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アルジェリア戦争×映画

『アルジェの戦い』は傑作だったけど

アルジェリア戦争(1954年-62年)を主題とした映画に関して言えば、『アルジェの戦い』(1966年)より右に出るものが無いように思われる。
『アルジェの戦い』が傑作だったのは、ドキュメンタリー風の手法を用いて客観性の格好をとった点が、功を奏したからだろう。
例えば裕福な白人による貧しいアルジェリア人への差別を映像にした。差別は日常的だけれども、ふつうならば(=本当のドキュメンタリーならば)撮ることが難しい。それを映画(=フィクション)によって映像化した点がよかった。
あるいはフランス軍による拷問のシーン。ふつうならば拷問を撮ることなど不可能なわけだが、それを映画によって再現した。まさに映画だからこそできることにこだわったのだ。あまりにも衝撃的だったので、以後、〈アルジェリア戦争=拷問〉というステレオタイプが発生するほどであった。

ところが『アルジェの戦い』以降、これを越える映画が無い。
フランス映画で、無い。
(『アルジェの戦い』はイタリア映画である。)

アルジェリア戦争=ベトナム戦争か???

アメリカには優れたベトナム戦争映画が多い。
『地獄の黙示録』(1979年)や、『プラトーン』(1986年)である。
『地獄の黙示録』は「西洋文明というもの」をカーツ大佐という架空の人物に象徴させたところが素晴らしかった。カーツの苦悩と残虐性は、「西洋文明というもの」の苦悩と残虐性であった。
『プラトーン』はふつうの兵士がベトナム戦争とは何だったのかと悩む話である。戦争という高度に政治的な問題を、ふつうの若者目線で考えたところに独自性があった。

近年のフランスのアルジェリア戦争映画には、これら二つのアメリカ映画の影響が強く感じられる。
例えば『いのちの戦場―アルジェリア1959』(2007年)では主人公が、『プラトーン』のように、アルジェリア戦争の道徳性に悩む。
けれども植民地戦争なのだから、フランスの方が悪いに決まっているではないか。

また『ラスト・コマンドー』(2019年)では、『地獄の黙示録』のカーツ大佐を想起させる、フランス軍からアルジェリアに寝返った大佐が「ラスボス」として出てくる。このラスボスと戦う主人公の設定は、もともとはドイツ人だったが、フランス軍に入ってインドシナ戦争で功績をあげて、フランス国籍を獲得した人物である。またこの主人公の伴侶はベトナムからもラオスからも迫害されたモン族出身の女性である。そして主人公の部下の黒人兵の父親はセネガル狙撃兵として第一次世界大戦で活躍した。他にもナチスと戦ったアラブ人などなど、20世紀の様々な戦争が登場人物にわんさか詰め込まれて表象されている。

そして結局、戦争はどっちもどっちだ、どちらの陣営にも裏切りと虐殺と拷問と弱い者いじめがある、あらゆる戦争は悲劇なのだ、戦争そのものが狂気なのだ、それに関わったものはみんな傷つくのだという、ありきたりな結論で話は終わる。
しかしそれはアルジェリア戦争をあまりにも短絡的に一般化してはいないか。一般化すればわかりやすいかもしれないが、その前に、アルジェリア戦争の複雑さにもっと肉薄した方がよかったのではないか。そして戦争を表現するための、映画というメディアの可能性を追求した方がよかったのではないか。何せテーマは本当に在った戦争なのだ。マカロニウエスタンではない。

アルジェリア戦争の独自性

おそらくフランス・アルジェリア関係を、アメリカ・ベトナム関係と同じようなものとして見るのは間違えている。アルジェリアは1830年からおよそ130年間、フランスの植民地であった。この年月の重さがポイントである。
付き合ってきた年月が長いほど、簡単に関係は切れない。

譬えて言えば、21世紀にアイヌが北海道独立戦争をはじめるようなものではなかろうか。
もしも新渡戸稲造も夕張炭鉱も『北の国から』もポテチもラーメンも、つまり北海道と本土の交流の結果である文物すべてが否定されたとしたら、どうだろう。

そんな経験がフランス・アルジェリア関係の背景には在るのではなかろうか。
私は130年の〈歴史の重み〉を感じさせるアルジェリア戦争映画を待望する。

蛇足

それにしても『ラスト・コマンドー』という日本語タイトルはひどすぎる。フランス語タイトルは国歌『ラ・マルセイエーズ』の一節から採った『不純な血をQu’un sang impur』だ。
配給会社には自らが文化というものに携わっていることを自覚してもらいたい。

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