![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/37025378/rectangle_large_type_2_c8e7e792bd5a762d334d4968e6b3ec61.jpg?width=800)
私を映画につれてって 30~60年代の映画ポスター
今回は、ソ連の1930~60年代のポスターを見ていこう。画像クリックで拡大可。
アヴァンギャルドと実験精神の時代は短かった。1930年代初めから提唱されてきた悪名高き「社会主義リアリズム」の推進により、芸術分野は大打撃を受ける。映画も厳重な検閲が行われ、脚本から役者の人選に至るまで国家の管理下に置かれた。
映画ポスターにも変化が生じる。ポジティブな高揚感と、人物の力強いポージングが多く見られるようになり、全体に色調も明るい。
本稿と次回(70年代以降)は、ポスターの作者としてホーモフ、オストロフスキー、カラカーシェフの3人の名前が頻出する。この3人の作品が展覧会に多く出品されていたためでもあるが、実際、多くのポスターを手掛けたポスターデザインの大家たちなのだ。特にオストロフスキーは作風の幅広さにも注目して頂きたい。
![1931年「黄金の山々」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/35881365/picture_pc_0a903e0bf687bb8efe319f58bd62ef18.jpg?width=800)
セルゲイ・ユトケーヴィチ監督作品「黄金の丘」(「Златые горы」1931年)。まだこの頃は20年代のポスターの特色が色濃く残る。
![1934年「チャパーエフ」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/35881487/picture_pc_e2f28754982b4d16a3b090d0d54f6063.jpg?width=800)
「チャパーエフ」(「Чапаев」1934年)は、実在した内戦期の赤軍の勇将・ヴァシーリー・チャパーエフの活躍を描いた映画。絶大な人気を誇り、ミームとなった映画の1つである。
![1934年「雷雨」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36121777/picture_pc_fa6f21f08262a6ddc3bef4a8e44da3b1.jpg?width=800)
「雷雨」(「Гроза」 1934年)は、アレクサンドル・オストロフスキーの戯曲の映画化。人物と後景のコントラストが見事。
![1935年「アエログラード」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36121899/picture_pc_499298629fbb4c004730d5a3a583b646.jpg?width=800)
「航空都市」(「Аэроград」 1935年)。英雄像を思わせるアングルと配置。
![1935年「パイロットたち」1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36236632/picture_pc_5fc20be9d46ebd264dd6c36349464c8e.jpg?width=800)
ユーリー・ライズマン監督、「パイロットたち」(「Летчики」1935年)。人物を大きく描く手法はこの時期のポスターに共通する。ポスターの作者はニコライ・ホーモフ Николай Хомов。
![1935年「宇宙飛行」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36237303/picture_pc_7b7c411710d1c12f4fa39709823286ee.jpg?width=800)
「宇宙飛行」(「Космический рейс」1935年)は、初期のSFの傑作とされる。脚本の執筆にはかのツィオルコフスキーがアドバイザーとして参画し、当時としては科学的な考証も正確である。
![1939年「ショルス」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36238828/picture_pc_e081e0460133719af953ca17e9702550.jpg?width=800)
「ショルス」(「Щорс」 1939年)。内戦の英雄ニコライ・ショルスが主人公。分かりやすい革命的パトスが迸る。ポスターデザインはニコライ・ホーモフ。
![1940年「ティムールと仲間たち」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36253523/picture_pc_d3c304302d21616737ca7aa4bf2547c0.jpg?width=800)
「チムールとその隊員たち」(「Тимур и его команда」 1940年 「チムール少年隊」とも)は、児童文学者アルカージー・ガイダルが原作。
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36313377/picture_pc_4339121b58fe8fa3ad233ad40b4d2868.jpg?width=800)
左から「音楽物語」(「Музыкальная история」 1940年)、「強気な女性」(「Девушка с характером」 1939年)、「4人のハート」(「Сердца четырёх」 1941年)。いずれもコメディ映画。
![1941年「スヴォーロフ」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36314160/picture_pc_361077f72f1302af5529716d13b4342d.jpg?width=800)
フセヴォロド・プドフキンとミハイル・ドッレルの共同監督による伝記映画、「スヴォーロフ」(「Суворов」 1940年)。
![左1942年「我が町の若者」右1941年「ワレリー・チカロフ」2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36366132/picture_pc_c737fbf428bb8a18a5731bbfab5783bf.jpg?width=800)
左は、コンスタンチン・シーモノフの戯曲「我が町の若者」の映画化作品(「Парень из нашего города」 1942年)。スペイン内戦から大祖国戦争までが題材。右は、「ヴァレリー・チカロフ」(「Валерий Чкалов」 1941年)。同名の、ソ連の伝説的パイロットを描く。2つのポスターはいずれもニコライ・ホーモフの作品。ホーモフは1920年代から70年代まで長く活躍したポスターデザイナーである。
![1944年「少女がいました」(ポスターは50年)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36368845/picture_pc_d906f56f63cd99912be090b9fd52f8ec.jpg?width=800)
第二次大戦中のレニングラード包囲網を生きる子供たちを描いた「少女がいました」(「Жила-была девочка...」 1944年)。ただし、ポスターは1950年のもの。
![画像13](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36369307/picture_pc_367636b4d81b51900b8a39c1ec1d4651.jpg?width=800)
「10月のレーニン」(「Ленин в октябре」1937年)。ポスターは1949年のもの。
スターリン時代はイデオロギーが枷となり、映画製作は質量ともに不作であったのは、「銀幕のソ連史」に書いたとおりである。1956年の第20回党大会におけるフルシチョフのスターリン批判を1つの契機に、いわゆる「雪解け」の時代が到来。限定的ではあるものの創作への規制も緩まり、ソ連映画は飛躍の時を迎えた。この時期、フランスのヌーヴェルヴァーグ、イタリアのネオリアリズモの影響もあって、作風の幅も広がっていく。
この時期は映画ポスターの図柄も多様化し、メタフォリックな表現も増えてくる。
![1956年「イリヤ・ムーロメツ」2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36437364/picture_pc_5b08aa46b9bd5c6c4e9a9bc7b2793799.jpg?width=800)
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