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「教育者は爪痕を残さないのであればいる意味がない」と語る狂育者の眼球はいったい誰を見ているのだろうか


石垣島に住み始めて3ヶ月が経った。

11月の早朝でも蝉たちが求婚を始め、ひまわりは太陽の陽射しに彩りを添えている。夜には家の周りを2匹、3匹、微かな光が漂う。確かに暑い日は減っているが、石垣島の葉が紅く染まることはない。
風情はあるが季節性はない。不思議な感覚だ。

ただウデナガカクレダコ(うずむなー)や甲羅が青灰色に染まるミナミコメツキガニ達がこの時期は確認できる。おそらく石垣島の人達は福岡で生まれ育った僕とは季節性の感じ方が違うのだろう。

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僕は自然を通して人間がどこまで共生の身体性を獲得できるのかに興味を持っている

京都で柔道整復師としてデイサービスで高齢者のリハビリを担当していた時だった。
80歳近くの認知症の患者さんは毎日僕の存在を忘れ、リハビリを拒絶する。

ただその患者さんが施設から出て自然を目の前にした時だけいつも手を広げて走り始めるのだった。なんとも爽快で悔しい。彼は山登りが道楽だったらしい。彼は自然を通して身体を動かした。

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自然と人間は境界線はあるのもしれないし、ないのかもしれない。カメラの中ではその境界線がほどけるように滲んでぼやける。それは僕たちで眼球では捉えられないだけで僕の知能では解決できないだけで何かがある。

そもそも見えないものがないと思っている事自体おこがましい。


共生とは人間と自然の境界にあり、文化との対話性であり、当事者性と他者性の融和であると僕は思う。

その自然と対話する為には、時には文化人類学のような自分の価値観を一旦違う場所に置けるスキルが重要だ。これが中々難しい。自分の価値観の中で自然、文化、他者を見つめると、それはあくまでも自分の世界であり既に色がついてる。

自分の価値観で物事を見つめている間は自然との対話は完全ではない。

僕も人間関係でよく間違う。いつも反省する。

最近とある教育者からお酒を飲みながら浴びせられた言葉を記しておく

「お前の友人や恋人との関係性は淡白すぎる。お前の考えは間違っている」
「教育者は爪痕を残さないのであればいる意味がない」
「親から許可をもらえていれば叩いてもいい」
「君が感性で生きていけるまであと5年かかるだろう」


そうそうこんな感じである。実に香ばしい。

おそらくこの人が歩んできた人生からは僕は脱線しているのであろう。僕はこの人の話を聞いていると、この人はいったい誰を見ているのであろうと疑問に思う。
その人の眼球に映る僕は僕ではあるが僕ではないことに気づいているのであろうか。


その人にとって僕の生きてきた人生自体が文化であることに気づいていないし、鑑賞する力がない。そして他の文化に対して優劣をつけたり否定をしてくる。
そしてこの人の子供の為と言っている行動自体が偏見で覗いた幻影に対する正義がいつも暴力的である事に気づいていない。

こういう人はそもそも課題発見や課題解決ではなく、何らかの快楽に溺れたいのであろう。
それが青春時代の未練なのか、盲目的な正義なのか。
そんなことは僕にはどうでもいい。

子供にとってもどうでもいい。

意味のない時間を過ごす意味だったり
興味はあるが無関心が子供を育てたり
夢を強要しない事が夢を持つ環境だったりする。時には見下ろして評価して褒める。時には目線を揃えて感謝する。時には見上げて子供から学び教えを解く。味わう感性を磨き、過程を楽しみ、共に育っていく共育でありたいなと思う。


僕は子供に僕の爪痕を残しに石垣島に来たのではない。

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