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父への心のこり

昔は父のことを好きでも嫌いでもなかった。
でも今は感謝してもしきれない。

中山間地の田舎ならどこにでもある、元を辿れば小作人という貧乏兼業農家。
趣味や娯楽には縁がなくただ黙々と仕事をする父のことは、なんだか冷たく思えて私はあまり関心がなかった。

そんな父も、年の離れた末っ子の私まで育て上げた後は、なんだか肩の荷が降りて少しだけ柔らかくなったように思えた。
母に小言を言われながらも、唯一趣味となった畑で野菜を育て気楽に過ごしているように見えていた。
その頃は両親の穏やかな老後がずっと続くかのように感じていた。

しかしある時、前ぶれなく母の末期癌が見つかった。
…この時期にも心のこりが無くはない。

半年ほど闘病を支えて母を看取り、少し落ち着きを取り戻し始めた頃に、
「実は俺、肺が片方固まっとるんや…」
不意に父が私と二人きりのときに告げた。

私はまだ母の死を自分の中で上手く整理出来ずにいた。
正直、何を言っているのか分からず思考が停止した。

よくよく聞くと、
母と結婚するより前に、父は結核にかかったそうだ。
当時は貧しく医者に見てもらうことなど出来ず、死ぬかと思う高熱に数日耐え、自宅でなんとかやり過ごしたらしい。
それからは走ることが困難になり、力仕事も人より続かなくなったとか。
ずいぶん後の健康診断でレントゲンを撮り後遺症を知ったというが、「どうせ治らないから」という理由で一度も治療は受けていなかった。

そんなやり取りの後、 日ごと私の中で過去の記憶が蘇った。フラッシュバックというやつかもしれない。

畑仕事をしている横で、農具で遊んで怪我した幼い私を急いで病院に連れて行ってくれたこと。
大学へ進学するからと田植えの手伝いもしない自転車通学の私を、雨の日は夜勤明けでも文句言わず車で送ってくれたこと。

そういえば父が走っている姿を見たことがないな?
近所の父の評判は真面目な働き者って感じだけど?
昔は障害者差別が色濃く残っていたから言えなかったのかな?
子供を育て上げるまでと意地を張っていたのかな?
小柄で気弱そうに見える父も、結局は責任感の強い寡黙で頑固な昭和親父だったのだ。
なぜか納得した。

そうすると今まで感じていた戸惑いが、感謝の気持ちで塗りつぶされた。
平凡なお爺ちゃんでも歴史を紐解くとスーパーマンに思えたりするもんだ。

それから月日が過ぎ、母が亡くなってから10年弱。
いつの間にか兄夫婦が別居して父は一人になっていた。

要介護認定されてからも、
「お兄ちゃんやお姉ちゃんは忙しいから」
と子供達には迷惑をかけたくない様子、というか意地張り。
しかし、いよいよ自立した生活が難しくなってから、
「一緒に暮らしてくれないか?」
父からの頼みを私はどうしても断れなかった。

父は苦しいよりはいいと在宅酸素療法を受け入れた。
遅れ馳せながら障害者手帳も交付された。

余生を穏やかに過ごしてほしいという思いとは裏腹に、福祉の協力があるとはいえ一人介護は想像以上のストレスだった。
タラレバの後悔や葛藤の日々。

最後は病院に頼らざる得なかった。
亡くなる少し前、リモート面会の画面越しに父が弱く震えた声で
「いままで色々ありがとう…」。
突然の感謝に喜びがこみ上げたが、素直に受け止められなかった。
そんなこと言うなよ。そんなに上手に出来てないだろ。
頷きながら意味もなく心の中で否定していた。

でも大切な言葉として私の中に生涯残るのは確実だ。
いくばくかの心のこりも…

まだ梅が咲き始める前のことだが、気持ちを切り替えるにはもう少し時間がかかりそう。

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