顕微鏡と望遠鏡 -国民民主党のゆくえ
国民民主党が「生存権」の名のもとに税控除額の引き上げを求めている。
僕はフランス革命を専門とする歴史家なので、「生存権」と聞くと、遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ -フランス革命の世界史的位置』(東京大学出版会、1986年)を想起する。
歴史学のチカラ
『ロベスピエールとドリヴィエ』は僕に歴史学のチカラを教えてくれた。
歴史家は小さい実証研究を大切にするだけでなく、また歴史の大きな流れを把握しなければならないと、教えてくれた。
つまり大切なのはミクロからはじめてマクロに至る方法なのだと。
要するに顕微鏡と望遠鏡を両方使えなければならないと。
そして両方使えるものの強さを教えてくれた。
小さな視点と大きな視点
小さな視点と大きな視点の両方を持つ強さは、例えば国民民主党に認められる。
国民民主党の税控除額の引き上げ要求は、たしかに小さな話である。
でもその延長線上には大きな夢がある。
日本の旧来の政治文化(与党が議論なく専断的に政策を決める文化慣習)を転換して、生存権を尊ぶ民主的な社会をつくる夢である。
この政治文化の転換は決して革命的暴力(立憲民主党や共産党が得意とする、批判ばかりの排除の暴力)によっておこなわれるのではない。
「対決よりも解決」をめざす、熟議と交渉によっておこなわれなければならない。
これが国民民主党の狙いである。
小さな話からはじめて、大きな社会の変革をめざす。
「一点突破」「小よく大を制す」の美学である。
既存の諸政党は大きな話と小さな話をリンクできなかった。その結果、議論も交渉もできなかった。
大きな話をはじめると、結局「改憲派VS護憲派」の対決となって、熟議は終わってしまっていた。そこにあるのは罵り合いだけだった。
そして自民党は生存権の問題を安全保障の問題にすりかえて、アメリカから兵器を購入しては、日本国民の生存権を守ってやっているみたいな顔をした。
生存権を尊ぶ民主的な社会とは
そもそも生存権を尊ぶ民主的な社会とは、どんな社会だろう。
おそらく社会のマージナルなところに位置する人々を、バッシングしたり排除したりしない社会であろう。
しかしそのような社会を構築するためには、立憲民主党や共産党が唱えるように、直接、社会の周縁にいる人々を優遇する政策ではダメなのだ。それはリベラルから権威を付与された「特権的利害集団」(沖縄県民・在日外国人・身体障害者・同性愛者エトセトラ)をつくるだけである。
つまりリベラルは特定の誰か(例えばフェミニスト)を優遇して、特定の誰か(例えばアンチフェミニスト)を排除する。かくして分断と対立が煽られる。
結果、社会の周縁から社会的弱者が発生するシステムは、放置されたままだ。
そうではなく、まずは、国民の多くに生存権の恩恵を感じさせてあげなければならない。
そして国民の多くが「生存権」に感謝するとき、
国民はそれがあまねく社会の端の端にまでゆきわたっているかどうか、関心を抱くにちがいない。
そしてホームレスやいじめられっ子のケアを真剣に考え始めるにちがいない。
プレゼント
もうすぐクリスマスだ。
不思議なことに、ひとは贈り物をされると、誰かに贈り物をしたくなる。
自分だけプレゼントをもらって、誰にもプレゼントをしないひとは稀だ(財務省は稀な事例だ)。
日本国民は、国家の中心にいる選良からのプレゼントを期待していたが、期待はずれに終わったようだ。
でもプレゼントをもらえたら、ふつうのひとはそれを良い思い出とともに大事にすることだろう。僕が30年前に、ある女性からもらったプレゼントを未だに愛用しているように。