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[短編小説] 笹かまぼこと少女

 東京駅で東北・上越・北陸新幹線と表示された改札口を見つけた時には、思わずほっとした。
 実は今まで、ぼくが一人で乗車したことがあるのは、東海道新幹線だけなのだ。だから歳月を重ねるごとに複雑さを増す東京駅で、方向音痴のぼくが“無事に東北新幹線の改札を見つけることができるのか”という心配は、昨晩の家族会議における最重要議題だった。
 いや、家族会議というのは大げさかもしれない。なぜならリビングのテーブルに座っていたのは、二人だけだったのだから。東北大学の学生である娘は、タブレット端末を通じてビデオ会議で参加していた。自動応答に設定しているから、娘の方からかけてくるだけで、自動的にビデオ通話が開始される。機械音痴の母親は大喜びな仕掛けである。
 それはさておき、あっさりと新幹線の改札口を見つけることができたのは、本当にありがたいことだった。なにしろ自宅の最寄り駅から大手町までは直通電車が走っているとはいえ、大手町から東京駅までは相当歩く必要がある。まあ直通電車といっても一時間ほどかかるから、固まった体をほぐすのには丁度良い運動だろうと言われると否定はできない。ただしその上さらに迷子になって歩き回れば、さすがに少し歩き過ぎというものだろう。
 それに時間もあまり余裕がなかった。弁当を調達した後で単三電池を購入しようとしていたら、もうホームに電車が入って来そうな頃合いとなってしまった。
 ぼくは小心者なので、さっそくホームへと移動する。ちょうど新幹線の車両が入ってくるところだった。
「おや、松川さんじゃないですか。予想外な場所でお会いしますね」
 ホームに入ってくる電車の音にかきけされないことを気にしてか、後ろから大きな声がした。
 振り返ってみると、そこには見知った顔があった。
「砂川さん! 仙台へ行くのですか」
 思わずびっくりして、当たり前のことを尋ねてしまった。砂川氏はF社の社員で、今は東工大こと東京工業大学、東北大学、理研と一緒に大規模言語モデルの開発手法を共同研究している。彼とぼくは、生成AIスーパーコンピューター向けストレージの標準化団体で顔なじみだった。最近流行のChatGPTなども生成AIスーパーコンピューター――つまり人工知能の一つに分類される。
 実はけっこう、コンピューター向けストレージ業界というのは、狭い業界なのである。
「ええ、見つかっちゃいましたね」
 見つかったも何も、声をかけてきたのは彼である。しかしこういうほがらかな性格が、彼に好感を感じる理由の一つだった。
「東北大学のある仙台へ行くのは、新幹線が一番便利ですからね。おつかれさまです」
「ほんとうに。松川さんも東北大学へ仕事の用事で?」
 ぼくは笑いながら、大きく首を横に振った。
「いや、仕事だったら、こんなところを堂々と歩いていませんよ。予算節約令も厳しい折、湘南新宿ラインで宇都宮まで行き、そこから東北新幹線に乗っていたんじゃないかな」
 もちろん冗談である。たしかに会社から予算節約は、厳しく通達されているけれど。
 彼も笑いながら、尋ねてきた。
「それでは、どうして東北新幹線に?」
 僕も顔が緩むのを感じつつ、返事をした。
「いえね、娘が東北大学の学生なんです。たまには向こうを紹介してくれるということで、これから会いに行くんですよ」
「へえー、いいですね――」
 砂川氏、少しだけ羨ましそうな表情になった。彼はまだ結婚して数年で、子供たちは小学生や幼稚園なのだ。
「いつか余裕ができたら、団体のみんなで、東北散策しましょう。研究も興味深いし」
「悪くないですね。それじゃあ、そろそろ」
 そういって、僕たちは別れた。

 一人になることができたのは、ありがたいことだった。たぶん砂川氏も同じだろう。
 東北新幹線を使えば、東京から東北大学のある仙台まで九十分たらずで着いてしまう。のんびりと弁当を食べて、ひと眠りしたら、もう仙台なのだ。
 ただし残念ながら、締め切りの近い仕事がある。車内では小型ワードプロセッサーで原稿を作成するのに追われてしまった。画面は小さいが、キーボードは普通サイズだ。単三電池を購入したのは、この予備用だった。
 砂川氏は砂川氏で、多分パソコンを開いて仕事をしていることだろう。ただしあちらは内蔵バッテリーで動作することもあり、こまめな充電が必要となる。抜け目のない彼なら、コンセントのある座席を選んでいるかもしれない。何度も東北大学を訪問しているだろうから、電源で心配することはないだろう。
 ぼくはと言えば、今回が初めての先代行きだ。どうしても慎重になってしまう。
 実はぼくの父親は東北大学の数学科を卒業しているが、それは大昔の話だ。なんでもドラム缶の風呂に入ったという逸話を聞いたような記憶があるけれども、第二次世界大戦で子供時代に疎開した時の話と混同しているのかもしれない。ともかく、今とは比較にならない大昔のことだ。そもそも同窓会にでかけるたびに、お土産は笹かまぼこだった。最近では新しい土産品も生まれているだろうに、時代の変化に取り残されていた。
 ちなみに知り合いで最も最近に仙台にいたのは、高校時代の後輩になる。彼女も東北大学の出身で、青葉山キャンパスというところだったと聞いた記憶がある。ぼくと同じくメーカーに就職したけれども、今は結婚してロンドン駐在となっている。最近は全く年賀状をやりとりすることも無くなった。
 それにぼくの娘が大学生しているくらいだから、彼女も相当な年齢だ。「彼女も大昔に仙台にいた」といっても、怒られることはない――と、思う。おそらく、たぶん。
 なお義母は東北生まれの東北育ちだけれども、山形県の出身だ。昨晩の我が家のメニューも芋煮で、太平洋側とは縁がない。いや、ぼくはさんざん常磐線のお世話になったけれど、これは東北地方までは続いてない。
 あれこれ考えても仕方がない。目先のやることに集中しよう。
 そんなこんなで一仕事終える頃には、もう仙台は間近だった。ペットボトルに残ったお茶を飲み干し、下車の準備を始めた。はじめて目にする車中からの光景に、ようやく旅行にやって来たという気分になって来た。

 新幹線を降りると、そのまま改札を出て、待ち合わせ場所であるステンドグラスへと向かう。
 それにしても初めての仙台駅、堂々たる威容である。ぼくは新横浜駅や小田原駅を利用することが多いけれども、エラい違いである。広いし、綺麗だし、人も多い。とりあえず人にぶつからないように注意をして、ようやく待ち合わせ場所のステングラス前へと辿りついた。ここで間違いないだろうと確認し、まだ娘の梨香が到着していないことが分かって、ステンドグラスを背にして、娘がやって来るのを待つことにした。どうやら有名な待ち合わせスポットらしく、他にも同じようにステンドグラスを背にしている人が多かった。
 しかしぼくの到着時間はわかっているはずなのに、彼女がやって来る気配が全く感じらない。大人の女性になって、支度に時間がかかるようになったのだろうか。知らない場所に一人で立っているというのは、不惑のおっさんにしても少し不安感を持ってしまう。
 などと感慨というか空想にふけっていたら、ズボンの左膝のあたりに引っかかりを覚えた。あらら、ステンドグラスを保護する柵にでも、ズボンが引っかかったかな?
 いや、なんだか引っ張られるような感覚だ。
 首を捻ってズボンの方に視線を向けて、ようやく変な感覚の理由が分かった。
 まだ小さな女の子が、小さな右手で、ぼくのズボンを握っていたのである。
 あわてて周囲を見回したけれども、保護者らしき人は見当たらない。女の子は、まっすぐ立って、前の方を黙って見ていた。
 これはもしかして迷子というやつか? しかしそれにしても女の子、落ち着いている。どうも状況がよく分からない――
「お父さん、お待たせ! って、何をやっているの?」
 声のする方向を向くと、娘の梨香が立っていた。数か月ぶりにあったばかりだけれども、妙に大人びて見える。自宅で引きこもりしている時と、大学のキャンパスを歩き回る時は違うのだろうか。いや、今はそんなことに感心している場合じゃない。
「何しているのって、父さんが聞きたいくらいだよ。迷子かな?」
「知らない子なのね?」
「もちろん知らない子だ。気がついたら、ズボンを握られていた」
「だぶだぶで、握りやすそうではあるわね」
「そういう話じゃないだろ」
 子供にしては強い力で握っているので、引きはがすのもかわいそうだ。そう思っていると、理香が目線を子供に合わせるように腰を折って座り、話しかけた。
「こんにちは、お嬢さん。お父さんかお母さんと待ち合わせしているの?」
 子供は無言で、首を横に振った。理香は笑顔を作って、問いかけを続けた。
「名前は、なんていうのかなー」
 少し戸惑ったような表情になって、女の子は声を出した。
「さや」
「さやちゃんかー」
 こっくりと、女の子はうなずいた。
「どうしてここにいるのかな。お買い物とか、電車でどこかに行くことになっているのかな」
「ここに立っているように言われたから」
「言われたって――誰に言われたのかな?」
「ママ」
 僕と娘は、お互いに顔を見あわせた。立っているように言われたけど、待ち合わせではない? まさか今時、捨て子もないだろう。
 ともかく、このままではラチがあかない。
「理香、すまないけど駅員さんとか警備員さんを呼んできて貰えるかな」
 彼女はしばらく考え込んでいるようだったが、やがて口を開いた。
「そうね。単なる待ち合わせで、親がすぐに来るかもしれないけど、念のために駅員さんに声をかけても悪くなさそうね。ちょっと待っててね」
 そういうと、我が娘は人ごみの中へと消えていった。

 十分くらい二人で棒立ちをしていたら、梨香は駅員たちを連れて戻って来た。しかしその間も、子供の保護者は姿を見せなかった。
 そして駅員がいろいろ質問しようとしても、有益な情報は得られなかった。住んでいるところは「ちかく」だそうだけれども、具体的な場所は自分では分からず、帰り道は知らないとのことだった。名前も「さや」というだけで、苗字は分からなかった。なぜだろう。
 たしかに身に着けている服などにも、”さや”という刺繍があるだけだった。少なくとも公衆の面前で確認できる範囲では、苗字を見つけることはできなかった。これには全員が困ってしまった。
 仙台駅の構内アナウンスが役に立たなかったのは、言うまでもないことだ。
 ぼくとしては、もはやお手上げだ。理香も同じくお手上げだ。
 結局のところ、駅側で保護するということになった。
「かわいそうだけれど、仕方ないわね。早くご両親が見つかるといいわね」
「何がどうなっているか分からないけれども、そうだろうな」
 捨て子というのには、何かが違っているような気がする。そもそも小さな子が親とはぐれているのに、泣いている様子を見せない。それなりに長く生きて来たけれども、はじめての経験だ。変わった子供である。
 あまり良くない想像をするのは建設的でないと思ったのか、理香が話しかけてきた。
「まあお父さんにも限界はあるし、あの子のことも駅員さんたちや、場合によっては警察がなんとかしてくれるでしょう。これから泊まるところに案内するわ」
「そうだな。お願いするよ」
 そんな会話を交わしながら、後ろ髪を引かれるように、駅を後にしたのだった。

 理香が予約してくれたのは、仙台駅から徒歩で行ける旅館だった。
 さすがは我が娘である。
 ぼくは高所恐怖症の上に、閉所恐怖症的な傾向がある。「日頃は四畳半に引きこもっている人が何を言ってるんですか」と笑われてしまいそうだけれども、都市型ホテルはあんまり得意ではないのだ。学生時代には、東京都の杉並区に半年ほど下宿してみたことがあるけれど、狭い道路と密集した建物ばかりという閉塞感のために区民にはなれなかった。
 料金も手頃だった。手早くチェックインを済ませ、部屋へと案内された。
「じゃ、あたしは用事あるから、またあした。九時には出かける準備を済ませておいてね」
 そういうと、彼女は後ろを振り返ることもなく、部屋から出て行った。
 ぼくはというと、それから小一時間ほど、電車の中でやりかけていた仕事に取り組んだ。落ち着いた部屋の方が効率的なのは確かで、さくさくと無事に片付けることが出来た。
 その後、さっそく風呂へと向かった。人工ではあるけれども、ともかく温泉があるのは嬉しいことだった。
 大して疲れていないけれども、いや、さやちゃん騒動で相当消耗したのかもしれないが、久しぶりの温泉は格別だった。
 別に温泉の効能が好きではなくて、温泉の雰囲気が気に入っている。人工なのか天然なのかは、大した違いではなかった。
 やれやれ、リラックスできた――そういう気持ちを楽しめたのは、部屋に戻ってから五分間だけだった。
 部屋に備え付けられた電話が鳴り、受話器を取り上げるとフロントからだった。
「あの、お嬢様を名乗る方がいらっしゃっているのですが、フロントまでご足労いただけませんでしょうか」
「フロントまで?」
 学生証を見せれば松川里香だと証明できる。そもそも彼女が予約してくれた旅館で、先ほどは部屋までやって来ていた。普通は「お部屋へお通ししてもよろしいでしょうか」だと思うけど、何かあったのだろうか?
 その疑問は、フロントへ辿り着いた時に判明した。
 驚いたことに、あのさやちゃんが受付前に、一人で立っていたのだ。
 なぜここが分かった? いや、それ以前に、なぜ駅員に引き取られたのに、一人でいる?
 僕は当惑を隠しきれなかった。フロントのスタッフも、当惑しているようだった。
「『お父さんの松川正明さんの部屋へ案内してほしい』と申し受けしましたが、どうしたものか判断に困りまして……」
 うん、そうだろう。気持ちはわかる。僕も判断に困っている。
 とりあえず、さやちゃんの近くまで行って膝を折り、彼女にゆっくりと話しかける。
「こんにちは」
「こんにちは」
 おや、今度は最初から返事が返ってくる。ちょっと無表情なのが気になるけれども、悪くなさそうな反応だ。
「さっき駅員さんたちと一緒に行ったけど、お父さんか、お母さんとは会えたかな?」
 少し大きめの声で質問する。状況を把握する前に、まずフロントの人々に、ぼくが何かに巻きまれているということを知っていただくことが、質問の目的だ。
 彼女は大きく、首を横に振った。
「どうしてここに来たのかな?」
「お父さんがいるから」
 ん、なにやら背後に、フロントからの冷ややか空気を感じるような気がする。気のせいかな?
「そうかあ。ところで、どうしてここにぼくがいると分かったの?」
 重要にして核心をつく質問だけれども、やぶへびだったらしい。
 彼女はいきなり、泣き出してしまっただ。
「うわーん――」
 泣く子と地頭には勝てないという。ぼくは慌てて、さやちゃんを抱っこした。あれっ、久しぶりのせいかもしれないけれども、異様に重く感じる。筋肉が衰えてしまったか?
「よしよし、大変だったね――」
 理香が子供時代は小柄だったせいか、ともかく異様に重く感じる。まるで”子泣き爺”を抱っこしているような感覚だ。
 ともかく、このままじゃマズい。
 僕は瞬時に思考を巡らせ、フロントの方へ振り向いた。
「この近所で大きな警察署はどこでしょうか」
「仙台中央警察署ですね。ここからだと車で五分くらいです」
「助かります。それじゃ、タクシーを一台お願いできますでしょうか」
 察しの良いスタッフで、本当に助かった。泣いている小さな子供を、交番に連れて行っても、たぶんラチがあかない。まだ平日の夕方前だし、青少年対応する人たちのいる警察署の方が良いだろう」
 幸い、ぼくが抱っこしたら数分で、彼女は大人しくなった。そして嬉しいことに、タクシーもすぐにやって来てくれた。ぼくはさやちゃんを連れて、仙台中央警察署へと向かった。

 それから一時間後、ぼくは再び温泉に入っていた。
 幸いにして仙台中央警察署では、すぐに生活安全課というところへ案内された。事の次第を説明して、彼女を引き取って貰うのは十五分くらいで終わった。最初の五分で仙台駅の担当部署と繋がって、十分後には、目を離した隙に消えてしまったことが分かった。残りの五分は、手続き書類への記入である。
 帰りは一人なので、スマホの地図を頼りに歩いて帰った。関係ないけど、駅の反対側には、アンパンマンこどもミュージアムがあることに驚かされた。これって、今まで横浜のみなとみらいだけにあるのかと勘違いしていた。さすがは仙台である。
 地図は手元にあったし、何より仙台は道が分かりやすかった。三十分もかからずして、旅館へ戻ることができた。
 そうしてぼくは、再び湯船に浸かっていた。どうしてぼくの宿泊先が分かったのかは謎だったけれども、もしかしたら旅館へ移動する際に、さやちゃんに見つけられてしまったのかもしれない。
 少し無理があるけれども、それ以外に思いつく理由はなかった。
 体が温まると、湯船から出て、部屋へと戻った。本来は次の仕事が控えているので、二度目の温泉はその仕事に区切りがついてからにしたかった。しかしぼくのメンタルは、自分でいうのも何だけど、あまり強くない。
 まずはひと風呂あびて、心身をリフレッシュすることが必要だった。
 わざわざ少しでも仕事を出先で片付けるために、ワードプロセッサーと予備の単三電池まで用意したのだ。風呂で一段落すると、ぼくは早速仕事を始めた。そして五分後――
 ふたたびフロントからの電話が鳴り響いた。イヤな予感がして、おそるおそると、受話器を取る。
「あの、松川様でしょうか。また小さなお子さまがいらっしゃっているのですが――」
「……わかりました。フロントへ伺います」
 歩きながら、混乱する頭を整理しようとした。いったい仙台駅も仙台警察も、何をしているのだろうか。
 フロントへ着くと、たしかに再び、さえちゃんが立っていた。ぼくが来たことに気づき、じっとこちらを見ている。
「…………」
 フロントにしてみれば、ぼくが仙台警察へ連れて行ったと説明しても、信用しきれないかもしれない。ぼくにしても、なんだか『一度あることは、二度ある』という気がしないでもない。
 そうすると、次の手は…………
「とりあえず、この子を部屋へ連れて行きましょう。今度は警察に、ご足労願うことを、お願いしてみることにします」
「承知いたしました」
 心なしか、フロントのスタッフはほっとしたように見えた。
 そしてぼくはさやちゃんの手を取って、部屋の方へ案内した。

「笹かまぼこ、食べるかい?」
 さやちゃんは、首を横にふった。
 やっぱりそうだよなあ…… お土産用に仙台駅で購入した笹かまぼこだけれども、仙台市民ならば知られた名産品かもしれないけど、子供の好物とは考えにくい。しかし部屋には、お菓子はなかった。こんなことなら、”おうちで旅行気分”で有名な某お菓子の仙台版を購入しておくのだった。しかし後悔役にたたず――もとい、後悔先に立たず、である。
 それにしても仙台警察に電話する前に、やれることはやっておくのが良さそうだった。
 どう考えても、さやちゃんが何度も何度も、ぼくのところに現れるのは変だ。『二度あることは三度ある』で、再び出現されてしまっては、たまらない。
 ただしどうやってここを見つけたのかを尋ねるのはマズそうだ。旅館中に響き渡るような大声で泣かれてはたまらない。他の質問も、できるだけ注意する必要があるだろう。
 兄弟や姉妹のことを尋ねても、小さな子には難しいかもしれない。役立つかも疑問だ。
「さやちゃんは、どこの幼稚園に通っているのかな?」
「幼稚園じゃないよ、保育園だよ」
「あ、ごめんね。保育園だったか。ふーん」
 そういえば娘の梨香も、小さい頃は幼稚園と言うたびに、保育園と言い返していたなあ。なつかしい。
「どこの保育園に行っているのかな」
「うーん、わかんない」
 おっと、これは想定外の反応だ。残念でもある。保育園の名前がわかれば、住所を絞り込みやすいんだけも……
「保育園の近くに、海はあるかな?」
 さやちゃん、少し小首をかしげてから答えてくれた。
「保育園の近くに海はないけど、学校の近くには海があるよ」
 えっ?
 たしか仙台駅から海までは十キロメートルくらい離れている。海の近くに学校って、地図を見せて尋ねてみた方が良いだろうか。
「学校の近くに海があって、恐くはない?
「?」
 さやちゃん、小首をかしげた。しまった、我ながら見当違いの質問をしてしまった。仕方がない。背景をフォローしておくか。
「海に近いと、津波なんかに注意する必要があるんだよ。避難訓練はしないのかな?」
「うん、そうだね―― 毎月だっけ。三階の高さは八メートルなんだよ」
 えっ? えっ?
 幼く見えるけど、どうやら彼女は小学生のようだ。うーん、年齢を見誤ったか。我ながら、子育てに加わったのに情けない。
 いや、驚くのは、そこじゃない。
 高さ八メートルというのは、我が神奈川県の湘南地方が慶弔時代以降に経験した津波の最大高さと殆ど同じなのだ。まあ海沿いの津波に備えるは日本共通だろうけれども、八メートルという表現は妙に引っかかる。
 どうして彼女、すらすらと八メールが出て来たのだろうか。
 まさか…………
「さやちゃん、アンパンマンこどもミュージアムには行ったことあるかな?」
「うん」
 こくり、と、彼女は頷いた。
「おうちから、どのくらいで行けるか、わかるかな?」
「……」
 考え込むように、小首をかしげている。かしげる角度も、先ほどと変わらない。
「そういえば、アンパンマンこどもミュージアムにはどうやって行っているのかな? 電車とか、バスとか、車とか……」
「……」
 今度は小首をかしげる仕草もない。どうも、移動手段という概念を持っていないようだ。
 これはもしかしたら、ひょっとしたら――

 僕はさやちゃんから視線を外し、天井の方を見た。そして声を大きめにして、何もないところに話しかけた。
「理香! 聞こえているかな? ここにいるなら今すぐ出て来てほしい。いないならば、電話などで連絡してほしい」
 ゴトゴトッ、と、何やら隣の部屋あたりから物音がした。
 そして待つこと一分。いたずらっぽい笑顔で、理香が現れた。驚いたことに、東京駅で別れた砂川氏も、理香に続いて現れた。

「だますような真似をして、ごめんなさい。お父さんを相手にして、どこまで通用するのか試してみたかったの」
 開口一番、部屋にある座卓(ざたく)に座った理香は、ぼくに向かって頭を下げた。なぜか隣に座った砂川氏も、同じように頭を下げた。
「つまり、さやちゃんはロボットで間違いないのかな?」
「うん、ロボット――正確にはアンドロイドだけどね」
「なるほどねえ」
 やれやれ、と、ぼくはため息をついた。どうやら最新テクノロジーというやつは、ぼくが想像していたよりも、はるかに進んでいるらしい。
 それにしても――さやちゃんは良くできている。気づいてみれば、人間よりも動作が若干ぎこちないように見えてくるけども、気づかなければ、まったくわからないだろう。
「それにしても――」
 理香は口を開いた。
「お父さんはどうして、さやちゃんがアンドロイドだと気づけたの? 忙しいのに申し訳ないけど、さやちゃんのプログラミングは私の卒業研究だから、ちゃんと理由を教えてほしいの」
「申し訳ありません。松川さん。実は弊社の共同研究、アンドロイドへの実装という段階まで進んでいたんです。松川さんなら、無理をお願いしても、ご協力いただけるかと思いまして」
 会社員である砂川氏は、再び神妙な面持ちで頭を下げた。たしかに、ライバル企業ではあるけれども、技術者というのは『持ちつ、持たれつ』という関係なのだ。会社員としてのお願いとなると、むげには断れない。
「…………」
 やれやれと、ぼくはひそかに溜息をついた。ここは真面目に説明するしかないだろう。
 理香が淹れてくれた湯のみの緑茶を一口すすって、ぼくは説明を始めた。
「まず、やっぱり、状況設定に無理があった」
 目の前の二人が、同時に頷いた。
「これは仕方がないだろう。ぼくと緊密に接する形で、ぼくに意識させずにテストを実行する必要がある。しかしまだ大人ほどのふるまいは難しいんだろうね。そうすると、旅館の仲居さんのような『大人の役割』では無理だし、教授のお子さんという設定で近寄られても、おたがいの接触は限定される。これが一番の泣き所だったんじゃないかな」
「その通りよ。みんなでいろいろと知恵を出し合ったけれども、結局は『迷子』にするのが一番だろうということになったの」
 ぼくは頷いた。その通りだろう。少なくともぼくも、同じアイディアしか出て来ない。
「そして具体的に変だと思ったのは、”八メートル”が出てきた時だ。さやちゃんは湘南地方の出身者から、知識を得たんじゃないかという考えが浮かんだ」
「それだけで?」
「いやその前に、保育園と幼稚園の違いへの拘りがあった。そういう拘りを強く持つのは子供で、実際に拘ったヤツが目の前にいる」
 てへっ、という感じで、彼女は下を出した。
「いや、AIの学習データには時間をかけたかったけど、今回は時間が足りなかったんだ。思ったよりも、地道で大変な作業ね」
「技術っていうのは、そういうものだ。研究や開発というのは、大抵は自分たちが思っているよりも時間が必要になる」
 うんうん、と、脇で砂川氏が頷いている。
「いちど疑いを持ってしまえば、あとは簡単だった。横浜のアンパンマンこどもミュージアム、大人のぼくでも道が分かりにくかった。お前をつれて歩いていくのに、けっこう苦労した記憶がある。だからさやちゃんがアンパンマンこどもミュージアムのことを知っているのに、具体的なアクセス方法を説明できないことも納得できた。しかしそれにしても、本当にしっかりとAIとして学習が実行されている。住んでいるところや親のことを答えられないのは、仕方ないだろう」
 理香も、うんうんと頷いた。
「初期学習が済んだ後だと、新しく別のの知識を植え付けるのって無理があるのよねえ」
「実際、よくできているよ。疑わなければ、首の動かし方がパターン化されているのにも気づけなかった」
「そういっていただけると光栄です」
 今度は砂川氏が返事をした。そこらへんは大学側よりも、会社の方が頑張っているみたいだ。姿勢制御プログラムもハードウェアも開発には苦労したのだろう。
「それから砂川さん、ハリウッドの特殊メイク技術あたりを導入したのですか?」
「その通りです。特殊メイク技術が進歩したおかげで、人間と人形の区別を付けるのは難しくなりました」
 道理で表情変化が乏しい訳である。
 その後も、十分以上のやりとりが続いた。仙台駅や仙台警察には、あらかじめ協力依頼がなされたとのことだった。知らぬは旅館のフロントスタッフとぼくくらい……だったという訳だ。
 お茶が冷めて来たタイミングで、僕は切り出した。
「だいたい以上のような感じだけれども、これで十分かな?」
 理香が大きく、首を縦に動かした。
「うん、すごく今後の参考になったわ。ありがとう」
「どういたしまして。ところでこの後の予定は、どうなっているのかな?」
 にやり、と、目の前の二人は頷いた。
 そして砂川氏が口を開いた。
「実はですね。さやちゃんがここまで成功をおさめたということで、今日は祝賀会を開催することになっているのです。もちろん当地自慢の牛タンも食べ放題です。よろしければ、いかがでしょうか」
 あこがれの仙台の牛タンが食べ放題のパーティー …… 親父が生きていたら、泣いて悔しがったかもしれない。
「いいですね、部外者で申し訳ありませんが、ぜひ参加させてください」

 ぼくの横では、さやちゃんが座ったまま、バッテリーから充電をしているようだった。どうやら彼女も参加することになるらしい。
 それにしても、彼女はロボット――いや、アンドロイドだった訳か。
 道理で抱きかかえた時に、異様に重かったハズだ。それにしても、自宅に持ち帰らせてほしいくらいだ。さぞ家庭がにぎやかになることだろう。娘が、元気に大学でがんばっていることは嬉しいけど、二人だけになった家庭は少し寂しいものである。

 そう思いながら、僕はかつて抱きかかえた娘が、見事に学生研究者として成長した姿に驚かされたのだった。

 (了)


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