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『東のエデン』が憂いた、若者を軽視する社会の行末

 神山健治作『東のエデン』というアニメ作品をみなさんはご存知だろうか?
 『東のエデン』は2009年にノイタミナ枠で放映された、Production I.G制作のオリジナルアニメ作品である。

イラスト: 羽海野チカ、©️東のエデン製作委員会


 ストーリーは概ね下記の通りだ。
 ある日、記憶喪失の青年が目を覚ますと、手に持っていたのは82億円の電子マネーがチャージされた謎の携帯電話であった。
 その携帯電話はノブレス携帯と呼ばれる代物であり、当初100億円がチャージされた状態で13人のセレソンと呼ばれる人間に配布されたものであった。
 その携帯でコンシェルジュに電話を掛ければ、100億円の範囲内で実現可能な願いを自在に叶えられるという、まさに魔法の携帯…しかしながら、その使用用途は「いかなる方法も問わないが、衰退する日本の未来を救う用途に限られる」というものであった。
 この国の救うことを目的に選ばれた身分・年齢・性別も異なる13人のセレソン…この国を最初に救えた1人以外は最終的に存在を抹消されてしまうという。
 記憶を無くす前の自分は何者だったのか?
 セレソンゲームとは一体何なのか?
 そんな疑問を胸に奔走する主人公と、様々な問題を抱えるこの国の現状を描いた、SFサスペンス作品である。

 要約すればこんな感じであるが、当時大学生であった私がリアルタイムで視聴し、強い感銘を受けた作品である。
 今から約15年前の作品であるが、作品の描いた数々の問題は、今尚この国で深刻化している。
 その中でも特に印象的だったのが、「若者と上がりを決め込んだ大人達」の抗争だ。
 
 若者は圧迫面接やパワハラで一方的に虐げられる弱者である上、いくら会社の利益が上がろうとも賃金は安いまま。
 対して大人達はというと、年功序列で昇給し、後はいかに平穏に就業して退職金を得ることにしか頭にない…若者なぞ鼻から熱心に育成する大人など少数派という、まさに〝上がりを決め込んだ大人達〟なのである。

 この作品はとてもニュートラルな視点で現代社会を捉えており、大人側の視点にも立ち、もちろん若者達にも非がないわけではないということ描写していた。
 若者は仕事を選り好みし、ちょっとでも仕事が辛ければ会社を見限り辞めてしまう。
 そして大人に教えを熱心に乞う誠実さを有した若者も少数派である状況。
 酷い場合には経済的自立を諦め、親の扶養でニートと化してしまうという、この社会の未来の担い手にしてはあまりに稚拙な存在としての一面が描かれている。

 少子高齢化が進む中、この両者の確執の悪化が、この国の衰退を加速させていることを、主人公は憂いていた。

 社会人になった今ならはっきりと言えるが、若者を使い捨ての奴隷としか考えていない大人達は、残念ながらフィクションの存在などではなく現実に存在する。
 彼らも以前は虐げられてきた若者の1人であったはずであるにも関わらずだ。
 そして、会社の収益が上がっても何故か社員の給料は殆ど上がらないというミステリーも当然存在する。
 挙げ句の果てに少子化の影響で政治は人口の多数を占める高齢者優先の政治を執り行う始末。
 現代社会において大人達は口では「未来を担う現代の若者達のために」などと形容しつつも、その実酷く若者達を軽んじているのだ。

 そんな中で主人公が思い至ったのが、「若者全員がニートになってしまえば、大人達は流石に困って考えを改めるのではないか?」
ということだ。
 どんなに上がりを決め込もうが、社会を回す歯車である若い労働力が一斉にストライキを敢行すれば、この社会は変わるのではないか。

 そんな極めて斬新な解決法を提案したわけだ。

 あれから15年経つが、私が思うに東のエデンの主人公の想定を遥かに超えて、大人達は更に上を行く小賢さを有していた。
 若者が労働に定着しない、しかしながら賃金は上げたくない大人達はどうしたか?
 …答えは単純かつ実に醜悪だった。
 大人達はあろうことか、外国から安い労働力を大量に輸入したのだった。
 単に重労働を課す対象が、日本の若者から技能実習生と名付けられた海外の若者にシフトしただけであったのだ。

 断っておくが医療・介護・農業・漁業など多岐の分野において外国人労働者の方々が我々若者に成り変わることによって現代の日本社会が回っていることは重々理解しているし、その恩恵にあずかっている身としては彼らに心底敬意を表する。
 しかしながら、私はここで敢えてはっきりと怒りを込めて言うが、このような選択肢を選んだ大人達は近い未来、大いなるしっぺ返しを喰らうであろうという呪いの言葉を、ここに遺しておく。

 確かに若者が肉体労働を忌み嫌っている最中、急速に進む高齢化に対応するには、苦渋の決断であったことは理解する。

 しかし、単純に考えて欲しい。
 勤勉な日本の若者でも尻尾を巻いて逃げ出すほどの職務内容に、果たして外国の若者が耐え得るだろうか?
 そして彼らの愛国心はあくまで彼らの国々に向けられているものであり、日本という一時ステイ先に対する憂国の情も当然有していない(有していたら逆に怖い)。

法務省発表の技能実習生の失踪者数の推移

 法務省が発表する技能実習生の失踪者の推移によれば、令和4年の失踪者の総数は9006人であるそうだ。
 年々このペースで失踪者が増加して行けば、いずれ失踪者が強力なコミュニティと難民街を形成するのは最早時間の問題だろう。
 
 日本の若者を捨て置き、海外の労働力を大量輸入した大人達。
 その代償を払うのは、皮肉なことに決断した当人らではなく、きっと未来を担う日本の若者達なのだろう。 



 最後になるが、ここで『東のエデン』作中において引用される〝ノブレス・オブリージュ〟という言葉をご紹介しよう。


「大衆とはただ欲求のみを持っており、自らは権利だけ有するも、義務を背負っているなどとは考えもしない」、「大衆とは、自らに義務を課す高貴さを欠いた人間である」と指摘した哲学者・ホセ・オルテガ・イ・ガセット

 ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)はフランス語で、「高貴な者は義務を有する」という意味だそうだ。
 作中では「持てる者の義務」と解釈されている。
 日本で言う武士道精神のようなものだが、殺伐とした作中で幾度となく出てくるこの言葉の価値観はとても尊く、故に当時リアルタイムで鑑賞していたファンの1人として今尚頗る気に入っている言葉だ。
 
 余談だが、作中に登場するセレソンはそれぞれ成り立ちは違えど、決して恵まれた側の人間達だとは言い難い。
 それぞれ日本という一国の衰退と面と向かって立ち向かい、挫折した者達だと、自分は解釈している。
 つまりは「持たざる者」なのだ。
 そんな彼らにセレソン携帯を与えたことにより展開するこの物語は、それを画面越しに鑑賞する視聴者に対して、ノブレス・オブリージュとは果たしていかなるものなのかということを説いてくる。
 
 この記事を読んで少しでも興味を持った方には、是非ともご鑑賞いただきたいところである。
 約15年前の作品とはいえ、今尚褪せることのない魅力がある。
 
 そして、拙く不快極まる文章ながら、最後まで本記事を読んで下さった読者の方々へ、敬意を込めて、恥ずかしながらこの言葉を改めて贈りたい。

 ノブレス・オブリージュ、貴方がこの国の救世主たらんことを。

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