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初心者のための批評入門

ネットでは多くのひとが映画批評、音楽批評、ラーメン批評など、批評文を書いている。でもそれがそれだけで独立した〈作品〉になっていることは稀だ。批評文はそれを書くことで、自分を見つめなおすと同時に、また読者にも有益な何かを提供できたほうがよい。そこで二点ほど、私自身が映画感想文を書くときに注意していることをあげておきたい。
 

ないものねだりをしない

豆腐屋に行ってトンカツを注文することがナンセンスなのと同様に、ある映画に自分が期待していたものがなかったからといって、こけおろすのは無意味だ。
 
例えば『大怪獣のあとしまつ』(三木聡監督、2022年)という映画がある。怪獣の死体処理を主題とした、所謂「怪獣もの」のパロディだ。つまりコメディである。
しかしこの映画への批評として、「自分は『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督、2016年)みたいなハードでシリアスなSFを期待して観に行ったのに、期待外れだった」と記すのは如何なものだろうか。
ふつう、三木聡に、つまりあのテレビドラマ『時効警察』の監督に、ハードでシリアスなSFを期待するだろうか。期待する方が間違えてはいないか。
ある監督がAを撮りBを撮らなかったとき、Bを撮らなかったことを非難しても何も始まらない。むしろAを撮ってBを撮らなかったという、その選択によってあらわになったことに注目した方がよいだろう。
 

ありきたりをやめる

ネット上の映画批評はしばしばあまりにもありきたりで、書いた人間の個性が表現されていないだけでなく、読者に新しい視点を提供するものにもなっていない。
例えば『パッセンジャーズ』(2008年)のレビューでは、大抵、クライマックスのどんでん返しとアン・ハサウェイの美しさだけが話題にされる。しかし果たしてこの映画はそれしか話題がないのか。
実際、もっとこの映画の「絵」に注目したっていいはずだ。主人公を取り巻く世界の異様な暗さ。主人公の働くカウンセリングルーム、主人公の暮らすアパート、主人公の姉の住む街は、どれも寒そうで、孤独感と閉塞感にみちていて、どんよりとした青灰色の暗さでおおわれている。夜のカウンセリングルームなど、あまりにも寂しくて、エドワード・ホッパーの絵画を想起させる。
もしもこの暗さに意味があるとしたら、どうだろう。それが大切なものをなくした人々の退屈な日常を表現しているとしたら。
 
あるいは、映画『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(1992年)のレビューでは、大抵、「アル・パチーノの演技がすごい」と記される。しかしそんなことは誰だって知っている。なぜわざわざ書く必要があるのだろう。
もしもアル・パチーノが演じた盲目の退役軍人フランクに魅せられたならば、フランクについて掘り下げた批評を書いてみてほしい。なぜフランクはあそこまで女性に執着するのか、フランクにとって女性とは何なのか。そんな批評を書いてもよいはずだ。
 

人物評

以上で指摘したことは、映画評だけでなく、ふつうの人物評についてもあてはまるだろう。
例えば自分の奥さんを「女のくせに愛嬌がない」と批評したとする。
しかしそれは「ないものねだり」になってはいないだろうか。そもそもXX染色体の保有者だからといって必ずしも常に愛嬌が装備されているとは限らないのではないか。私の個人的経験から言わせてもらうなら、女に愛嬌を求めるのは、豆腐屋にトンカツを求めるようなものだ。実際、愛嬌よりは度胸のある女性の方が多いと思う。
 
あるいは、自分の旦那さんを「あのひとはやさしい」と批評したとする。
しかしそれはあまりにも「ありきたり」すぎないか。その程度の観察眼で、いったい彼のことをどこまで理解していると言えるのか。
ひとりの人間を知るとは、そのひとの内面に潜ることだ。秘められた内面は豊かで、夜空の星々のように多様な情報が散在している。その幾千もの星のなかから、大抵のひとは気にも留めないけど、妙に気になる一個の星にひきよせられたとしたら、それは他の誰でもないあなたが、あなただけの「あのひと」にめぐりあえたということなのだ。
 
例えば、もしも誰かが君のカノジョさんを指さしながら「あんなへらへらした浮気性の尻軽女のどこがいいの?」と質問したとして、「おまえには分からないかもしれないけど、ああ見えて、けっこう、いいとこあるんだぜ」と答えられたとしたら、君は最高の青春をおくっていると言っても過言ではないのだ。
あとはその「いいとこ」を、誰にでもわかりやすい言葉にするだけだ。
がんばって!

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