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アニメ『薬屋のひとりごと』を観て -歴史のディテール

漫画や小説といったフィクションと歴史の関係について考えたい。
実を言うと、現在、私自身19世紀フランスの歴史小説を史料として読んでいる最中であって、この種の問題に関心がある。

何が目的なの

フィクションが歴史を扱うとき、なによりも重視すべきはその目的である。

例えば『薬屋のひとりごと』の舞台は、むかしむかしのアジアの大国の後宮である。しかし時代も場所も明記されてはいない。つまりディテールは無視されている。なぜなのか。
別言すれば、なぜ元禄の大奥ではいけないのか。なぜ革命前夜のヴェルサイユ宮殿ではいけないのか。

例えば手塚治虫の『火の鳥』では卑弥呼や平清盛が登場するが、主題は火の鳥という〈主人公〉の普遍性である。歴史は、火の鳥がいつでもどこでも人間の憧れであったことを主張するための、道具にすぎない。
だからディテールにおいて歴史の現実を無視することが許される。例えば源頼朝が電話を使うシーンがある。そんな滑稽が許されるのだ。

ディテールへのこだわり

反対にディテールにこだわるのが、漫画『チェーザレ 破壊の創造者』や映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ。

しかし『チェーザレ』に関して言えば、なぜそこまでリアルなディテールにこだわるのかが理解できない。人間ドラマが主題ならば、まずは登場人物の描写(性格・人生)にリアルを求めるほうが、建築物にリアルを求めるよりも大事ではないか。登場人物の顔がどれもこれも似ているが、これはリアリティに欠けるのではないか。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、パパとママの時代(1950年代)と現代っ子(1980年代)とのカルチャー・ギャップが主題だ。だからこそ50年代の文化を復元するために、小道具に力が入れられた。主題との必然的な関係があって、ディテールへのこだわりもまた生まれたのである。

まだよく分からない『薬屋のひとりごと』

さて『薬屋』はさほどディテールにこだわっているようには見えない。そこでまた冒頭の問題が想起される。なぜ、他の時代の他の国ではいけないのか。
そもそも『薬屋』の主題は何なのか。
〈迷信VS科学〉か、〈薬と毒の等価性〉か、〈アジア的男尊女卑の訴追〉か、それとも〈謎解きを楽しむこと〉か。
謎解きを楽しむために、DNA分析などが存在しない場所が必要であったのなら、無人島でじゅうぶんではないか。

わずらわしい時代考証から逃げているだけなのか。
だから時代と場所を明示しないのか。
「○○は史実とは異なる」式の、重箱の隅をつつく、歴史オタクの批判など、「これは漫画だ、なにが悪い」と突き飛ばせばよいだけだ。

まだ3つのエピソードしか観ていないので、断定的な評価は避けたい。
ただ歴史は、使い方次第では毒にも薬にもなる。
使用方法に注意してもらいたい。

歴史の重みの利用法

フィクションにおける歴史の使い道はいろいろある。
そのうちの一つを提示して、この記事を締めくくろう。

例えば、優れた作家は歴史的有名人を主人公にはしなかった。むしろ脇役として用いた。
ナポレオンは、スタンダールにおいてもバルザックにおいても、脇役に過ぎない。でもナポレオンを登場させることで、物語に緊張感が生まれる。舞台となる時代のリアリティが生まれる。

マリー・アントワネットも同様だ。シャンタル・トマも池田理代子も、アントワネットを脇役として使っている。しかしアントワネットと主人公の関係を追うことで、歴史に翻弄された主人公を描くことが可能になる。

たとえ主人公を、自分自身を投影させることができる〈ふつうのひと〉に設定するとしても、歴史を脇役あるいは背景として使うことによって、自分自身もまた歴史から影響を受ける歴史上の人物なのだと主張できるようになる。
別言すれば、自分は決して歴史の外野にいる野次馬ではないと主張できる。


『薬屋』の主人公マオマオは、ソバカスだ。
ソバカスと言えば『キャンディ・キャンディ』だが、あの作品は決して歴史を無視していなかった。ちゃんと第1次世界大戦を描いていた。ドイツ軍との戦いにおけるステアの死は物語にリアリティを与えた。

『薬屋』は、周縁蛮族との戦いに、どのような意味を与えるつもりなのだろう。
蛮族の名前すら明記されないとき、物語全体の信憑性すら薄くなるのではなかろうか。そしてそれは薬屋の知識の信憑性への疑念に発展しないだろうか。
描かれる花々があれほどまでに写実的なのに、どうして時代設定は曖昧であやふやなのだろう。

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