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[掌編小説] わすれな草

「おっ、珍しく考え事をしているね」
「『珍しく』は余計だよ」
「そうかな?」
 ずけずけとした言い方で、ずかずかと僕の部屋に入って来た芹沢裕也はニヤリと笑った。全くもってして失礼なヤツだ。
 そして僕が昼寝用に調達した座椅子へと、遠慮なく座る。
 ジャケットのポケットに手を入れかけたが、ふと気がついたように動作を止めた。どうやら僕が煙草嫌いであることを考慮して、一服するのは遠慮したらしい。
 少しだけ気の毒になったので、机から立ち上がって冷蔵庫の方へ行った。よく冷えた缶コーヒーを取り出して、彼の方へと放った。
「サンキュ!」
 難なく缶コーヒーを受け止めると、流れるような動作でプシュッと開ける。その仕草が妙に色気があるというか、ともかく『絵になるヤツ』である。
 どうして彼が僕のところへ機会あるたびに遊びに来るのかは、不思議で仕方がない。お互い三十歳をとっくの昔に過ぎているけど、彼は若い女性が放っておかないだろう。
 束ねるほどではないけれども伸ばした髪に、明治時代の文豪たちが愛用したような丸眼鏡をかけている。典型的なイケメンであり、ある時は僕たちが『ただならぬ仲にある』と話題になったこともあるほどだ。
 そんな彼が一息つくのを待って、机のイスに座った僕は話しかけた。貧乏文士の狭い四畳半だから、彼とは二メートルも離れていない。
「で、今日は何の用事かな?」
「用事がないと、来てはダメかな?」
「ダメではないけれども、いきなり元気よく話しかけて来るというのは珍しいね。それで何か何か用事がありそうに思った訳さ。それで実際のところはどうなんだい?」
「ご明察。さすがは頼りになる僕の知恵袋だ。ただし今日はまず、君の話を聞こうじゃないか。僕の方は、大した用事じゃないよ」
「その『大した用事じゃない』に、なんど振り回されたことか」
「ははは。まあともかく、何を考えていたんだい?」
 タイミングを見計らったように、網戸にしていた窓から風が入ってきた。街路樹がざわざわと音を立てるのが聞こえてきた。
「こんな天気なので、昔のことを思い出していたのさ。学生時代には、こんな作家みたいな真似をするとは思っていなかったからね」
「僕は君が書くものは気に入っているよ」
「ありがとう……、こうやって暮らせているのも、みんなのおかげだからなあ」
「おやおや……、今日は驚くほどしおらしいじゃないか」
「失礼な……、いや……、その通りだよ。僕は恵まれているよなあ……って、思っていたのさ」
 それを聞くと、裕也は僕の目を覗き込んできた。目が笑っていた。
「なるほど、誰か恵まれていない人がいるのか」
 勘の鋭いヤツだ。
 いや、勘ではなくて、推測する力が優れているのだろう。おまけに他人のことを考えることのできるヤツなので、それが彼の明敏さを高めている。
「恵まれていない人というか、恵まれていなかった人のことを思い出していてね」
「恵まれていない人か」
「ああ。学生時代に親に文学部への進学を止められた子がいてね」
「へえーーー可愛かった?」
「それはモチロンーーって、何を言わせるんだ」
 くっくっくと、腹を押さえて彼は体をくの字型に曲げた。何が受けたのか、僕には全く分からない。
「いや、分かりやすいヤツだな。好きだったのかい?」
「今にして思えば、好きだったんだろうな」
「青春だねえ……、高校時代には気づかなかったのか。若いな」
「返す言葉がないよ」
 再び風が入ってきて、僕は外の新鮮な空気を吸った。彼は残りのコーヒーを飲み干した。
「それでどうして君は文学部への進学を止められていることを知ったんだい?」
「いつかは良く覚えていないけど、教室で話しかけられたのさ」
「なるほど」
 僕はイスに座っている、座椅子に座っている彼のつむじを見ながら、コイツも似たような経験があるんだろうなあーーと思いながら、話を続けた。
「彼女は僕に何を期待してんだろう……、唐変木だった僕には、今でもどうするのが良かったのか分からなくてね。あの時は話を聞いて『大変だね』と言うだけで精一杯だったよ」
「誰かに聞いてもらうだけでも、少しはストレス発散になるさ。彼女の話を聞いたのも、君だけじゃなかったんじゃないか」
「おそらくそうだろう」
「だったら、そんなに気にしなくても良いんじゃないか」
「いや、僕は彼女に大きな恩があってね……、世話になりっ放しで申し訳なく思っているんだ。だから今でも、あの時のことを忘れることができない」
「大きな恩?」
 僕は彼の目を見て、頷いた。
「こう見えても僕は赤面症でね。高校時代の僕は、人の目を見て会話することができなかった」
「高校時代……、誰も気にしなかったのかい?」
「一対一で会話したことが殆ど無かったんだよ。それで問題になることが無かった」
「なるほど」
「で、ある時に『私の目をちゃんと見て話して』と言われて、僕は相手の目を見て話せるようになった……。全てが変わったのは、彼女のおかげだと思っているよ」
「それは……」
 さすがの裕也も、少し驚いたらしい。
「言われてみれば、君は箸を使えなかったな。昔から変なところの多いヤツだと思っていたけれども、そういう面もあったのか」
「田舎暮らしの三人兄弟の長男だと、親は子供を構っている余裕なんか無かったのさ。箸の持ち方とか礼儀マナーなんか、全く教えられたことがない」
「なるほど……、で、話を戻すと、『可愛いお嬢さん』とはどうなったのかな?」
「何も無かったよ。だから今になって後悔している」
「付き合えば良かったと?」
「いや、そっちの話じゃない。何しろ僕は、彼女が好きだったとさえ気がつかなったんだぜ」
「たしかに……。しかし君はけっこうモテていたからなあ。もしかしたら彼女も、君に好意くらいは持っていたのかもね、悩みを話すくらいだから。いや、もったいなかった」
「だから後悔しているのは、そこじゃない。学校でも有数の知恵者だったのだから、もう少しアドバイスできたのに……、と、君がやって来るまで考えていたのさ」
「ちなみに彼女は文学部志望だったんだっけ……、親御さんは何を反対していたのかな?」
「大学は同じだけれども、経済学部へ推薦入学することを希望していた。文学部は実社会に出て役に立たないと考えていたらしい」
「へえー、大学に期待していたんだ」
 僕は頷いた。
「しかし考えてみれば、君も知っているように、僕の末の弟は文学部だ。部活の仲間にも、東大だけれども文学部へ進学したヤツがいる。クラスの担任の相談すれば、過去の進学実績や就職実績から、文学部でも悪くないと親を説得できたような気がするんだよ」
 それを聞いた彼は黙ったまま、前を向いていた。
 それから数滴しか残っていないはずの缶コーヒーを、できるだけ斜めにして最後まで飲み干そうとした。
 三分ほど沈黙した後、彼はようやく口を開いた。
「もしかしたら君、本当に好意を持たれていたのかもね」
「へっ?」
 意外なコメントに、思わず鳩が豆鉄砲を食らったような反応をしてしまう。
「だってさ……、考えてもみろよ。自分の進路だぜ。そのくらいのこと、先生に相談しなかったと思うか?」
「言われてみれば……」
「そういや君も先生から同じ大学に推薦入学できると勧められていたんだっけ?」
「ああ、成績は悪くなかったからね。ただし貧乏家庭で、選択肢になかったけど」
 彼はため息をついた。
「と、いうことはさあ、君は親に止められているグチを聞かされていたんじゃなくて、もしかしたら知恵者として、文学部と経済学部のどちらが良いかを相談されていたんじゃないかな?」
「その線はあるかもしれないな」
「さらに言うとだ……。女性の情報網ってのは大したものだから、君が推薦を得ることができるというのは筒抜けだったのかもしれない。で、『私と同じ大学に行かない?』と誘われたという可能性も、もしかしたらゼロじゃなかったんじゃないか?」
「!」
 彼の言うことに、僕は何も言い返すことは出来なかった。
 自分の視野に囚われて『ありえない』と決めつけることなく、あくまで自然科学的なアプローチでデータを重視し、できるだけ仮説検証に基づいて物事に取り組むのが知恵者である僕の本業だ。そうやって考えると、かなり飛躍しているので可能性は低そうだけれども、彼の最後の仮説も否定はできなかった。
「まあ、もう終わった話だ。あまり過去を思い返すのはやめておいた方が良くないかい」
「そうだね。それに君のおかげで、僕には解けなかった違和感がスッキリと解消したよ。あらためて礼を言うよ」
 ぼくは彼の目を見て、頷いた。
 そして彼の目を見て、彼が何かモノ言いたげなことに気がついた。
「何か言いたそうだね。今日の訪問の目的に関する話かな?」
 それを聞くと、彼はニヤリと笑った。
「君も学生時代から比べると、ずいぶんと成長しているじゃないか。実は英国で赤い竜に変化してしまった日本人女性がいてね……、その対応に知恵を貸して欲しいんだ」
「英国で赤い竜? 僕のささやかな人生など吹っ飛ばすね。いや、世界を吹っ飛ばしかねない問題か」
「金の竜が棲んでいる我が国としては、同じ島国として放っておけない話ではあるね」

 そうして、ようやく芹沢裕也は本題を切り出したのだった。

 (了)

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