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革命史からの、歴史批判

歴史が世界各地で争いを巻き起こしている。
革命史家の立場から、この問題を考えてみた。


ふつうの歴史家と革命史家


革命は過去と決別し、未来を拓こうとする。
もちろん過去と完全に決別することは不可能である。
それでも革命は過去と断絶したいという意思を尊重する。

ふつうの歴史家は言う、「歴史は繰り返す」。
しかし革命史家は言う、「歴史は繰り返されてはならない」。

ふつうの歴史家は、神社仏閣教会の保存と維持に気をつかい、過去を大事にせよと言う。
しかし革命史家は、過去を廃棄しようとした革命という過去を大事にせよと言う。

ふつうの歴史家は、現代の歴史的被制約性に注目して、過去の流れに従うことを説く。
しかし革命史家は、現代の歴史的被制約性に注目することこそが、過去の鎖からの解放につながると考える。過去から解放されるためには、まず自分がどのような鎖にとらわれているのかを明らかにすることが大事だと考える。


ロシアのプーチンはふつうの歴史家のひとりだ。
彼はユーラシアにはユーラシア特有の歴史があって、大事なのはその流れにとどまることだと考える。だから彼は自らをピョートル大帝の後継者だとみなす。
僕は革命史家なので、彼とは意見が違うが、それでもそれなりに「ご立派な」歴史認識の持ち主だとは思う。
歴史を語らない極東の島国の政治家に比較すれば。
歴史学は政治にアンガジェすべきではないなどと言っている学校の先生に比較すれば。

政治にアンガジェしない歴史家は、ただの「歴史オタク」にすぎない。
もちろん政治にアンガジェしすぎて、自説に固執してはいけないけれども。ただ政治にアンガジェしなくても、プライドが高い先生は自説に固執するから、政治へのアンガジェはあんまり関係ないとも思う。


ふつうの歴史家による普遍主義批判


プーチンは冷戦後のグローバル化に反対するかたちで現れた。
そもそもグローバル化とは資本主義の世界化である。
それは、世界のすべてを均しく商品だとみなす、市場中心主義である。

このグローバル化の先頭に立ったのはアメリカであった。
ただアメリカはずるがしこかった。
グローバル化を、自由民主主義でラッピングしたのだ。
しかし自由民主主義とは、人類は普遍的にみんな兄弟だとみなす、人間中心主義である。
それゆえ市場中心主義は人間中心主義によってくるまれ、一緒くたにされたのだ。
本来はぜんぜん違うものなのに。

さてこのアメリカの流れに対抗したい人々が頼ったのが、まさにふつうの歴史家であった。
ふつうの歴史家は自国の歴史的特殊性を訴え、それはグローバル化になじまないと唱えた。
そもそも自分とは違う宗教の人間と「兄弟」だなんて気持ち悪いと普遍主義に反対した。


革命史家によるふつうの歴史家批判


しかしふつうの歴史家が唱道する特殊性は、原理的には、むしろグローバル化を補完するものにしかなりえない。ふつうの歴史家が唱える特殊性は容易に商品に成り下がる。理由は簡単で、特殊性は差異の体系だからである。あなたの国の特殊性は、その他の国々の特殊性との比較を通じて存在しうるものだから、あなたが自国の特殊性を強調すればするほど、その他の国々との競争はますますエスカレーションする。
そのとき、それぞれの特殊性は一対一のまさに均しいものになってしまう。分かりやすい例を引けば、ユダヤ教とイスラム教は争うことで、いずれもひとつの宗教にすぎないということになってしまう。それぞれの信徒の神への愛は無視される。

けれども注目すべきは、比較や選択の対象となりえない、かけがえのない固有の価値のはずだ。それは固有だからこそ、普遍性を持ちうる。
例えば中東で、固有名詞を持った、ある子供が空爆を受けて血まみれになっている写真を見て、私はその子とは違う宗教だけれども、涙を流す。そのとき顕在化するのが普遍性だ。人間としての涙だ。
その涙から思考をはじめて、その血まみれの子供の、比較不可能な命をそのまま全肯定して、平和な未来を築こうとする、それが革命史家である。
貴族もいない。平民もいない。それぞれの特殊な歴史は過去のものにすぎない。
いるのは市民=人間だ。それが普遍主義への展望を切り拓く。そこに未来がある。

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