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電話の歴史博物館

 今や「ダイヤルを回す」という表現など、すっかり死語だろう。通信の進化の結果、電話はもはやデバイスの中の一機能に。家庭の固定電話も、街の公衆電話も、数が少なくなった。
 電話機が通話に限定された機械だった時代も長かったわけだが、1つの機能に特化した機械というのは、独特の重厚な存在感があるもの。モスクワの「電話の歴史博物館」は、ロシアや欧米諸国の電話機を数多く展示する博物館だ。私は2015年の開館直後に訪れたが、どうも見切り発車でスタートした感があり、収蔵品はまだ少なめで、展示はやや寂しい印象を受けた(そもそもオープン翌日あたり行ったら、告知に反してまだ開館しておらず、さすがにクレームを入れたら、平謝りのメールが来た)。現在ではコレクションも増え、見応え充分な施設となっているようだ。
 この記事では同博物館の展示品、前半は欧米の古い電話機を、後半ではソ連の電話機などをご紹介しよう。

 さて周知のとおり、グラハム・ベルが1876年に実用的な電話機を発明。その注目度は非常に高く、早々に実用化が進められ普及していった。翌年(明治10年)には、早くも日本に輸入されている。
 想像に難くないが、初期の電話機は高級品。したがって、中には当時の流行も取り入れた、優美なデザインや装飾が施されている物も少なくない。例えば、この1895年製の壁掛け式電話機Elektrisk Bureau Kristiania(ノルウェー)は見事な寄木細工が美しく、一風変わったインテリアのようでさえある。

Elektrisk Bureau Kristiania
Elektrisk Bureau Kristiania

同じ壁掛け式でも、スウェーデンの1905年Ericsson製ははるかに地味だが、やはり木と銀色の色合いが魅力的だ。上のモデルと違い、送話器と受話器が1つの把手にまとめられている。

1905年Ericsson製

アメリカのWestern Electric製の電話機は、騒音対策を施した特殊なモデルで、工場や取引所、スタジアムなど、騒音の激しい場所での使用を想定している。1921年製。

Western Electric

ツインテールのサイクロプスみたいなこちらは、1912年Alfred Graham & Co(英)製の船舶用電話機。大型客船などに搭載されたもので、タイタニック号で使われていたのも、このモデルである。

Alfred Graham & Co

変わり種もある。Siemens & Halskeが1950年代に少数を実験的に製造したモデルだが、使い勝手は悪かったようだ。回転ダイヤルの形状が独特で、この写真だと分かり難いが、受話器を置く場所も皿型になっている。

Siemens & Halske

展示の中心は欧米の電話機で、ロシア・ソ連製の物は比較的少ない。ソ連において電信・電話の普及がよりスローペースだった事と無関係ではないだろう。原因はやはり、1917年の革命とその後の混乱である。

ロシア帝国でも電話機に対する注目度は高く、1882年には運用が始まった。当初の加入者数は26世帯。初めは3ケタ、後に4ケタの電話番号になった。

エリセーエフ兄弟商会の商品容器。
見えにくいが、右側に電話番号Телефонъと4ケタの番号がある

 この頃、電話の一カ月の使用料金は実に250ルーブル。教員の月給が25ルーブルの時代である。

 1917年1月時点で、ロシアの電話加入数は23万2千。電話は順調に普及しつつあると思われたが、ここで革命が勃発する。新政権は1919年に電話事業を国有化。個人の所有する電話機は接収され、軍や警察、国家機関などに割り当てられた。自宅に引かれた電話回線といった個人的な電話通信は党幹部がほぼ独占し、その他は少数の名士や医師が使用できるのみだった。電話事業はネップの時代に独立採算制に移行する。
 電話の加入者数が革命前の水準まで回復したのは1923年。電話事業の復旧には、スウェーデンのEricsson、ドイツのSiemensの協力があった。1926年には国内初の自動電話交換局が始動した。
 自動電話交換局は従来と異なり、電話交換手を必要としない。交換手という職業がすぐに消滅したわけではないが、自動交換局への転換は、外国の諜報活動に過敏になっていたソ連の事情を反映したものだった。重要な会話を、交換手に聞かれては困るのである。
 1927年から、レニングラードを皮切りに、街角に公衆電話が設置されるようになる。この頃はまだ、電話交換手を通す必要があった。。公衆電話自体は帝政末期から設置が始まっていたが、内戦の混乱でほぼ失われていた。固定電話機の普及が遅々として進まないまま、ソ連末期まで公衆電話は市民にとって重要な通信インフラとして重宝されていた。

ソ連時代の電話ボックス。通信省が製造した
公衆電話、ソ連末期のタイプ。画像はwikipediaより。

 1936年には、加入数100万に達したが、これでもまだ全人口の0.6%である。電話はまだまだ、ステータスシンボルですらなく、権力の象徴であった。権力者としての地位が高いほど、執務室のデスクには専用回線の電話機が多く並んだのである。

”ヴェルトゥシカ”と通称された、政府の特別通信回線用の電話機。これは1978年製。

 結局、固定電話の普及は低調なままソ連末期を迎えた。
 世界で初めて実用的な手持ち型の携帯電話が発売されたのは1983年。アメリカのMotorolaが開発したDynaTAC 800Xである。ロシアでは1991年から携帯電話の使用が可能になり、主にフィンランドのNokia製が流通した。ケータイが徐々に普及していくことで、初めて個人的な通信手段がロシア全域に行き渡ったのである。

1940年頃、ソ連製の電信機。
同上、裏側。
1920年代初期、ソ連製の壁掛け式の電話機
ロゴの部分を拡大。実はEricsson社のロゴに鎌と槌のマークと、М.Г.Т.С.(モスクワ市電話網)の文字を重ねたもの
1961年ソ連製の電話機。本体の素材はベークライト。ダイヤルにキリル文字のアルファベットが入っている。1960年代半ばまで、ソ連もアメリカと同様の数字+アルファベットの混在した電話番号を使用していた。
船舶用電話機TAC-47M型、1950年代ソ連製。受話器のかけ方が独特。
防塵電話機、TA-200型、1970年頃。メタリックなボディと、いかにも実用一辺倒なデザインがたまらない!

 筆者も年代的にギリギリ、家にダイヤル式の電話機があった世代だ。リサイクルショップなどで見かけると、つい買いたくなってしまう。
 モスクワにいた頃、近所の家電量販店でいかにもレトロな、20世紀初頭くらいのアール・ヌーヴォー調のデザインの電話機を見つけた。これは!と思って駆け寄ったが、なんと回転ダイヤルはダミーで、実はプッシュボタン式だった。筆者はずるずると悲しみを引きずって店を出た。

 モスクワの「電話の歴史博物館」も、今ではずいぶん展示が充実して、すっかり立派で華やかになったようだ。もしモスクワに戻る機会があれば、訪れてみたいものである。


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