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テレビドラマ『交渉人』(米倉涼子主演)を観て ―孤独のなかのおとな、雑踏のなかの子ども


おまえなんか、いらない


アマゾンプライムがすすめてくれたので観てみる。
『交渉人』(2008年)。
第一回で心をわしづかみにされた。
米倉涼子演じる主人公が、まるで僕自身のように感じられたからである。

主人公は交渉人として特殊犯捜査係に配属されるが、同僚から邪険にされる。
上司から、わかってるんだろ、自分が歓迎されていないことぐらい、と怒鳴られ、
古株から、なんでそんなに交渉人のポストにこだわるの、と言われる。
その他大勢の婦人警官からも、冷たく扱われる。
要するに、配属されたその日から、早く辞めてくれ、と告げられたわけだ。

家に帰れば帰ったで、妹から、帰ってこなければいいのに、と舌打ちされる。

主人公は、周囲の人間の不寛容と無理解によって、存在を否定されたのだ。

僕は観ていて、「知っている、この感覚。経験あるよ」と思った。
例えば、君には日本は向いていない、フランスで暮らしたほうが良いよ、
と言われたことがある。
身のうえ話を一度もしたことが無い人物からである。いかにも親切心から言ってやっているんだみたいな感じで。
どうしてこんなことを言うのだろう?
いったい、僕がこのひとに対して何をしたというのだろう?
このひと個人に対しては、いかなる不利益も与えていないはずだ。
それなのに、土足で僕の人生に踏み込んで、ご忠告なんて、ひどいじゃあないか。
僕には僕の考えがある。
その考えに従って、僕は、いまここにいる。それだけだ-。

『交渉人』の主人公、米倉涼子は泣かない。
もしかしたら周囲からはふてぶてしい奴だと思われているのかもしれない。
ただ彼女はおとななのだ。過去に受けた傷の結果、彼女はおとななのだ。

子どもの犯罪


『交渉人2』(2009年)では、主人公の米倉涼子の交渉相手、すなわち立てこもり犯や誘拐犯にスポットがあたる。

犯罪者はしばしば「子ども」である。
ここで言う「子ども」とは実年齢の低さを示すのではない。

たいした社会的地位もなく、ふだんは雑踏に埋もれ、匿名に生きる野次馬たち。不寛容で、無責任で、視野が狭い、弱いひとたち。
そんな「子ども」の犯罪を描いている。

実際、雑踏のなかで戸惑う、主人公米倉涼子のアップが印象的であった。

もちろん「子ども」は「子ども」なりの正義感を持っている。
しかしそれはあまりにも独善的で、幼い。
他方、「子ども」は自分の弱さを自覚しているから、自分が傷つくリスクを避ける。
それゆえ他人を道具として使うことで、独善的な正義を達成しようとする。
傍から見れば、卑怯なだけだ。

例えば、ある人物が君に何か要求があるとする。
しかし君に直接、要求すると、拒否されるかもしれないリスクがある。
それゆえ、その人物は、君に影響力を持つ別のひとを介して、君に間接的に要求をする-。
その人物は事を穏便にすませようとしているだけかもしれないが、傍から見れば、卑怯なだけだ。

この種の「子ども」が現代社会には増殖した。
教育に責任があると言わざるを得ない。
そもそも教育者自身が「子ども」であることも、しばしば目にする。
残念だな。

そんなにたくさんのおとなが必要だとも思わない。
せめて社会の30%ぐらいがおとなだったら、いいねと思う。
孤独と不安と絶望が成長の糧だと信じて、強く生きていきたい。

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