれているから、助かってるの」
 蘭はそう言ってから様子をうかがうように未央の顔を覗き込んだ。
「そうなんだ。良かったよ。子どもたちも振り回されちゃうもんね。お母さんが看病つきっきりだとね。私も少しは手伝えると思うから、蘭も様子見てくるか、あるいは、こっちに連れてきたら?」
「少しは? ふふっ。やっぱり未央は……何にもわかってないんだね……」
「え?」
「わかるわけないか。東京に――逃げちゃったんだからね」
「ちょっと……。そんな言い方ないんじゃない?」
「そうかしら。向こうで自由に好きなことやって生きてるあなたには、わからないこともあるのよ。たくさんね」

 陸上競技――棒高跳びが得意だった未央は、都内の強豪校に推薦が決まり、下宿生活をすることになった。高校の頃はそれでも年に数度は帰省することがあったが、成人してからはこちらに戻ってきていなかった。
 蘭が淹れてくれたお茶は少し苦かった。たしかに彼女の言っていることが当たっている面もあった。未央はこの家とこの土地から逃げた。それは本当のことだったから。そうせざるを得ないという気持ちだけがあって、でも未央自身ではそれがなぜなのか、気づいてはいなかった。だから、蘭に対して強く反発することはできなかった。

「そうね。蘭の言うとおりかもしれない。私はここから逃げたのかも。でもね、私にもその理由がよくわからないんだ。もしかしたら蘭にも負担をかけることになってしまっていたのかな。そうだとしたら、ごめんね」
 未央はそう言って物悲し気に薄く微笑んだ。
「何よ。そう言われたら私が悪いみたいじゃない……。もういいわ。いつもいつもそう。そういう表情で皆……」
 蘭は途中で言葉を切って、席を立ち、自分の湯飲みと急須を片付けた。
「ゆっくりしてね。お風呂も沸いているから。私は疲れたからもう寝るわ。もしかしたらお義母さんに夜中に起こされるかもしれないし。用意もあるから」
 そう言って、自分の寝室に引っ込んでしまった。

 何か、気に障るようなことでも言ってしまったのだろうか。それとも、未央の存在自体が彼女にとって気に入らないものだったということなのかもしれない。考えてみたら、たしかに、実の娘は東京で羽根を伸ばし、赤の他人の彼女が家業から両親のこと、また子育てに至るまですべて一人で背負っている。彼女は皆のことを見ているが、皆は彼女のことを見ていない。そしてそれが当たり前の状況になっている。
 そんなところにのこのこ母親の危篤の知らせで飛んで帰って来た未央が「手伝う」と言ったところで、彼女にとっては何をいまさら、という気持ちになるもの当然のことだろう。
 久しぶりの実家の湯舟は少し小さくなったように感じながら、未央は蘭とのやり取りについて思いに耽っていた。

第2話:https://note.com/seigen_e/n/nbdf0d6dcfd14
第3話:https://note.com/seigen_e/n/n5dcb2427928a

#創作大賞2024


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