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【雑文】北欧の神秘のせいで落ち込んだ話

先日、友人とSOMPO美術館の「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画展」に行った。

魅惑的で素敵な展示会だったのだが、帰ってからしばらく、私は落ち込んでいた。

なぜかというと――

現地の神話をもとにした絵画を集めたコーナーがあって。

その解説文で、神話の一部分が紹介されていて。

「面白そうだから、もうちょっと北欧神話のことを調べてみようかな」と思った時、中学生時代の記憶が蘇ってきた。「そういえば私、神話の本を読むのって、めっちゃ好きだったなー」と。

生んだばっかりのこどもを海に流したりとか、死んだ妻を旦那が黄泉まで追いかけていったもののゾンビ化した妻の姿にびびって逃げ返ってきたりしてる、ひっどい夫婦から始まっている日本神話とか。

ほぼ全員が我欲や私怨で他人(他神)に迷惑かけまくってるろくでもない連中ばっかりのギリシャ神話とか。

中学生の私は、とにかく面白がって、図書館で本を借りて読みまくっていたのだった。

その頃の自分の心の状態を思い返してみると、気になることの情報に触れる、知識が頭に入っていく、ただそれがもう楽しくて楽しくて。その時間は、そのインプット行為を続けること以外、なーんも考えていなかった。

でも、今の私が、北欧神話について文献を入手して読み始めたとしたら。

絶対に、あの頃と同じ状態にはなれない。

「〇日に仕事の〆切があるから、〇日の〇時頃までに読み終えよう。終わらなくてもいったん本を閉じて仕事に取りかかろう」と、頭の片隅で考えながら読むに違いない。

‟終わり“を意識しないで何かに没頭することなんて、今の私はもう絶対、できないんだ。

それがすごく悔しくて。

今の私は、図書館で借りて返すのじゃなくて、自分で購入して好きに書き込んだりページを折ったりすることができるようになったというのに。

ものすごくものすごく大きなものを失ってしまっているのだと思って。

かなり落ち込んでいたのだ。

でも、さっき、ふと気づいた。

‟終わり“を意識せずにあれやこれやに没頭していた時間は、結局、ぜんぶ、終わってる。

それは、あの頃の私には結局、「学校に行く時間」「親が作ったご飯を食べる時間」「布団に入らないと怒られる(もしくは心配される)時間」が外的要因としてあったからだ。

当時の私が‟終わり“を意識する必要がなかったのは、どのみち、大人から強制的に終わらされる立場だったからだ。

今の私が、何をするにつけても‟終わり“を意識せずにはいられないのは、自分で‟終わり”を決める自由を手に入れているからだ。

ガチでその気になれば、終わらないままで死ぬ(仕事の〆切を破って社会的に死ぬことも含む)。それも自由なんだ。

今の自分、すげー。

というわけで、落ち込むことなんかなんもないやん、と気づき、V字復活したのでした。

おしまい。

※画像は、撮影可のコーナーのもの。個人のSNSでの公開もOKとのこと確認済みです。

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