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映画『ヴィクトリア』を観て -悪意なき自己中心主義者

ジュスティーヌ・トリエという女性監督の『ヴィクトリア』(2016年)をアマゾンプライムで観た。
「フランス映画は大人が見る夢だ」という言葉を思い出した。
自己中心的な女主人公が、ある男の愛に気づく夢物語なのだが、
現実には主人公のような女性が愛されることはない。

登場人物はすべて、非常にリアルであった。
パリで暮らしたことのある人なら、「いるいる」と思うのではなかろうか。高圧的な女主人公も、自分の弱さを隠さない男たちも。

排除の論理

主人公はヴィクトリア。有能で美しい女弁護士。
彼女は自分らしくありたいという願望を、追求する。
そして自分の価値観に合わないひとたちを「排除」する。
「他人は他人、自分は自分」を徹底する。

彼女の散らかり放題のアパルトマンは、現代社会の過度な情報の洪水を表象しているのだろう。そのなかで主人公は自分らしさを守りたいと必死で喘ぐ。

その結果、実に多くのひとびとを自分のアパルトマンから追い出す。
幾人ものベビーシッターを解雇する。ベッドを共にした男たちもさっさと追い出す。飼ったウサギを涙も流さずゴミ箱に捨てる。昔のパートナーが幼い娘たちに会いにきても、追い出す。実際、幼い娘がふたりいるのだが、人格を持った存在として扱われていない。女主人公の心のなかからは追い出されているのだ。

彼女はフェミニストというわけでもない。
男女平等の必要もさほど感じていない。彼女は「関係は不均衡だからこそ成り立つ」と言う。つまり凸と凹のふたりが、お互いを補い合うから、関係性を築けるのだと、ちゃんと理解している。
その一方で、自分のクライアントを泣きながら責める女に「女の敵は女性特有の被害者意識よ」と言い放つ。

排除の論理の結果

ただ自分らしくありたくて、自分とは違うひとたちを排除しているだけなのだが、
他人からは、権力欲と金銭欲の権化と見られてしまう。
昔のパートナーからそう責められて、はじめて「あたしって、そこまで冷酷な女かしら」と傷つく。

排除の結果、心のなかには虚無感がひろがる。
精神分析医の前で「どうしてこんな人生になっちゃったんだろう」と涙する。
僕だったら、「それは貴女が自己中心的だからです」と言うだろう。
でも彼女は即座に反駁するだろう。そして「はい、論破」と胸を張るのだろう。
けれども「どうしてこんな人生になっちゃった」のかは分からずじまいである。
彼女はどれだけ自己反省しても、自己正当化の言葉しか見つけられない。

「人類愛」?

サムくんは、何故かそんな彼女に惚れる。
サムくんは、彼女や、彼女のクライアントや、彼女の元パートナーの気持ちを理解して、代弁する。
そんなサムくんのことを、彼女は「あなたは人類愛の持ち主ね」と言う。
この表現に僕は驚いた。
もっとシンプルに「あなたは優しいのね」と言えばいいのに。

彼女にとって、他人の気持ちを考えることは、「人類愛を持つ」ことなのだ。
つまり彼女は、普通の人間は自分のことしか考えない、それが当然だと思っているのだろう。トランプ元大統領のように。
そう思っているからこそ、そうでない、つまり彼女の目からすれば、普通でないひとを「人類愛の持ち主」と大袈裟な言葉で呼ぶのだ。

大衆情報消費社会の虚しさ

この映画は「フランス的」ではまったくない。
むしろ「都会的」「消費社会的」である。
場所がニューヨークでも、東京でも、ありうる。

実際、最近の若い日本人の女性には、ヴィクトリアと似たものを感じる。
悪意なき自己中心主義者とでも言おうか。
完璧なまでに自己を正当化しているのだが、心のなかは貧しい。
自分らしくありたい、そして我慢はしたくないという願望に、過度に正直なのだ。
本人がひたすら真面目で一生懸命なので、よけい哀れだ。

是非、他山の石だと思って、ヴィクトリアをみてほしい。
そして映画だからサムくんみたいな好青年が登場したけれども、現実では貴女は孤独なままであることも想起してほしい。

自分の臨終の床を想像したことがありますか。
もしも、どこからか、だれかの声が聞こえてきたら、どうする?
誰の声かは知らない。
神様か、棄てられたペットか。

「ざまあみろ」てね。


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