Ready or Not? 第2話

 翌日、未央はカーディガンを羽織ってあぜ道を歩くことにした。
 赤とんぼの茜色は日差しに照らされ鈍い金属の輝きを放っていた。あぜ道の脇には田へと水を引く細い水路が通っている。かつてはそこを飛び越えるのも怖かったほどだが、今となっては一跨ぎできるほどの狭さだった。あれほどたくさん見つけられたザリガニやメダカ、水生の昆虫たちはどこへ行ってしまったのだろうか。かろうじてタニシが動いているのを見かけたくらいで、水の流れとは対照的に生命感を感じることができなかった。
 田に目をやると、遠くでバタバタと音がして、白が緑に差し込んだ。鷺だった。未央を警戒してか、田を突きながらもときおり顔を上げて、様子をうかがっている。
 鷺が背中に回ったあたりで、あぜ道は傾斜に差し掛かり、それを上ると道路を挟んで森が迫っていた。
 鎮守の森。その奥にあるのが森仙堂だ。

「あれ、未央じゃない?」

 キィーッというブレーキの音と共に止まった自転車には真澄が乗っていた。
「真澄? 久しぶり!」
「いつ帰ってきたの? 帰ってきたら電話してよ。水臭いなぁ」
「ごめんごめん。すぐまた戻るつもりだったから。ちょっとお母さん、具合悪かったみたいで呼び出されたんだけど」
「大丈夫なの? 道子さん」
「そう。それがぴんぴんしてて。なんだよって感じよね」
「でも良かったじゃない。何ともなくて。うちも大変よ。お義母さん、わがままだから」
「そうか、嫁に行ったんだよね、真澄は」
「そうそう。もう家に入って一〇年になるかな。良く続いているよ」
 困っているような口ぶりとは違って、真澄には笑みが浮かんでいた。
「うちも蘭が来てくれてるから、お母さんも助かってると思うな。昨日もすごく仲良さそうにしてたんだ。あっちの方が傍から見たら実の親子って思われるんじゃないかな」
「……」
「真澄、どうしたの?」
「聞いてないか……」
「え?」
「未央が知らないことを私が伝えるのはあんまりよくない気がするんだけど……」
「何よ。言ってよ。遠慮しないでさ」
「この辺って、あんまり話題ないじゃない。だから、早いのよ。噂が回るのは」
「噂?」

「お兄さん、不倫してたって」

「え?」
 もちろん初耳だった。が、蘭それから道子の性格上、もしそれが本当だったとしても、たしかに未央にわざわざ伝えるということはしないだろう、ということはすぐに理解できた。
「……知らなかったよ。教えてくれてありがとう。きっとあの二人は私から聞かれるまで、自分たちから話はしないと思うし。真澄がいなかったら私も一生、とまでは言わないけど、当分知らなかっただろうから」
「そ、そうよね。うん。逆に知ってることだったら悪いなって思った」
「大丈夫よ」

 真澄の話によると、兄の浩は青年会議所の集まりに来ていた役場の職員と懇意になり、たびたび外で逢瀬を重ねるようになった。しばらくは、青年会議所の集まりだ、と言っていたようで、道子も蘭もまったく気づいていなかったようだ。しかし、浩がそう言って夜半に出かけて行ったある日、同じ会に所属するメンバーが家に訪ねてきたことで、問題が発覚した。
 帰宅後、浩は二人から相当に問い詰められたようだ――地方は窓を開け放して生活しているので、隣近所で起こっていることが筒抜けだった――隣家の人たちがそれを聞いていた。聞いたことを話さないでいられるほど、人の自制心は強くない。瞬く間に話は地域中に広がった。
 役場の職員も、職場で問題視されたのか、いつの間にかいなくなった。それと前後して、浩の姿も見えなくなったという。

「えーと……ということは、兄さんは家から出ていったの?」
「うん……。もちろん詳しくは誰もわからないんだけど、最近はこの辺でまったく姿を見てないよ。ほら、前は耕運機に乗ったり、子どもたち連れて車で出かけたりしてると見かけたから」
 蘭は私に嘘をついた? なぜ? 家を預かる身としての責任からか。それとも、自らが夫を引き留めておくことができなかったことが恥ずかしかったのだろうか。
「ちょっと待って、子どもたちはどうしたの? 家にはいなかったんだ」
 蘭は自分の実家で叔母が見ていると言った。が、そのことは真澄には伝えなかった。伝えられなかった。
「双子ちゃんだったよね。浩さんがいなくなってから、しばらくは四人で未央の家に居たみたいなんだけど、気がついたら、二人の姿も見えなくなっちゃったんだ。隆に一度聞いたことがあるんだけど、学校でも見かけてないって」

 隆というのは、真澄の息子だった。ちょうど蘭の子どもと同じ小学校に通っている。学校でも見かけないということは、浩が後から連れて出て行ったのだろうか。そうだとすると、道子はもっと感情的になるはずだ。かつて彼女が可愛がっていた白い犬が亡くなったときの取り乱しぶりと、昨日の雰囲気を比べてみて、孫について彼女がまったく心配していない素振りからするに、浩が連れていなくなったようには思えなかった。孫に会えなくなってしまった状況であれば、道子は間違いなく、未央に愚痴るくらいのことはしたはずだ。
 しかし、そうではなかった。では一体、子どもたちはどこに? もしかすると蘭はこのことについて嘘をついておらず、彼女の実家で二人は叔母に預けられているのかもしれない。しかし、学校にも行かせないで? 真澄の話だけでは、実際の状況を把握することはできなかった。やはり確かめるためには、蘭に聞くか、彼女の実家を訪ねるしかない。

「未央の家っていうけど、もう私の家じゃないから。東京、出ちゃってるしね」
「そうだったね。うん、でも私にとっては蘭の家じゃなくて、未央の家だから」
「そういえば、なんだけど。ちょっと話変わるけど、そこの森で子どもの頃、一緒に遊んだよね?」
 未央はそう言って、彼女たちに覆いかぶさるようにして葉を茂らす森を指さした。
「森仙堂? あぁ、よく遊んだよね。他に遊ぶとこもなかったし、学校終わると集合してたっけ」
「なんかさ、あそこで事件とかあった? 何かがあったような気がするんだけど、どうしても思い出せなくて」
「……」
 目を見開き、少し眉が上がった真澄は驚いた様子で、でも口は開かなかった。
「変なこと聞いちゃったかな。ごめんね」
「……何を言ってるの?」
「え?」
「あんなことがあったのに、忘れてるの?」
「どういうこと?」
「未央も、いたんでしょ? その場に」
「私が?」
「そうよ、朱里くんがいなくなったとき。あなたと蘭が一緒にいた。私はそう聞いてる」
「朱里くん……」

 誰だったっけ……。すぐには思い出せなかった。しかし、何か大事なことがぼんやりとだが頭の中で輪郭を形成し始めている感触があった。

「もういいかい?」

 声が聞こえたような気がして、ぐるん、と頭の中が巡った。
 ――そうだった。未央たちは皆で隠れん坊をしていたのだった。鬼は……朱里くん。彼は洞穴の前でしゃがんでいた。腕を曲げて顔を押し付け、周囲を見ないようにしている。ハシモややんちゃんはルールギリギリの道路近くまで離れて隠れていた。あれじゃあ、当分見つからないよな、と思って、蘭を探したが、森の側には見当たらなかった。どこに行ったのだろう。「もういいかい?」と朱里くんが聞いた。未央の右手、少し離れた樹に隠れたアキくんが「まぁだだよ」と答えた。目を瞑ったままの朱里くんは、腕から顔を離すと、あたりを見回すように首をくるくると回した。アキくんの返事がどこから聞こえてくるのか確かめているようだった。
 そして、あろうことか、彼は洞穴の方を向いて、もう一度「もういいかい?」と言った。
 次の瞬間、突風が吹き、「あっ」と言ってよろけた未央は目を瞑った。
 次に目を開けたときに、もう朱里くんはいなくなっていた。

「神隠し……」
 未央がそう言うと、
「そう言われてたよね。あれだけ子どもがいたのに、誰も朱里くんがどこに行ったのか、わからなかった。誘拐事件かって警察も捜査をしたみたいだけど、何も手がかりがなかった。未央も、いろいろ聞かれたんでしょう? 私とはその時のこと、話したことなかったから、やっぱり嫌な思い出なんだろうなと思って、私もあえて聞かなかったんだ」
「ありがとう。おかげでいままで忘れてたよ」
「うん。でも朱里くんのお母さんとかかなり気に病んで少しおかしくなっちゃったし、当時のおじいちゃんやおばあちゃんは、『穴に呼ばれたんじゃ』『言わんこっちゃない。子どもが遊んでいい場所じゃないのに』って盛んに言ってたよね。親たちは、『じゃあどこで遊ばせればいいんだ!』『そんなことを言うなら、森ごと刈り取ってしまえばいいのに』って言い返してたんだけど、『そんなことをしたらもっと大変なことになるぞ!』って結局、じいちゃんばあちゃんの怒りに火を注ぐことになっただけで、ひたすら揉めてたみたい」
「それでも残したんだね」
「そうそう。もしかしたら朱里が帰ってくるかもしれない、って朱里くんのお母さんが言って、それでそのままにすることになった。でも、学校からも親からも遊ぶのは禁止って。皆がそこで集合することはなくなったんだ」
 少しずつ、忘れていたことがパーツごとに立ち上がり、はっきりとした図像を描くようになってきた。未央は警察に呼ばれて事情を話した後、目の前で起きたことが信じられず、高熱を出して寝込んでしまった。道子はその時、
「良かったなぁ、おめぇが連れてかれねぇで、本当によ」
 と言って泣きながら氷枕を取り替えてくれたのだった。

 ディティールがはっきりしてくると、かえって不鮮明な部分が目立つようになる。未央の胸の奥に小さな一つの疑問が芽生えた。その黒い点は徐々に広がっていったが、真澄には聞くことができなかった。
「あっ、こんな時間。かえってお昼用意しなきゃ。お義母さん待ってるから」
「ごめん。引き留めちゃったね」
「いいのよ。久々に話ができてうれしかった。まだこっちにいるの」
「……そうね。明日、帰ろうかな」
「なんだ、もっとゆっくりしていけばいいのに。って、未央のお母さんが言いそうなこと言ってるね。わたしもおばさんになっちゃったのかな」
 そう言って笑った真澄は、また、連絡するね、と手を振って自転車を漕ぎだした。

 真澄が去った後、未央は内に残った疑問を抱えたまま鎮守の森へと足を踏み入れた。と言っても、すでに雑木林の中に小道がならされている。数十メートル先は開けていて、広場が見えている。子どもの頃は鬱蒼と生い茂った森の中に自然を感じたが、大人になってしまったいまとなっては、手の届く範囲に飼いならされた森が存在しているだけで、かつてのようにワクワクする感覚はもう得られなかった。
 森の中で慣れていた目にとって拓けた広場は眩しく、未央は少し目を細めた。広場は横幅が一〇〇メートル、縦幅が五〇メートルほどの楕円形に森がくりぬかれたようになっていて、今通ってきた小道を背にして反対側には五メートルほどの高さの崖が横幅に近い長さで切り立っている――その末端に行くほど、低くなっていて、崖の上に上ることもできた。
 改めて確認するに、どうやらもともとあった小山と森を切り開いて、広場を造成した結果、現状の鎮守の森ができあがっているようだった。 

 小道の真正面にそれがあった。洞穴だった。近づいてみると、その外縁は鉄の枠で固められ、細かい金網が被せられている。まるで何かがそこからやってこないように、誰もがそこへと連れて行かれないように……。ここで未央たちが隠れん坊をしていた頃はそのように封じられてはいなかった。あの事件が起こってから、設置されたものなのだろう。
 洞穴から少し離れたところには小さな祠があった。森仙堂だった。石造りの土台の上に、木製の社殿が乗っている。三本で編みこまれたしめ縄に結び付けられた幣は比較的新しく、まだその白さを保っていた。
 何を祀っているものなのか、やはりよくわからない。社殿には格子戸がついていて、中が見えるのだが、四角い小さな箱のようなものが置いてあるだけだった。格子戸の前にはお神酒と榊が備えられている。この場所の手入れはいまでもきちんとなされている様子がうかがえた。

 封じられている洞穴を見ながら、未央は自分の中に拡がっていく疑問について考えを巡らせていた。それは――あの時、蘭はどこにいたのか、ということだった。
 未央が思い出した情景において、彼女から見える範囲に蘭の姿はなかった。全体の様子をうかがっていた未央は、小道が切れて広場につながるギリギリのところにある樹の裏側から、ほんの少し顔を出していた。
 未央は同じ場所に立ち戻って当時と同じように樹の横から顔を出して広場を眺めてみた。
 すると、そこから見えない場所が一つだけ存在することに気がついた。  
 祠の裏だった。
 蘭がいたのは、祠の裏? でもなぜ、そんなに鬼に近い位置に? 全員の「もういいよ」の合図で鬼が目をあけたら、そこは間違いなく真っ先に見つかる場所だった。
 蘭は、見ていた。あの出来事のすべてを。一番間近で。

「――もしかして……」

 未央の全身に広がった黒い疑念は、次第に熱をあげ、彼女を内側から焼き尽くそうとしていた。

#創作大賞2024

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