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言葉づかれ?

春の夜の人のいない伽藍の底に
シンメトリに双子の少女がいて
遊びとはいえない殺し合いのような
キャッチボールをしている

        大槻ケンヂ「Guru」(UGS版)

夢を見ていた。

「言葉」の夢。短歌の夢だったのかもしれない。

「言葉」そのものをイメージで捉えて、そのイメージを組み立てて解読しようとする夢。

「ヒーローの返り血を浴びた」というフレーズは私にとても近い人間が作った短歌の一部だが、夢の中で「ヒーローの返り血」が鮮明にイメージ化された。ヒーローは激しく血を噴き出しながら倒れていた。その手前に茫然と立つひとり。返り血で顔も白いシャツも染まっている。

「そうか!こういうことだったのか!」と思って私はそれを見ている。

そして、上に載せた大槻ケンヂの詞が浮かんできた。

「遊びとはいえない殺し合いのようなキャッチボール」

これが、創作というものだし、そうやって創作したものを読み取る側も無傷ではいられない。

そんな目覚め。

はーしんど(笑)


そういえば、何年か(何十年か)に一度は「文字」や「言葉」の夢を見る。一番鮮烈に覚えているのは、東の山の端が、太陽が昇るように明るくなったかと思うと、「カーニバル」というキラキラの文字が虹のようにアーチを描いて出現した夢。「なあんだ、カーニバルなんだ」と思って目が覚めた。

子どもを産んだ時には、夢ではないけれど、部屋いっぱいの大きさの、筆で書いた楷書で「至福」という文字が現れた。「これが『至福』なんだ」と妙に納得した。

校舎から垂らす懸垂幕の文字を黒く塗るという作業を放課後遅くまでやっていた時には「無」という文字がずっと見えていた。「ああ、これが『無』ってやつか」と認識した瞬間「無」は消えた。でも、あまりに心地よかったので、考えることをやめて、もう一度塗る作業に没頭した。「無」を体感した経験だ。


稀有でいて、理解されにくい経験を書いてみました(笑)

そういえば、ウチの娘は小学生の頃、熱にうかされて「難しい漢字が部屋中を飛び回ってる夢」を見たと言っていた(笑) 変な親子w



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